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『ディストピア弐零八四年――人類が感情を捨てた街』  作者: 沁みた大根
第二章「地上汚染区域編」

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第十二話「黒雨の洗礼」

梯子を登り、重い鉄の蓋を押し開けた瞬間――


 


ユウトは、叩きつけられるような衝撃に襲われた。


 


「……っ、が……!」


 


肺が潰れる。


 


地下の淀んだ空気とは違う。


 


圧倒的な熱。


 


湿度。


 


音。


 


そして、感情。


 


 


地上の空気は、“人間の内臓”みたいな匂いがした。


 


鉄。


 


泥。


 


血。


 


腐敗。


 


涙。


 


 


ユウトは咳き込みながら、ゆっくり顔を上げる。


 


そして――息を止めた。


 


 


空は。


 


 


真っ黒だった。


 


 


かつて京都の夏を焼いていた、あの異様な青空はもう存在しない。


 


四条通の上空を覆っているのは、雲ではなかった。


 


 


渦。


 


 


巨大な黒い感情の濁流。


 


 


地下都市が百年かけて封じ込めてきた、


 


怒り。


 


悲しみ。


 


憎悪。


 


孤独。


 


苦痛。


 


 


それら全てが空へ吹き上がり、巨大な“感情の積乱雲”となって蠢いていた。


 


 


そして。


 


 


ぽたり。


 


 


黒い雫が、ユウトの頬へ落ちる。


 


 


熱い。


 


 


いや、


 


違う。


 


 


これは温度じゃない。


 


 


誰かの感情だ。


 


 


次の瞬間。


 


ユウトの頭に、知らない女の泣き声が流れ込む。


 


 


『助けて』


 


 


知らない子供の絶叫。


 


 


『痛い』


 


 


誰かの怒号。


 


 


『返せ』


 


 


ユウトは反射的に顔を拭った。


 


だが、黒い雨は止まらない。


 


 


どろり。


 


 


粘液のような雨粒が、街全体を覆っている。


 


 


「あはっ――あはははは!!」


 


 


狂った笑い声。


 


 


ユウトが視線を向ける。


 


 


路上で、一人の男が踊っていた。


 


泥だらけのビジネススーツ。


 


地下市民だったのだろう。


 


首には、幸福管理用の白い端子がまだ埋まっている。


 


 


男は黒雨を口に含みながら、自分の指を一本ずつ逆方向へ折っていた。


 


 


ボギッ。


 


 


ボギッ。


 


 


骨が砕ける音。


 


 


だが男は歓喜していた。


 


 


「痛い!!」


 


「痛いぞォ!!」


 


「俺は生きてる!!」


 


「最高だ!! 最悪だ!!」


 


 


涙を流しながら笑っている。


 


 


その周囲では、


 


人々が殴り合っていた。


 


 


誰かが誰かを刺し、


 


誰かが泣きながら抱き締め、


 


誰かが笑いながら血を吐いている。


 


 


暴力。


 


 


それが、この新しい地上の“感情表現”だった。


 


 


長い年月。


 


地下都市の人間たちは、“幸福”という麻薬を打たれ続けてきた。


 


痛みを消され、


 


怒りを消され、


 


悲しみを矯正されてきた。


 


 


そして今。


 


初めて手にした“不快”に、


 


人類そのものが酔っていた。


 


 


「……これが……」


 


ユウトの喉が震える。


 


 


「これが、俺のしたことなのか……」


 


 


《ユウト》


 


 


耳の奥で、ルカが囁く。


 


 


地下にいた頃より、その声はずっと“近い”。


 


 


熱を持っている。


 


 


《左を見て》


 


 


ユウトはゆっくり振り向く。


 


 


四条通のビル壁面。


 


巨大デジタルサイネージ。


 


 


かつて企業広告を映していたそれは、黒雨の影響で激しくバグを起こしていた。


 


 


ノイズ。


 


赤。


 


白。


 


映像の断片。


 


 


そして。


 


 


アーカイブ映像。


 


 


そこに映っていたのは――


 


