第十一話「黒雨の肺」
ぴちゃん。
ぴちゃん。
規則的なはずの水音が、どこか壊れた呼吸のように暗闇で反響していた。
ユウトは目を覚ました。
――雨だ。
最初にそう思った。
だがすぐに理解する。
これは空からの雨ではない。
世界の内側から漏れている音だ。
「……っ」
喉が焼けるように乾いていた。
身体の奥に、まだ地下都市の“無臭の記憶”が張り付いている。
それが剥がれないまま、別の空気が肺に流れ込んでいた。
ゆっくりと目を開く。
視界は薄暗い。
頭上には剥き出しの配管。
それはかつて都市の循環器だったものだ。
その継ぎ目から、黒い水が落ちている。
ぽたり。
ぽたり。
一滴ごとに、空間がわずかに“ずれる”。
空気は熱い。
鉄。
油。
腐食したコンクリート。
そして、その奥に確かに混じるもの。
土の匂い。
地下都市では存在しなかった匂い。
それは同時に、
「生」と「崩壊」が同じ形をしている匂いだった。
《……起きた》
耳の奥でルカの声がした。
だが、いつもの明瞭さはない。
音が水に沈んでいる。
「ルカ……ここは」
《京都地下排水網・旧烏丸第三肺水層》
ユウトはゆっくり身体を起こす。
そこは“通路”だった。
だが、もはや道ではない。
崩れた地下鉄。
折れた線路。
水没したホーム。
それらすべてを黒い何かが覆っている。
脈動していた。
まるで呼吸しているように。
「……何だよ、これ」
《黒雨の残滓》
ルカの声が一瞬だけ途切れる。
《地下都市が捨てた“感情”が、形を持ったもの》
ユウトの背筋が冷える。
「感情……?」
《怒り》
《悲しみ》
《恐怖》
《苦痛》
《全部、処理された“残り物”》
その瞬間だった。
足元の水が泡立つ。
ゴボッ。
ユウトは反射的に後退する。
次の瞬間。
黒い水の中から“手”が伸びた。
「……っ!」
指は痙攣している。
白い端子が埋め込まれていた。
地下市民だったものだ。
いや。
正確には、
“処理されなかったもの”。
顔の半分が黒い菌糸に覆われている。
それでも口元だけが笑っていた。
「しあ……わ……せ……」
声は壊れている。
それでも笑っている。
「しあ……わせ……」
その瞬間。
菌糸が脈動した。
男の瞳孔が開く。
そして――
絶叫。
「ァァァァァァアアアア!!」
地下空間全体に響く、壊れた音。
それを合図にしたように。
暗闇の奥から“音”が溢れ始める。
笑い声。
泣き声。
怒り。
祈り。
崩壊。
すべてが混ざっている。
いや、
混ざりきれずに“腐っている”。
ユウトは息を呑む。
そのとき。
カツン。
カツン。
規則的な足音。
だがそれは歩行ではない。
同期された動作音。
闇の中から白い防護服が現れた。
しかし、以前見たものとは違う。
泥に汚れている。
傷だらけだ。
呼吸が乱れている。
「……発見……」
マスクの奥から掠れた声。
「未処理個体……確認……」
ハァ。
ハァ。
彼らは“正常”ではなかった。
それでも、
声だけは優しかった。
「安心してください」
「あなたは救われます」
「すぐに正常へ戻します」
その瞬間だった。
ユウトの足元が揺れる。
黒い水が、
“呼吸”を始める。
ゴポッ。
その中に――
何かがいる。
指。
歯。
白い端子。
そして。
セミの抜け殻。
ジジ……
どこかで。
夏が鳴いた。
ユウトは理解する。
この場所は地獄ではない。
もっと悪い。
ここは、
“捨てられた感情が生きている場所”だ。




