第1話:解放の朝
「お前を愛することはない」
そう告げた声は、穏やかだった。
誠実な声だった。
銀髪の青年――ロロード・ファウデンは、机の上に書類を一枚、静かに置いた。
婚約解消に関する正式文書。
侯爵家の紋章入り。署名済み。
「改めて申し上げます。アリアさん、俺はあなたを愛することができない。それを理由に、婚約を解消させてください。……申し訳ない」
うつむき加減の表情。端整な顔に浮かんだのは、本物の申し訳なさだった。
エルドラド伯爵屋敷の応接室に、静かな空気が流れる。
ロロードの背後には彼の従者が控え、同席していたエルドラド家の執事ドレンは壁際で微動だにしない。
そして、私。
アリア・サロモン。十六歳。エルドラド伯爵家専属メイド。サロモン子爵家三女。
この男の、元婚約者。
外面は穏やかに微笑んだ。メイドとして、貴族の娘として、最低限の品位は崩さない。
「……わかりました、ロロード様。あなたの誠実さに感謝いたします」
内心は。
(やったあああああああああああ!!!!!!!!!)
解放された。
ついに、解放された!!!
(これで一生エルドラドにいられる!!! リリーメルお嬢様の傍に!!! ずっと!!! 神様ありがとうございます!!!!!)
いや、落ち着け私。今は「穏やかに傷ついた被害者」を演じる場面だ。目を少し伏せろ。唇を薄く結べ。ほんの少しだけ寂しげにしろ。
……よし。
完璧なメイドの面持ちができた。
「……お体にはお気をつけて、ロロード様」
ロロードが一瞬、こちらを見た。
何かを読み取ろうとする目。でも私の外面は鉄壁だ。三年のメイド修行は伊達じゃない。
「……ありがとう、アリアさん。本当に、すまなかった」
深く頭を下げて、ロロードは従者と共に退室した。
応接室の扉が閉じる。
足音が廊下を遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなるまで、私は微動だにしなかった。
壁際のドレンが「……お疲れさまでございました」と静かに言う。
「ありがとうございます、ドレン」
穏やかに答えた。
内心では全力でガッツポーズしていた。
(最高の日だ!!!!!)
――と、その瞬間。
がばっ、と応接室の扉が開いた。
「アリア!!!」
亜麻色の巻き毛を揺らして飛び込んできたのは、エルドラド伯爵家令嬢、リリーメル・エルドラド。十歳。
青い大きな瞳が怒りに燃えている。可憐な頬がぷくっと膨れている。
「あの人、ひどい!! あんな言い方!!!」
ぷりぷりしながら走ってきて、私にぎゅっとしがみついた。
小さな腕が、私の腰のあたりを全力で抱きしめる。
「アリアはわたしのだもの! あんな人に渡さなくてよかった!」
――。
(お嬢様がぎゅってしてくれている)
(怒ってくれている)
(私のために、怒ってくれている)
(怒った顔もかわいい)
(抱きしめてくるこの力加減もかわいい)
(お嬢様のぬくもりが!!! 日記に書く!!! 十ページ分は書けるやつ!!!!)
外面は、ほんの少しだけ目を潤ませた。演技だ。演技だが、この涙は半分本物かもしれない。嬉しくて。
「ありがとうございます、お嬢様。……大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃないわ! アリアが悲しいなら、わたしも悲しいもの!」
(お嬢様……!!! 尊い……!!!!)
