第2話:エルドラドのお嬢様
朝。
エルドラド伯爵屋敷の二階、東の突き当たり。
花と本の香りがかすかに漏れる扉の前で、私は姿勢を整えた。
ノックを三回。メイドの基本だ。
「お嬢様、おはようございます。朝のお支度のお時間です」
返事がない。
二拍待つ。
「……うー」
来た。
扉の向こうから、この世で最もかわいい声が聞こえた。
(お嬢様の寝起き声!!! 今日もかわいい!!!)
静かに扉を開ける。
カーテンの隙間から朝日が差し込む部屋の中、ベッドの上でリリーメルお嬢様が毛布にくるまっていた。亜麻色の巻き毛がくしゃくしゃになっている。青い瞳が半分しか開いていない。
「……アリア」
名前を呼ばれた。
寝ぼけた声で。
(呼ばれた!!! 宇宙が輝いた!!!)
「おはようございます、お嬢様。今日も良いお天気ですよ」
「……んー」
リリーメルが毛布から片手だけ出して、私の方に伸ばしてきた。「起こして」の合図だ。
その手を取って、そっと引き起こす。小さな体が毛布からぽすんと出てくる。
(天使!!! 寝起きの天使!!!)
鏡台の前に座らせて、髪を梳かし始める。
亜麻色の巻き毛は夜の間に少し絡まっている。丁寧に、毛先からほどいていく。
「……きもちいい」
リリーメルが目を閉じて、首をちょっとだけ傾ける。
猫みたいだ。
(猫みたい!!! かわいい!!! この角度は絵に描くべきでは!?)
絵は描けないが日記には書ける。今夜、書く。必ず書く。
髪をまとめ、リボンを結ぶ。今日は水色。お嬢様の瞳の色に合わせた。
リリーメルが鏡に映った自分を見て、さらっと言った。
「……きょうも、かわいい」
自己肯定感の高さ。素晴らしい。完璧だ。
(そうです!!! かわいいです!!! 世界で一番かわいいです!!!)
「はい、とてもお似合いですよ、お嬢様」
声は落ち着いている。外面は完璧。内心は大騒ぎだ。
いつものことだ。
―――
朝食を終え、午前の勉強の時間。
リリーメルは十歳だが、伯爵令嬢として教養の基礎は広い。算術、歴史、地理、礼法。
今日は算術。
家庭教師が出した問題に、リリーメルが鉛筆を握って向き合っている。
私は部屋の隅で控えている。メイドとしての定位置。
だが、目はリリーメルを見ている。
お嬢様が難問に当たった。
眉間にしわが寄る。唇がきゅっと結ばれる。鉛筆の先がこつこつと紙を叩く。
(かわいい!!! 考えている顔が!!! かわいい!!!)
もう少しで解けそうなとき、リリーメルの目がきらっと光る。ひらめきの顔だ。鉛筆が走る。
「できた!」
ぱっと顔を上げた笑顔が、朝日より眩しい。
(百点!!! 百万点!!! お嬢様天才!!!)