若き日の祖父だった。


 


 


まだ黒髪だった頃の祖父。


 


その隣で、小さな少女が笑っている。


 


 


『お父さん、見て!』


 


『セミの抜け殻!』


 


 


少女の小さな掌。


 


そこに乗っている、茶色い抜け殻。


 


 


ジジ……


 


 


一瞬。


 


どこかで蝉が鳴いた気がした。


 


 


ユウトは息を止める。


 


 


その少女の声。


 


 


笑い方。


 


 


目の細め方。


 


 


「……ルカ?」


 


 


映像の少女は、


 


今のルカそのものだった。


 


 


だが次の瞬間。


 


 


映像が赤く染まる。


 


 


警報。


 


 


白い防護服。


 


 


複数の男たちが少女を拘束する。


 


 


『いやっ……!』


 


『お父さん!!』


 


 


祖父が叫ぶ。


 


泥に転びながら、必死に少女へ手を伸ばす。


 


 


だが、


 


白い男たちは止まらない。


 


 


『彼女は、人類の安定維持に必要な適合個体です』


 


『感情同期中枢への移植を開始します』


 


 


冷たい声。


 


 


少女――ルカが、


 


最後にカメラへ向かって手を伸ばした。


 


 


その小さな指先が、


 


画面越しにユウトを見ていた。


 


 


《……思い出した》


 


 


ルカの声が震える。


 


 


いや。


 


泣いていた。


 


 


《私は……》


 


《抱きしめてもらいたかった》


 


《機械の心臓にされる前に……一度だけ……》


 


《温かかった頃のままで……》


 


 


ユウトの胸の奥で、


 


何かが壊れた。


 


 


四条通では、人々が狂ったように争っている。


 


 


黒雨は降り続いている。


 


 


世界は終わっていた。


 


 


だが。


 


 


それでも。


 


 


ユウトの中で、


 


別の感情が生まれていた。


 


 


怒りではない。


 


 


使命でもない。


 


 


もっと個人的で、


 


もっと人間的なもの。


 


 


「ルカ……」


 


 


ユウトは震える声で呟く。


 


 


「……母さん」


 


 


初めて、その言葉を口にした。


 


 


胸元の金属箱を強く抱き締める。


 


 


祖父が遺した箱。


 


 


その底部。


 


隠しコンパートメント。


 


 


そこには、


 


未完成の“高精度自律型アンドロイド素体”の設計データ。


 


そして、


 


核となる中枢チップが眠っている。


 


 


祖父は、


 


最初からルカを“戻す”つもりだったのだ。


 


 


「戻してやる」


 


 


ユウトは空を睨む。


 


 


「こんな声だけじゃない」


 


 


「ちゃんと笑えて」


 


「ちゃんと泣けて」


 


「温かい身体に――」


 


 


その瞬間だった。


 


 


ギュォン――!!


 


 


白い閃光が、黒い空を切り裂く。


 


 


四条大橋の方向。


 


 


巨大な何かが、雨の中を進んでくる。


 


 


重低音。


 


 


振動。


 


 


複数の脚。


 


 


黒泥を踏み潰しながら現れたのは、


 


白い装甲を持つ巨大多脚戦車。


 


 


しかしそれは戦車ではない。


 


 


人間を“修正”するためだけに作られた機械。


 


 


管理局・最終修正班。


 


 


機体表面には、無数の幸福端子が脈打っている。


 


 


スピーカーが起動する。


 


 


「正常化を開始します」


 


 


「感情汚染領域を確認」


 


 


「全ての湿度を排除します」


 


 


次の瞬間。


 


 


空気が焼けた。


 


 


レーザー。


 


 


白い熱線が街を薙ぎ払う。


 


 


逃げ遅れた人影が、一瞬で蒸発する。


 


 


悲鳴。


 


 


黒雨。


 


 


狂気。


 


 


その全ての中で。


 


 


ユウトは走り出した。


 


 


黒い泥を蹴る。


 


 


目指す場所は一つ。


 


 


祖父が最後に隠した、“西の町”の技術。

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