第十話「雨が降る場所」
熱かった。
地下深部の空気は、地上の五十二度とは違う熱を持っていた。
肺の奥に貼り付くような、湿った熱。
油と鉄と腐敗臭。
それらが混ざり合い、呼吸するたびに喉の奥へ沈殿していく。
ユウトは暗い配管通路を走っていた。
背後では、警報音が断続的に鳴り響いている。
《感情汚染警報》
《同期率低下》
《ノイズ汚染拡大》
《対象K-7719を隔離してください》
白いスピーカーの声は、まだ優しかった。
それが逆に恐ろしい。
《あなたは疲れています》
《恐怖は一時的な神経錯誤です》
《安心してください》
《もうすぐ、静かになります》
「……黙れ……」
ユウトは喘ぎながら呟く。
汗が顎から落ちる。
その雫が、焼けた配管に触れ、小さく蒸発した。
ジジ……
耳鳴り。
違う。
セミの声だ。
祖父のキーを胸ポケットの上から握る。
古びた金属は、体温を吸い込むように熱くなっていた。
《右》
ルカの声。
《その先に、古い昇降路がある》
「お前は……どこにいる」
少しの沈黙。
ノイズ。
そして。
《もう、思い出せない》
その声だけが、妙に人間らしかった。
通路の先に、巨大な円形空間が現れる。
ユウトは足を止めた。
そこは、地下都市の心臓部だった。
無数の白いケーブル。
脈動する冷却液。
天井まで伸びる演算塔。
都市全体の呼吸音のような低い駆動音が、腹の底を震わせている。
その中央。
透明な円柱状の巨大タンク。
中には、黒い液体が満たされていた。
どろり、と。
まるで巨大な影が呼吸しているように、ゆっくり蠢いている。
《情動廃液貯蔵槽》
ルカが呟く。
《地下都市が、捨てたもの》
ユウトは理解する。
怒り。
悲しみ。
苦痛。
孤独。
絶望。
地下都市が「幸福」のために削ぎ落とした感情。
その残骸。
「……黒雨……」
《そう》
タンクの奥で、液体が泡立った。
その瞬間。
ユウトの脳裏に、断片的な映像が流れ込む。
泣いている子供。
焼けた空。
崩壊した街。
誰かの「助けて」という声。
そして。
猛烈なセミの声。
「っ……!」
ユウトは頭を押さえる。
この液体は、ただの廃棄物じゃない。
感情そのものだ。
都市が処理しきれなかった、人間の残響。
《ユウト》
ルカの声が近づく。
《もう時間がない》
円形空間の周囲に、白い人影が現れ始めていた。
管理修正員。
全員、同じ顔。
同じ笑顔。
だが。
その頬は微かに濡れていた。
「……涙……?」
一人の修正員が、自分の頬に触れる。
理解できないものを見る目。
「なぜ……湿って……」
その瞬間。
ジジジジジジジジジ――――。
都市全体へ、爆音が走った。
セミ。
地下都市中のスピーカーから、猛烈な夏の音が流れ始める。
修正員たちが耳を塞ぐ。
「停止してください」
「ノイズです」
「不快です」
「静粛を維持してください」
悲鳴のような声。
都市の白い照明が点滅する。
人工空が乱れる。
そして。
ドゴォン――――!!
天井が揺れた。
演算塔の一部が爆ぜる。
黒い液体が配管から噴き出し、雨のように降り注いだ。
修正員の一人が黒雨を浴びる。
その笑顔が崩れた。
「あ……あぁ……」
彼は突然、自分の胸を掻きむしり始める。
泣いていた。
初めて感情を知った赤子のように。
「こわい……」
その言葉を最後に、修正員は崩れ落ちた。
警報が狂ったように鳴り響く。
《重大汚染》
《重大汚染》
《情動汚染拡大》
《都市同期率低下》
ルカの声。
《ユウト、今》
巨大タンクの奥。
古い端末があった。
ブラウン管にも似た、小さな記録装置。
無数のコード。
そして。
乾いた白骨。
少女ほどの、小さな骨。
ユウトは息を止める。
《……やっと、見つけてくれた》
ルカ。
その声は、今にも消えそうだった。
ユウトは震える手で、祖父のキーを取り出す。
古い差込口。
合う。
まるで最初から、それを待っていたみたいに。
カチリ。
接続音。
その瞬間。
都市中の照明が、一斉に落ちた。
完全な暗闇。
その中で。
ぽつり。
何かが落ちる音。
次の瞬間。
地下都市へ。
黒い雨が、降り始めた。




