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『ディストピア弐零八四年――人類が感情を捨てた街』  作者: 沁みた大根
第一章「地下都市編」

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第九話「感情汚染区域」

熱気が、ユウトの顔へ吹き上がった。


 


白い部屋の床下。


そこは別世界だった。


 


地下都市の表層にあった、無臭の空気は存在しない。


油。


鉄。


焦げた配線。


湿ったコンクリート。


 


そして。


 


人間の匂い。


 


「……っ」


 


ユウトは咳き込んだ。


肺が痛い。


だが同時に、自分の身体が奇妙に安堵していることにも気づく。


 


ここには“生き物”の空気があった。


 


《急いで》


 


ルカの声。


 


《上層の修正班が来る前に》


 


足元の梯子を降りる。


 


ギギギ……


 


錆びた金属音。


 


地下都市では聞こえなかった音だ。


音が消されていない。


 


それだけで、この場所が管理外なのだと分かる。


 


地下深部。


 


そこは巨大な配管と蒸気に満ちた空間だった。


赤黒いパイプが蜘蛛の巣のように張り巡らされ、脈打つように低く振動している。


 


まるで。


巨大な生物の内臓。


 


天井からは結露した水滴が落ち続けていた。


 


ぽたり。


 


ぽたり。


 


その音が、異様に大きく響く。


 


ユウトは周囲を見回した。


 


誰もいない。


 


だが。


 


気配だけがある。


 


視線。


呼吸。


衣擦れ。


 


暗闇の奥に、何かが潜んでいる。


 


《前へ》


 


ルカの声に導かれ、ユウトは細い通路を進む。


 


その時だった。


 


「……あは……」


 


声。


 


女の声だった。


 


ユウトは立ち止まる。


 


暗闇の配管の隙間。


そこに、一人の女が座っていた。


 


白い地下都市の住民服。


だが泥と油に汚れ、変色している。


 


女は俯いたまま、笑っていた。


 


「あは……あはは……」


 


壊れたスピーカーみたいな笑い。


 


肩が不自然に震えている。


 


ユウトは息を呑んだ。


 


女の口元は、裂けるほど笑っていた。


 


頬の筋肉が痙攣し、乾いた唇から血が滲んでいる。


 


それでも笑っている。


 


「あはははははは……!」


 


突然、女が顔を上げた。


 


その目には涙が溢れていた。


 


なのに。


口だけが幸福そうに笑っている。


 


「幸せ……幸せです……」


 


声が震えている。


 


「だから……だから……」


 


女は自分の喉を掻きむしった。


 


爪が皮膚を裂く。


 


「止まって……お願い……!」


 


ユウトの背筋が凍る。


 


《見ないで》


 


ルカの声。


 


《その人は、“幸福固定”された》


 


「幸福固定……?」


 


《感情制御の失敗》


 


《幸福だけが、脳に残った》


 


女は床へ崩れ落ちた。


 


それでも笑っている。


 


「あは……あはは……」


 


笑顔のまま。


涙と血を流しながら。


 


ユウトは後退した。


 


すると。


 


別方向の暗闇から。


 


「……ぅ……ぅぅ……」


 


低い嗚咽。


 


配管の影に、何人もいた。


 


頭を抱えて泣く者。


壁へ爪で文字を書き続ける者。


虚空へ怒鳴り続ける者。


 


全員。


地下都市の住民服。


 


全員。


「感情」を処理しきれなかった失敗作。


 


《ここは感情汚染区域》


 


ルカの声が静かに響く。


 


《地下都市が隠してる“処分場”》


 


ユウトは絶句した。


 


「処分……しないのか……?」


 


《できない》


 


一瞬。


ルカの声がノイズ混じりに歪む。


 


《感情は、完全には消えないから》


 


その時だった。


 


ジジ……


 


耳鳴り。


 


違う。


 


これは。


 


ジジジジジ……


 


セミ。


 


ユウトは顔を上げる。


 


暗闇の奥。


 


誰かがいた。


 


壁にもたれた、一人の老人。


 


痩せ細った身体。


乾いた皮膚。


 


だが。


 


その口元だけが、微かに笑っていた。


 


老人の膝の上には、古びた携帯端末。


 


そこから。


 


微かなセミの鳴き声が流れている。


 


「……夏だ……」


 


老人が呟く。


 


涙を流しながら。


 


「まだ……夏の音がする……」


 


その瞬間。


 


地下全体の照明が赤く染まった。


 


《警告》


《感情汚染レベル上昇》


《未修正個体を確認》


 


警報音。


 


赤い光。


 


そして。


 


通路の奥から。


 


白い修正員たちが、無音でこちらへ歩いてきていた。

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