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『ディストピア弐零八四年――人類が感情を捨てた街』  作者: 沁みた大根
第一章「地下都市編」

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第十話「雨が降る場所」

熱かった。


 


地下深部の空気は、地上の五十二度とは違う熱を持っていた。


 


肺の奥に貼り付くような、湿った熱。


油と鉄と腐敗臭。


それらが混ざり合い、呼吸するたびに喉の奥へ沈殿していく。


 


ユウトは暗い配管通路を走っていた。


 


背後では、警報音が断続的に鳴り響いている。


 


《感情汚染警報》


《同期率低下》


《ノイズ汚染拡大》


《対象K-7719を隔離してください》


 


白いスピーカーの声は、まだ優しかった。


それが逆に恐ろしい。


 


《あなたは疲れています》


《恐怖は一時的な神経錯誤です》


《安心してください》


《もうすぐ、静かになります》


 


「……黙れ……」


 


ユウトは喘ぎながら呟く。


汗が顎から落ちる。


その雫が、焼けた配管に触れ、小さく蒸発した。


 


ジジ……


 


耳鳴り。


 


違う。


 


セミの声だ。


 


祖父のキーを胸ポケットの上から握る。


古びた金属は、体温を吸い込むように熱くなっていた。


 


《右》


 


ルカの声。


 


《その先に、古い昇降路がある》


 


「お前は……どこにいる」


 


少しの沈黙。


 


ノイズ。


 


そして。


 


《もう、思い出せない》


 


その声だけが、妙に人間らしかった。


 


 


通路の先に、巨大な円形空間が現れる。


 


ユウトは足を止めた。


 


そこは、地下都市の心臓部だった。


 


無数の白いケーブル。


脈動する冷却液。


天井まで伸びる演算塔。


 


都市全体の呼吸音のような低い駆動音が、腹の底を震わせている。


 


その中央。


 


透明な円柱状の巨大タンク。


 


中には、黒い液体が満たされていた。


 


どろり、と。


 


まるで巨大な影が呼吸しているように、ゆっくり蠢いている。


 


《情動廃液貯蔵槽》


 


ルカが呟く。


 


《地下都市が、捨てたもの》


 


ユウトは理解する。


 


怒り。


悲しみ。


苦痛。


孤独。


絶望。


 


地下都市が「幸福」のために削ぎ落とした感情。


 


その残骸。


 


「……黒雨……」


 


《そう》


 


タンクの奥で、液体が泡立った。


 


その瞬間。


 


ユウトの脳裏に、断片的な映像が流れ込む。


 


泣いている子供。


 


焼けた空。


 


崩壊した街。


 


誰かの「助けて」という声。


 


そして。


 


猛烈なセミの声。


 


「っ……!」


 


ユウトは頭を押さえる。


 


この液体は、ただの廃棄物じゃない。


 


感情そのものだ。


 


都市が処理しきれなかった、人間の残響。


 


《ユウト》


 


ルカの声が近づく。


 


《もう時間がない》


 


円形空間の周囲に、白い人影が現れ始めていた。


 


管理修正員。


 


全員、同じ顔。


同じ笑顔。


 


だが。


 


その頬は微かに濡れていた。


 


「……涙……?」


 


一人の修正員が、自分の頬に触れる。


 


理解できないものを見る目。


 


「なぜ……湿って……」


 


その瞬間。


 


ジジジジジジジジジ――――。


 


都市全体へ、爆音が走った。


 


セミ。


 


地下都市中のスピーカーから、猛烈な夏の音が流れ始める。


 


修正員たちが耳を塞ぐ。


 


「停止してください」


「ノイズです」


「不快です」


「静粛を維持してください」


 


悲鳴のような声。


 


都市の白い照明が点滅する。


 


人工空が乱れる。


 


そして。


 


ドゴォン――――!!


 


天井が揺れた。


 


演算塔の一部が爆ぜる。


黒い液体が配管から噴き出し、雨のように降り注いだ。


 


修正員の一人が黒雨を浴びる。


 


その笑顔が崩れた。


 


「あ……あぁ……」


 


彼は突然、自分の胸を掻きむしり始める。


 


泣いていた。


 


初めて感情を知った赤子のように。


 


「こわい……」


 


その言葉を最後に、修正員は崩れ落ちた。


 


警報が狂ったように鳴り響く。


 


《重大汚染》


《重大汚染》


《情動汚染拡大》


《都市同期率低下》


 


ルカの声。


 


《ユウト、今》


 


巨大タンクの奥。


 


古い端末があった。


 


ブラウン管にも似た、小さな記録装置。


 


無数のコード。


 


そして。


 


乾いた白骨。


 


少女ほどの、小さな骨。


 


ユウトは息を止める。


 


《……やっと、見つけてくれた》


 


ルカ。


 


その声は、今にも消えそうだった。


 


ユウトは震える手で、祖父のキーを取り出す。


 


古い差込口。


 


合う。


 


まるで最初から、それを待っていたみたいに。


 


カチリ。


 


接続音。


 


その瞬間。


 


都市中の照明が、一斉に落ちた。


 


完全な暗闇。


 


その中で。


 


ぽつり。


 


何かが落ちる音。


 


次の瞬間。


 


地下都市へ。


 


黒い雨が、降り始めた。

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