第3話:お兄様という生き物
ルーメン・エルドラド。
十四歳。エルドラド伯爵家嫡男。将来の伯爵。
暗い金髪。鋭い眼差し。表情筋がほぼ動かない。
初対面の人間は大体、怖がる。
でも私は知っている。
この方は、怒ったことがない。声を荒らげたことがない。
行動はいつも静かで、確かで、温かい。
お嬢様を大切にしている、立派なお兄様だ。
――今日も、リリーメルお嬢様に頼まれた本を図書室へ返しに行く。
図書室はエルドラド屋敷の北棟二階にある。天井が高く、壁一面が本棚で、空気がいつも少しひんやりしている。
扉をノックして開けると、ルーメンが机に向かって書き物をしていた。
「失礼します、ルーメン様。お嬢様からのお返しの本です」
本を差し出す。
ルーメンが手を伸ばして受け取った。
その際、指が少し触れた。
――ルーメンの手が、一瞬だけ止まった。
(ルーメン様の手、ごつごつしている。貴族の男の子にしては力仕事もされているのかしら。剣の稽古かな。お嬢様を守るためだろうな。立派だ)
ルーメンはこちらを見ずに本を受け取り、机の端に置いた。
「……ありがとう」
「また必要なものがございましたら、お嬢様にお申し付けください」
きっぱりと言って、一礼した。
メイドの基本。用件が済んだら速やかに退室する。
だが、ルーメンが口を開いた。
「……アリア」
「はい」
「……いや」
そこで言葉が止まった。
何か言いかけて、飲み込んだ。
鋭い目が一瞬だけ揺れて、すぐに元に戻る。
「……何でもない」
「……かしこまりました」
少し気になったが、追及するのはメイドの分を超える。
退室した。
図書室の扉を閉めた向こう側で、ルーメンが天井を仰いだことを、私は知らない。
―――
廊下でドレンに出会った。
白髪混じりの髪を整えた、五十代の執事長。口数は少ないが、エルドラド家の全てを把握している人だ。
「アリア嬢、図書室のご用ですか」
「はい。お嬢様のお返し本を」
ドレンが少し首を傾げた。
不自然なほど、さりげない動作だった。
「若様はよく図書室においでですが、最近は本のご返却をお嬢様ではなくアリア嬢にご依頼されますね」
「あ、そういえばそうですね」
言われてみれば、確かにそうだ。
以前はリリーメルお嬢様が直接図書室に行っていたのに、最近は「アリア、本を届けて」と言われることが増えた。
「……まあ、お嬢様のお部屋から図書室は動線が近いですから、効率的なのでしょう」
「……さようでございますね」
ドレンが遠い目をした。
窓の外の、どこか遠くを見るような目。
(? ドレンさん、どうしたのかしら。お疲れかな)
「ドレンさん、お茶でもお持ちしましょうか」
「……いえ、結構です。ありがとうございます、アリア嬢」
ドレンは踵を返して廊下を去っていった。
その背中が、なぜかちょっとだけ疲れて見えた。
―――
同じ頃、ルーメンの部屋。
ドアを開けて、嵐が入ってきた。
嵐の名前はリリーメルという。
「お兄様」
「……なんだ」
ルーメンは机に向かったまま、妹を振り返らなかった。
振り返ったら負ける気がした。何に負けるのかはわからないが。
リリーメルが兄の机の横に来て、にこにこしながら言った。
「お兄様、アリアのこと好きでしょ?」
直球。
ど真ん中。
回避不能。
ルーメンのペンが止まった。
「……」
沈黙。
完全な沈黙。
否定の言葉が出てこない。かといって肯定もしたくない。妹に対して。
「否定しないのね」
「……リリーメル」
「ふふ、そうだと思っていたわ」
リリーメルは満足そうに頷いた。十歳にして全てを見通す目をしている。
ルーメンは内心で歯を噛んだ。
(こいつ……全部わかっている……)
「リリーメル、余計なことをするな」
「しないとは言っていませんわ」
にこにこ。
その笑顔が恐ろしい。
「お兄様、わたしは味方ですわよ?」
