第19話:ロロードのその後
アリア・サロモンとルーメン・エルドラドの婚約が、正式に発表された。
エルドラド伯爵家から近隣の貴族家に書簡が送られ、数日のうちに社交界の話題になった。
元婚約者のメイドが、主家の跡取りと婚約。異例ではあるが、エルドラド家の当主アーレンが公認し、書簡には「家族として迎える」と明記されていた。
その知らせは、当然、ロロード・ファウデンの耳にも届いた。
―――
ロロードは、自室で書簡を読んだ。
窓の外は秋の終わり。木の葉がほとんど落ちて、枝だけが空に伸びている。
「……ルーメンか」
呟いた。
複雑な感情がある。嫉妬ではない。悔しさでもない。もっと穏やかなもの。
(……よかった。アリアさんには幸せになってほしかった)
それは本心だった。
婚約を破棄した日から、ずっと思っていたことだ。自分が与えられなかった幸せを、誰かが与えてくれるなら、それでいい。
(ルーメンなら、大丈夫だろう。あいつは不器用だが、誠実だ。俺よりずっと)
書簡を折り畳んで、机の引き出しにしまった。
少しだけ、胸が痛んだ。
でも、その痛みは、もう古い傷のようなものだった。新しく開いた傷ではない。
窓辺に立って、遠くの山並みを見た。
(あの日、俺がアリアさんに「お前を愛することはない」と言ったとき、あの子はどんな顔をしていたっけ)
思い出そうとした。でも、はっきりとは出てこない。
覚えているのは、アリアの目が泣いていなかったことだ。悲しそうではあった。でも、折れていなかった。
(あの強さが、ルーメンを惹きつけたんだろうな)
自分にはない強さだった。ロロードは自分が誠実であろうとしたことは誇りに思っている。でも、それだけでは足りないこともある。
―――
数日後。
リリーメルの十一歳の誕生日会が開かれた。
大きな宴ではない。エルドラド家の家族と、ごく親しい者だけを招いた小さなお茶会だ。
中庭の東屋に花が飾られ、秋の最後の陽光が差し込んでいる。
招待状が、ロロードにも届いていた。
アーレン伯爵の判断だった。ファウデン子爵家との関係は商談を通じて良好であり、ロロード個人への評価も変わっていない。
ロロードは少し迷ったが、出席を決めた。
避ける理由がなかったからだ。
東屋に入ると、見慣れた顔が並んでいた。
アーレン。ルーメン。アリア。マルカ。ドレン。
そして、主役のリリーメル。
リリーメルは新しいドレスを着ていた。薄紫色。アリアが選んだらしい。
髪には金色のリボン。十一歳になっても、相変わらず小さい。でも、目の輝きは大人と変わらない。
ロロードが東屋に入った瞬間、リリーメルの目がこちらを捉えた。
一瞬だけ、表情が揺れた。
嫌そうではない。でも、すんなりとも受け入れていない。微妙な顔だ。
ロロードが歩み寄った。
「リリーメル、お誕生日おめでとう」
「……ありがとうございます、ロロード様」
丁寧だった。塩ではない。冷たくもない。ただ、慎重な距離を保っている。
お茶会が進んだ。
アーレンが笑い、マルカがお茶を注ぎ、アリアがケーキを切り分け、ルーメンが隅に座って静かにお茶を飲んでいる。
穏やかな時間だった。
途中、リリーメルがロロードの隣に来た。
自分から来たのだ。ロロードが目を丸くした。
「……あなたは、アリアに対して誠実でしたね」
唐突に言った。
「えっ」
「婚約を破棄したことは許していませんけれど。でも、アリアを傷つけようとしてやったわけではないことは……認めます」
リリーメルの声は静かだった。策謀家の声ではない。大人になろうとしている子供の声だった。
ロロードは少し間を置いて、答えた。
「……ありがとう。それだけで、十分だ」
「でも」
リリーメルが続けた。
「それがわたしへの誠実さとは、別の話ですわ」
すぐに元の澄ました顔に戻った。完璧な伯爵令嬢の表情。
「……それは、認める可能性があるということか?」
ロロードが聞いた。自分でも、なぜそう聞いたのかわからなかった。
リリーメルが少し黙った。
目を逸らした。
「……まだ、わかりません」
小さな声。
ロロードの顔が、緩んだ。
自分でも止められないくらい、緩んだ。
(……なぜ嬉しいんだ俺は。十一歳の子に「わからない」って言われて……でも、これは……)
リリーメルがちらっとこちらを見た。ロロードの顔が緩んでいるのを見て、ぷいっと横を向いた。
「にやけないでくださいまし」
「……すまない」
全然すまなそうではなかった。
―――
お茶会の終わり。
ロロードが屋敷を出るとき、玄関でアリアが見送りに立っていた。
メイドの制服ではなかった。淡い青のワンピース。婚約者としての装いだ。
でも、笑顔は変わらない。あの、にっこりとした笑顔。
「ロロード様、今日はお越しいただきありがとうございました」
「……ああ。いい会だった」
少しの間。
「……幸せそうで、よかった」
ロロードが言った。本心だった。
「ありがとうございます、ロロード様」
アリアが少し微笑んだ。穏やかな笑み。
「あなたが誠実に破棄してくださったから、今があります」
(……それはそれで少しだけ複雑だが……まあ)
「……そうか。ならよかった」
ロロードが歩き出した。
数歩進んで、振り返った。
「アリアさん」
「はい」
「ルーメンは不器用だが……いいやつだ。大事にしてくれ」
「……はい。もちろんです」
ロロードが手を振って、馬車に向かった。
馬車の中で、窓の外を見た。
エルドラド屋敷が遠ざかっていく。秋の空が高い。
(……俺が婚約を破棄したことで、あの二人は出会った。そう考えると、あの決断も悪くなかったのかもしれない)
少しだけ、自分を許せた気がした。
(それに……)
リリーメルの「まだ、わかりません」が、耳に残っている。
「まだ」だ。「永遠に」ではない。
(……六年後か。リリーメルが大人になったら、もう一度、ちゃんと向き合いたい)
それは、恋と呼ぶには気が早い。
でも、種のようなものだった。いつか芽が出るかもしれない、小さな種。
窓の外を流れる風景が、秋の枯れ色から、少しだけ明るく見えた。
―――
屋敷では。
アリアがロロードを見送った後、中庭に戻った。
リリーメルがベンチに座って、ケーキの最後の一切れを食べていた。
「お嬢様、ロロード様をお見送りしましたよ」
「うん」
「……今日、ロロード様とお話しされていましたね」
「……少しだけ」
「何をお話しになったんですか?」
「秘密」
リリーメルがにっこりした。前にも聞いた答え。前にも見た笑顔。
でも今回は、少しだけ照れくさそうだった。
「……お嬢様」
「何?」
「お嬢様も、いつか素敵な方が現れますよ」
リリーメルがケーキのフォークを止めた。
「……別に、そういうのじゃないですわ」
耳が赤い。
(お嬢様の赤い耳……! かわいい……! 日記に書く……!)
「ふん。アリアこそ、のろけないでくださいまし」
「の、のろけてません!」
「顔がにやけてますわ」
私の手が、自分の頬に触れた。
緩んでいた。確かに。
「……す、すみません」
「いいですわよ。幸せそうなアリアは、好きだもの」
リリーメルが笑った。
十一歳の、素直な笑顔。
秋の最後の陽光が、二人のベンチを照らしていた。