家庭教師が「正解です」と言うと、リリーメルがちらっとこちらを見る。
褒めてほしいの合図。わかっている。三年の付き合いだ。
「さすがです、お嬢様」
にっこり。
リリーメルが満足そうに頷く。
(その頷きもかわいい)
私の内心は永遠にこの調子だ。
―――
午後。中庭の散歩。
エルドラド屋敷の中庭は広い。季節の花が咲き、小道が木々の間を縫っている。
リリーメルが野花を摘みながら歩く。私はその半歩後ろを付いていく。
白い花を一輪摘んで、リリーメルがこちらを振り返った。
「アリア」
「はい」
「アリアは、わたしのこと、好き?」
唐突な質問。
でも、こういう質問は時々ある。リリーメルは愛情の確認が好きだ。十歳だから。かわいいから。
「はい。もちろんです」
「どのくらい?」
少し考えた。
いや、考える必要はなかった。
「……宇宙の果てまでも」
言ってしまった。
素が出た。メイドとしての適切な回答は「お嬢様がお望みの限り」あたりだったのに、心が先に飛び出した。
リリーメルが目を丸くした。
一拍の間。
それから、大笑いした。
「アリアったら!!!」
お腹を抱えて笑っている。花が散った。
その笑い声が中庭に響いて、鳥が一羽飛び立った。
(あ、言い過ぎた。でもお嬢様が笑った。報酬としては十分すぎる)
「もう! 宇宙って! アリア、大げさ!」
「……申し訳ございません」
「謝らなくていいの! 嬉しかったの!」
そう言って、リリーメルが私の手を引いた。
花畑の方へ。
小さな手は温かくて、力強い。
(お嬢様の手を握っている……今日も最高だ……)
中庭のベンチに並んで座った。
リリーメルがさっき摘んだ白い花を、私の髪にそっと挿した。
「似合う」
「お嬢様……」
「ふふ」
リリーメルが足をぶらぶらさせながら、空を見上げた。
午後の日差しが亜麻色の髪を金色に染める。
「……アリア、ずっとここにいてくれる?」
昨日と同じ言葉。でも、昨日よりも静かだった。
怒りではなく、願いの声だった。
「お暇を出されない限り、いつまでも」
「……ふふ、なら、わたしは絶対にお暇を出さないわ」
にこっと笑って、リリーメルは私の肩にもたれかかった。
十歳の体重。軽い。温かい。
(このまま時間が止まればいいのに)
本気でそう思った。
―――
夕食後。
本来ならメイドの業務時間は終わりだ。自室に戻って休むのが日課。
だが。
「アリア、一緒にお茶しましょう?」
リリーメルが私の袖をつんつんと引いた。
断れるわけがない。この世に、この顔を見て断れる人間がいるなら連れてきてほしい。いないと思うが。
「……かしこまりました、お嬢様」
リリーメルの部屋で、二人分のお茶を淹れた。
ハーブティー。リリーメルのお気に入りはカモミール。私が淹れるのが一番おいしいと言ってくれる。
向かい合って座る。
カップを持つリリーメルの指が小さい。カップが大きく見える。
(かわいい……)
「今日ね、算術の問題が解けたの」
「はい、お見事でしたよ」
「ふふ。アリアが見てるとね、頑張れるの」
(……っっっ!!!)
心臓が止まるかと思った。
危ない。お嬢様の破壊力が日に日に増している。
「嬉しいお言葉です、お嬢様」
「あとね、今日の散歩も楽しかった」
「はい」
「……アリアがいるから、楽しいの」
静かな声だった。
カップの縁を指でなぞりながら、リリーメルは窓の外の月を見ていた。
(この子を、守りたい)
お嬢様への感情は、恋ではない。
推しへの熱狂とも少し違う。
親が子に向けるような、庇護の感情。
でもそこに、「この人の全部が好きだ」という熱量が乗っている。
名前のない愛だ。
でも、確かにここにある。
「お嬢様、そろそろお休みの時間ですよ」
「……もう?」
「はい。明日も良い一日にしましょう」
「……うん」
リリーメルをベッドに送り、毛布をかけた。
「おやすみなさい、お嬢様」
「おやすみ、アリア。……明日もよろしくね」
「はい。いつでも」
部屋の灯りを落として、静かに扉を閉じた。
―――
自室に戻る廊下。
ふと、窓の外の月が目に入った。
立ち止まる。
ロロードのことを考えた。
正直に言えば、「嫌われたのかな」という気持ちは、ほんの少しだけある。ゼロではない。
三年間婚約者だった人に「愛せない」と言われたのだ。全くの無傷だと言えば嘘になる。
でも。
(その傷は、お嬢様のかわいさの前では誤差だ)
二百倍くらい、お嬢様のかわいさが勝っている。
つまり今日も最高だ。
自室に入って、日記帳を開いた。
『今日も最高だった。お嬢様のかわいさは宇宙で一番だ』
ペンを置いて、ベッドに倒れ込む。
明日もお嬢様のお支度から始まる。
明日もお嬢様が笑ってくれる。
明日も、ここにいられる。
(最高だ)
目を閉じた。
――一方、そのころ。
リリーメルの部屋。
ベッドの中で、リリーメルは目を開けていた。
暗い天井を見つめて、独り言のように呟く。
「……アリアは、わたしのもの」
小さな声。でも、確かな意志がこもっている。
「だから、ずっとここにいてもらわないと。……いい方法を、考えないと」
十歳の令嬢の頭の中で、何かが回り始めていた。
それが何であるか、アリアはまだ知らない。