「……そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題ですの?」
「……」
反論が出てこない。
十歳の妹に論破されている。エルドラド家嫡男として情けないが、リリーメルの弁舌は大人でも太刀打ちできない。
「……まだ、早い」
ようやく絞り出した言葉がそれだった。
ロロードとの婚約が解消されて、まだ数日しか経っていない。
「そうかしら」
「そうだ。……アリアはまだ整理がついていない」
「お兄様」
「なんだ」
「アリア、全然傷ついていませんわよ?」
ルーメンが初めてリリーメルを見た。
「……何?」
「婚約破棄の翌日から普通に働いて、わたしの髪を梳かしながら鼻歌を歌っていましたわ。あの人、ロロード様のことは最初から何とも思っていなかったんだと思いますの」
「……」
ルーメンは目を閉じた。
少しだけ、口の端が動いた。笑いではない。安堵に近い何かだった。
「……だとしても、急くな」
「はいはい。でもお兄様、いつまでも黙っていたら、他の人に取られますわよ?」
「……取らせない」
静かな声。でも、その一言に込められた密度は重かった。
リリーメルがぱちくりと瞬いて、それから、にんまりと笑った。
「その顔、好きですわ。お兄様のそういうところ」
「……帰れ」
「帰りますわ。でもね、お兄様」
扉に手をかけて、リリーメルが振り返った。
「アリアは、自分のことになると驚くほど鈍いですから。普通にやっていたら、絶対に気づきませんわよ?」
それだけ言い残して、リリーメルは部屋を出ていった。
静寂が戻る。
ルーメンは机の上に視線を落とした。
さっきアリアが持ってきた本が、端に置いてある。
その背表紙に、指先で触れた。
(……わかっている)
わかっているから、困っている。
行動なら、いくらでもできる。荷物を持つ、差し入れを届ける、隣に立つ。
でも、アリアはそのすべてを「お嬢様のお兄様としての親切」に分類してしまう。
言葉で言わなければ、伝わらない。
でも、言葉が出てこない。
(……焦るな)
そう自分に言い聞かせた。
―――
夕方。
廊下でルーメンとすれ違った。
ルーメンは相変わらず無口で、目つきが鋭い。
でも今日は、すれ違いざまにこちらをちらっと見た気がした。
(ルーメン様、何かご用かしら)
振り返ったが、もう廊下の向こうに消えていた。
背中が見えた。いつもと同じ歩幅。いつもと同じ姿勢。
でも、少しだけ――少しだけ、肩の力が抜けているように見えた。
(ルーメン様は、無口で目つきが悪いから、最初は怖い方だと思っていた)
でも三年間、この家にいてわかった。
この方は、怒ったことがない。
誰かを傷つけたことがない。
行動がいつも静かで、確かで、温かい。
お嬢様のことを大切に思っていて、使用人にも分け隔てなく接してくれる。
(……なんて立派な方なんだろう。お嬢様は良いお兄様を持った)
完全に「お嬢様のお兄様」という枠で処理して、私はメイド業務に戻った。
―――
その夜。
ルーメンは自室の窓から月を見ていた。
アリアの後ろ姿を思い出していた。
廊下ですれ違った時の、栗色の髪。きっちり結い上げた髪型。柔らかい横顔。
(……今日も、何も言えなかった)
指先がまだ、本を受け取った時の感触を覚えている。
(まだ早い。ロロードの件が片付いて間もない。焦るな。急かすな)
自分に言い聞かせる。
でもリリーメルの言葉が頭に残っている。
「アリアは、自分のことになると驚くほど鈍いですから」
(……知っている)
だからこそ、行動だけでは足りない。
いつか、言葉で言わなければならない。
それが「いつか」なのか「もうすぐ」なのかは、まだわからない。
月が静かに光っている。
エルドラドの夜は、今日も穏やかだった。




