第6話:メイドの一日と愛でる哲学
メイドの朝は早い。
日の出の一時間前に起きる。身支度を整え、栗色の髪をきっちり結い上げ、メイド服のリボンを正す。鏡を見る。よし、今日もエルドラド家のメイドにふさわしい顔だ。
廊下に出る。空気がひんやりしている。
厨房で朝食の準備を手伝い、リリーメルお嬢様の朝のお茶を淹れ、トレーに乗せて二階へ上がる。
お嬢様の部屋の前。
ノック三回。
「お嬢様、おはようございます」
「……んん」
今日の「んん」は昨日より低い。少し寝不足かもしれない。
扉を開けると、リリーメルが毛布にくるまっていた。亜麻色の巻き毛がくしゃくしゃで、ちょっとだけ頬が赤い。
(かわいい)
何百回見ても思う。何千回見ても思うだろう。
この感動は毎朝更新される。飽きるということがない。
「お嬢様、朝のお茶をお持ちしました」
「……アリアがいるから、起きられる」
ぼそっと言った。寝ぼけた声で。
(!!!!!!!!!!!!!)
心臓が五回くらい跳ねた。
でも外面は穏やかなメイドの笑み。
「ありがとうございます、お嬢様。さあ、お支度しましょう」
髪を梳かす。リボンを結ぶ。今日はピンク色。お嬢様の頬の色に合わせた。
鏡に映ったリリーメルが自分を確認して、こくんと頷く。
「よし」
(お嬢様の「よし」!!! 毎朝の儀式!!! 尊い!!!)
―――
朝食。
食堂でアーレン伯爵、ルーメン、リリーメルが揃う。
私は壁際に控えて、給仕をする。
リリーメルがスープを飲む。両手でカップを持つ仕草が、小動物のようだ。
(スープを飲むだけでかわいいとはどういうことだ。物理法則に反している)
ルーメンがこちらをちらっと見た。
目が合いそうになって、私は視線をリリーメルに戻した。
(……ルーメン様、朝から何か気にしていらっしゃるのかしら。お嬢様の朝食の具合を確認しているのだろう。さすがお兄様だ)
ルーメンの口が、一瞬だけ動いた。何か言いかけて、やめた。
そしてスープに視線を落とした。
―――
午前。
リリーメルの勉強時間。今日は歴史。
家庭教師がヴェルダニア王国の成り立ちについて語っている。
リリーメルが真剣な顔で聞いている。
時々ノートにペンを走らせる。そのペンの握り方がかわいい。書く速度が上がると、前髪がぴょこんと跳ねる。
(前髪が跳ねた!!! かわいい!!!)
難しい問題にぶつかった。
リリーメルの眉間にしわが寄る。唇がきゅっと結ばれる。
(考えている顔!!! 最高!!!)
「アリアは、お勉強、得意?」
突然聞かれた。
「少しは。でもお嬢様の方が飲み込みが早いですよ」
「そう? ふふ、もっと褒めて?」
(褒めさせてください何十年でも!!!)
「お嬢様は聡明でいらっしゃいます。きっと素晴らしい淑女になられますよ」
「もう淑女よ?」
「……はい、失礼いたしました」
リリーメルがくすくすと笑った。
この笑い声を瓶に詰めて保存したい。できないけど。日記には書ける。
―――
昼食後、少しの空き時間。
メイドとしての雑務をこなす。銀食器を磨き、花瓶の花を入れ替え、リリーメルの部屋の掃除をする。
リリーメルの机の上に、小さなメモがあった。
『アリアのすきなもの:カモミールティー、花、夕焼け、星、わたし(たぶん)』
(!!!!!)
お嬢様が私の好きなものをリストアップしている。しかも最後に「わたし(たぶん)」と書いてある。
たぶんじゃない。確定だ。宇宙で一番だ。
(このメモを永久保存したい……でもお嬢様の私物を勝手に持ち出すわけにはいかない……写しだけ日記に書こう……)
泣きそうになりながら掃除を続けた。
―――
午後の散歩。
中庭をリリーメルと歩く。春の陽が柔らかく差し込んで、花壇の花が色とりどりに咲いている。
リリーメルが蝶を見つけた。
白い蝶が花の上をふわふわと舞っている。
「あ、蝶」
リリーメルが足を止めた。指差す仕草が、絵本から抜け出したようだ。
(蝶を指差すお嬢様!!! 構図が完璧!!! 画家を呼びたい!!!)
「逃げないかな」
リリーメルがそーっと近づく。足音を殺して、小さな歩幅で。蝶は花の蜜を吸うのに夢中で動かない。
「……きれい」
指先が蝶にあと少しで届きそうなところで、蝶がふわっと飛んだ。リリーメルの髪をかすめて、空へ。
「あ」
リリーメルが空を見上げた。名残惜しそうな顔。でも笑っている。
「逃げちゃった」
「また来ますよ、お嬢様」
「……うん」
リリーメルが私の手をきゅっと握った。理由はたぶんない。ただ、握りたかっただけだ。
(お嬢様の手!!! 小さい!!! 温かい!!! これが幸福の定義!!!)
この手を一生離したくないと思った。
本気で。
―――
夕方。
リリーメルの夕食後のお茶を淹れて、一緒にひとときを過ごす。
今日も「一緒にお茶しましょう」と言ってもらえた。
向かい合ってカップを持つ。
リリーメルが今日あったことを話してくれる。歴史の授業が面白かったこと。中庭の花が咲き始めたこと。
「……アリアがいるから、楽しいの」
また言ってくれた。
二日連続だ。
(お嬢様……その言葉だけで、私は向こう三年は生きていける……)
―――
お嬢様をベッドに送って、業務終了。
自室に戻ろうとした時、廊下でドアをノックする音がした。
振り返ると、ルーメンが立っていた。
手にホットミルクのカップと、小さなクッキーが三枚乗った皿を持っている。
「……これを、どうぞ」
「ルーメン様! わざわざ……お嬢様のためのご夜食ですか? お届けしますよ?」
「……お前のだ」
一言。
そしてカップと皿を私に渡して、くるりと背を向けた。
「あ、ルーメン様、ありがとうございます!」
背中が廊下の角を曲がって消えた。
(……私のために? ルーメン様が直接持ってきてくださった?)
手の中のホットミルクが温かい。クッキーは厨房のものだが、皿の選び方が丁寧だった。小さな花柄の皿。
(お嬢様のメイドとして、お気遣いいただいているのね。ありがたい。ルーメン様は本当にお優しい方だ)
廊下の角の向こうで、ルーメンが壁にもたれていた。
(お前のために言っている)
(なぜそこでお嬢様が出てくる)
天井を仰いだ。
(……焦るな)
自分にそう言い聞かせて、自室に戻った。
―――
夜。
日記帳を開く。
今日は書くことが多い。いつも多いが、今日は特に多い。
お嬢様の寝起きの「んん」が低かったこと。
スープの飲み方が小動物だったこと。
前髪がぴょこんと跳ねたこと。
「もっと褒めて?」と言われたこと。
メモを見つけたこと。
「アリアがいるから楽しいの」と言ってくれたこと。
ルーメン様がクッキーを届けてくださったこと。
全部書いた。三ページ半。
最後に一行。
『今日も最高だった。お嬢様のかわいさは宇宙で一番だ。ルーメン様がクッキーを届けてくださった。エルドラドの人たちは皆、優しい』
ペンを置いて、ホットミルクの残りを飲んだ。
温かかった。
(明日も、この日々が続く。それだけでいい)
灯りを消した。
最高の一日が、静かに終わった。