悲しくないんです、お嬢様。むしろ今、人生で三番目くらいに幸せです。
一番はお嬢様と初めて出会った日。
二番はお嬢様が初めて私の名前を呼んでくれた日。
三番が今日。
つまり全部お嬢様がらみだ。
リリーメルは私から離れようとしない。むしろ、ぎゅうぎゅうと力を込めてくる。
「……あのね、アリア」
「はい、お嬢様」
「わたし、決めたの。アリアはずっとここにいるの。ずっと」
「……はい」
嬉しくて声が少し震えた。これは演技じゃない。
「ずっと、お傍におります」
リリーメルがようやく顔を上げて、にぱっと笑った。
太陽が出た。比喩ではなく、私の世界に太陽が出た。
(この笑顔を守るために生まれてきた)
真顔でそう思った。
―――
リリーメルをなだめて部屋に送り届け、通常のメイド業務に戻る。
婚約が解消されても、私の仕事は変わらない。むしろ、何も変わらないことが最高に嬉しい。
洗濯物を運ぶ。食器を磨く。花瓶の水を替える。
いつも通りの作業を、いつも通りにこなす。
廊下を歩いていると、両手いっぱいのリネンで前が見えなくなった。まあ、慣れている。足元の感覚で歩ける。
と、リネンの山が、ふっと軽くなった。
「……」
無言で荷物の半分を取ったのは、ルーメン・エルドラド。十四歳。エルドラド伯爵家嫡男。暗い金髪と鋭い眼差し。表情筋が動かないタイプの人。
「あ、ルーメン様。ありがとうございます」
「……」
頷くだけ。
そのまま、私の横を歩いて、リネン室まで荷物を運んでくれた。
(ルーメン様、お優しい……。お嬢様のメイドだからお気遣いいただいているのね。お兄様として、妹の使用人にも目を配る方なんだわ。なんて立派なお兄様だろう)
リネン室に荷物を置いて、ルーメンがこちらを見た。
「……大丈夫か」
短い言葉。
でも声の温度が、少しだけ低い。心配している声だ。
「はい。大丈夫です、ルーメン様」
にっこりと微笑んだ。完璧なメイドの笑顔。
「……そうか」
それだけ言って、ルーメンは踵を返した。
廊下に消えていく背中は、いつもより少しだけ歩調が遅い。
(……お嬢様に似て、お優しい方だなあ)
完全に「お嬢様のお兄様」という枠組みで処理して、私はリネンの整理に戻った。
―――
一方、そのころ。
エルドラド屋敷を出て馬車に揺られるロロードは、窓の外を見ながら眉をひそめていた。
(……アリアさん)
あの穏やかな笑顔。あの「わかりました」という声。
傷ついた人の声じゃなかった。
気丈に振る舞う人の声でもなかった。
あれは――
(あれは、本当に大丈夫な人の声じゃないか……?)
婚約を解消された女性が見せる表情にしては、あまりにも穏やかすぎた。目の奥に悲しみが見えなかった。むしろ、わずかに――光が見えた気がする。
(いや、気丈なのだ。きっと一人になってから泣いている。そうに違いない)
そう思い込もうとした。
思い込もうとしたが、アリアの声の響きがどうしても耳に残っている。
あの声は。
あの声は――安堵の声だった。
(……もしかして、俺の婚約破棄、アリアさんにとってはノーダメージだったのか……?)
いや、そんなはずはない。
そんなはずはないが――
ロロードは馬車の天井を見上げて、深くため息をついた。
(……まあ、元気なら、いい。それが一番だ)
そして、一瞬だけ、別の顔が脳裏をよぎった。
亜麻色の巻き毛。青い瞳。怒りに燃えた、十歳の令嬢の顔。
「アリアを傷つけた人」
まだ直接言われたわけではない。でも、あの目がそう言っていた。
(……リリーメル)
胸の奥で、何かがちくりと痛んだ。
この痛みの正体に、ロロードはまだ気づいていない。
―――
夜。
メイド業務をすべて終えて、自室に戻った。
小さな部屋。小さなベッド。窓から見える、エルドラドの夜空。
椅子に座って、日記帳を開く。
ペンを取る。
今日の日付を書いた。
――書くことが、ありすぎる。
婚約が解消されたこと。
ロロード様が誠実だったこと。
お嬢様が怒ってくれたこと。
お嬢様が抱きしめてくれたこと。
お嬢様が「ずっとここにいるの」と言ってくれたこと。
お嬢様が笑ってくれたこと。
ルーメン様が荷物を持ってくれたこと。
ペンが止まらない。
三ページ書いた。まだ足りない。五ページ書いた。まだ足りない。
最後に、一行だけ大きく書いた。
『今日から、お嬢様と一生一緒にいられる。最高の日だ』
ペンを置いて、窓の外を見る。
エルドラドの夜空は、いつもと同じように静かで、広くて、きれいだった。
(私はなんて幸せな人間だろう)
そう思って、目を閉じた。
これは、婚約を破棄されたメイドが、全力でお嬢様を愛でる物語である。
――ついでに、愛されることを覚えていく物語でもある。
でもそれは、もう少しだけ先の話。




