第九話「感情汚染区域」
熱気が、ユウトの顔へ吹き上がった。
白い部屋の床下。
そこは別世界だった。
地下都市の表層にあった、無臭の空気は存在しない。
油。
鉄。
焦げた配線。
湿ったコンクリート。
そして。
人間の匂い。
「……っ」
ユウトは咳き込んだ。
肺が痛い。
だが同時に、自分の身体が奇妙に安堵していることにも気づく。
ここには“生き物”の空気があった。
《急いで》
ルカの声。
《上層の修正班が来る前に》
足元の梯子を降りる。
ギギギ……
錆びた金属音。
地下都市では聞こえなかった音だ。
音が消されていない。
それだけで、この場所が管理外なのだと分かる。
地下深部。
そこは巨大な配管と蒸気に満ちた空間だった。
赤黒いパイプが蜘蛛の巣のように張り巡らされ、脈打つように低く振動している。
まるで。
巨大な生物の内臓。
天井からは結露した水滴が落ち続けていた。
ぽたり。
ぽたり。
その音が、異様に大きく響く。
ユウトは周囲を見回した。
誰もいない。
だが。
気配だけがある。
視線。
呼吸。
衣擦れ。
暗闇の奥に、何かが潜んでいる。
《前へ》
ルカの声に導かれ、ユウトは細い通路を進む。
その時だった。
「……あは……」
声。
女の声だった。
ユウトは立ち止まる。
暗闇の配管の隙間。
そこに、一人の女が座っていた。
白い地下都市の住民服。
だが泥と油に汚れ、変色している。
女は俯いたまま、笑っていた。
「あは……あはは……」
壊れたスピーカーみたいな笑い。
肩が不自然に震えている。
ユウトは息を呑んだ。
女の口元は、裂けるほど笑っていた。
頬の筋肉が痙攣し、乾いた唇から血が滲んでいる。
それでも笑っている。
「あはははははは……!」
突然、女が顔を上げた。
その目には涙が溢れていた。
なのに。
口だけが幸福そうに笑っている。
「幸せ……幸せです……」
声が震えている。
「だから……だから……」
女は自分の喉を掻きむしった。
爪が皮膚を裂く。
「止まって……お願い……!」
ユウトの背筋が凍る。
《見ないで》
ルカの声。
《その人は、“幸福固定”された》
「幸福固定……?」
《感情制御の失敗》
《幸福だけが、脳に残った》
女は床へ崩れ落ちた。
それでも笑っている。
「あは……あはは……」
笑顔のまま。
涙と血を流しながら。
ユウトは後退した。
すると。
別方向の暗闇から。
「……ぅ……ぅぅ……」
低い嗚咽。
配管の影に、何人もいた。
頭を抱えて泣く者。
壁へ爪で文字を書き続ける者。
虚空へ怒鳴り続ける者。
全員。
地下都市の住民服。
全員。
「感情」を処理しきれなかった失敗作。
《ここは感情汚染区域》
ルカの声が静かに響く。
《地下都市が隠してる“処分場”》
ユウトは絶句した。
「処分……しないのか……?」
《できない》
一瞬。
ルカの声がノイズ混じりに歪む。
《感情は、完全には消えないから》
その時だった。
ジジ……
耳鳴り。
違う。
これは。
ジジジジジ……
セミ。
ユウトは顔を上げる。
暗闇の奥。
誰かがいた。
壁にもたれた、一人の老人。
痩せ細った身体。
乾いた皮膚。
だが。
その口元だけが、微かに笑っていた。
老人の膝の上には、古びた携帯端末。
そこから。
微かなセミの鳴き声が流れている。
「……夏だ……」
老人が呟く。
涙を流しながら。
「まだ……夏の音がする……」
その瞬間。
地下全体の照明が赤く染まった。
《警告》
《感情汚染レベル上昇》
《未修正個体を確認》
警報音。
赤い光。
そして。
通路の奥から。
白い修正員たちが、無音でこちらへ歩いてきていた。




