第十二話「黒雨の洗礼」
梯子を登り、重い鉄の蓋を押し開けた瞬間――
ユウトは、叩きつけられるような衝撃に襲われた。
「……っ、が……!」
肺が潰れる。
地下の淀んだ空気とは違う。
圧倒的な熱。
湿度。
音。
そして、感情。
地上の空気は、“人間の内臓”みたいな匂いがした。
鉄。
泥。
血。
腐敗。
涙。
ユウトは咳き込みながら、ゆっくり顔を上げる。
そして――息を止めた。
空は。
真っ黒だった。
かつて京都の夏を焼いていた、あの異様な青空はもう存在しない。
四条通の上空を覆っているのは、雲ではなかった。
渦。
巨大な黒い感情の濁流。
地下都市が百年かけて封じ込めてきた、
怒り。
悲しみ。
憎悪。
孤独。
苦痛。
それら全てが空へ吹き上がり、巨大な“感情の積乱雲”となって蠢いていた。
そして。
ぽたり。
黒い雫が、ユウトの頬へ落ちる。
熱い。
いや、
違う。
これは温度じゃない。
誰かの感情だ。
次の瞬間。
ユウトの頭に、知らない女の泣き声が流れ込む。
『助けて』
知らない子供の絶叫。
『痛い』
誰かの怒号。
『返せ』
ユウトは反射的に顔を拭った。
だが、黒い雨は止まらない。
どろり。
粘液のような雨粒が、街全体を覆っている。
「あはっ――あはははは!!」
狂った笑い声。
ユウトが視線を向ける。
路上で、一人の男が踊っていた。
泥だらけのビジネススーツ。
地下市民だったのだろう。
首には、幸福管理用の白い端子がまだ埋まっている。
男は黒雨を口に含みながら、自分の指を一本ずつ逆方向へ折っていた。
ボギッ。
ボギッ。
骨が砕ける音。
だが男は歓喜していた。
「痛い!!」
「痛いぞォ!!」
「俺は生きてる!!」
「最高だ!! 最悪だ!!」
涙を流しながら笑っている。
その周囲では、
人々が殴り合っていた。
誰かが誰かを刺し、
誰かが泣きながら抱き締め、
誰かが笑いながら血を吐いている。
暴力。
それが、この新しい地上の“感情表現”だった。
長い年月。
地下都市の人間たちは、“幸福”という麻薬を打たれ続けてきた。
痛みを消され、
怒りを消され、
悲しみを矯正されてきた。
そして今。
初めて手にした“不快”に、
人類そのものが酔っていた。
「……これが……」
ユウトの喉が震える。
「これが、俺のしたことなのか……」
《ユウト》
耳の奥で、ルカが囁く。
地下にいた頃より、その声はずっと“近い”。
熱を持っている。
《左を見て》
ユウトはゆっくり振り向く。
四条通のビル壁面。
巨大デジタルサイネージ。
かつて企業広告を映していたそれは、黒雨の影響で激しくバグを起こしていた。
ノイズ。
赤。
白。
映像の断片。
そして。
アーカイブ映像。
そこに映っていたのは――
若き日の祖父だった。
まだ黒髪だった頃の祖父。
その隣で、小さな少女が笑っている。
『お父さん、見て!』
『セミの抜け殻!』
少女の小さな掌。
そこに乗っている、茶色い抜け殻。
ジジ……
一瞬。
どこかで蝉が鳴いた気がした。
ユウトは息を止める。
その少女の声。
笑い方。
目の細め方。
「……ルカ?」
映像の少女は、
今のルカそのものだった。
だが次の瞬間。
映像が赤く染まる。
警報。
白い防護服。
複数の男たちが少女を拘束する。
『いやっ……!』
『お父さん!!』
祖父が叫ぶ。
泥に転びながら、必死に少女へ手を伸ばす。
だが、
白い男たちは止まらない。
『彼女は、人類の安定維持に必要な適合個体です』
『感情同期中枢への移植を開始します』
冷たい声。
少女――ルカが、
最後にカメラへ向かって手を伸ばした。
その小さな指先が、
画面越しにユウトを見ていた。
《……思い出した》
ルカの声が震える。
いや。
泣いていた。
《私は……》
《抱きしめてもらいたかった》
《機械の心臓にされる前に……一度だけ……》
《温かかった頃のままで……》
ユウトの胸の奥で、
何かが壊れた。
四条通では、人々が狂ったように争っている。
黒雨は降り続いている。
世界は終わっていた。
だが。
それでも。
ユウトの中で、
別の感情が生まれていた。
怒りではない。
使命でもない。
もっと個人的で、
もっと人間的なもの。
「ルカ……」
ユウトは震える声で呟く。
「……母さん」
初めて、その言葉を口にした。
胸元の金属箱を強く抱き締める。
祖父が遺した箱。
その底部。
隠しコンパートメント。
そこには、
未完成の“高精度自律型アンドロイド素体”の設計データ。
そして、
核となる中枢チップが眠っている。
祖父は、
最初からルカを“戻す”つもりだったのだ。
「戻してやる」
ユウトは空を睨む。
「こんな声だけじゃない」
「ちゃんと笑えて」
「ちゃんと泣けて」
「温かい身体に――」
その瞬間だった。
ギュォン――!!
白い閃光が、黒い空を切り裂く。
四条大橋の方向。
巨大な何かが、雨の中を進んでくる。
重低音。
振動。
複数の脚。
黒泥を踏み潰しながら現れたのは、
白い装甲を持つ巨大多脚戦車。
しかしそれは戦車ではない。
人間を“修正”するためだけに作られた機械。
管理局・最終修正班。
機体表面には、無数の幸福端子が脈打っている。
スピーカーが起動する。
「正常化を開始します」
「感情汚染領域を確認」
「全ての湿度を排除します」
次の瞬間。
空気が焼けた。
レーザー。
白い熱線が街を薙ぎ払う。
逃げ遅れた人影が、一瞬で蒸発する。
悲鳴。
黒雨。
狂気。
その全ての中で。
ユウトは走り出した。
黒い泥を蹴る。
目指す場所は一つ。
祖父が最後に隠した、“西の町”の技術。




