第18話:アリアの答えと、リリーメルの判決
翌日の夕方。
私は自分の足で、図書室に向かった。
本の受け渡しではない。リリーメルの使いでもない。
自分の意思で、自分の用事で。
廊下を歩く足が、いつもより少し重い。でも止まらない。止まるつもりはない。
昨日、中庭のベンチで決めたのだ。自分の言葉で、伝えると。
図書室の前に立った。
深呼吸。一回。二回。
ノック三回。
「失礼します」
扉を開けた。
ルーメンが、いた。
机に向かっていたが、本は開いていなかった。また、待っていた。
私が来ることを、知っていたのだろうか。それとも、毎日待っていたのだろうか。
(……毎日待っていたんだろうな、きっと)
そう思ったら、胸が痛かった。痛いのに、温かい。
「……ルーメン様」
「……ああ」
ルーメンが本を置いて、立ち上がった。
こちらを見ている。いつもの鋭い目。でも、待っている目。期待と不安が、奥の方にある。
「昨日の件なのですが」
「……」
ルーメンが黙って待っている。焦らない。急かさない。いつも通り。
私は一歩、前に出た。
「私も……ルーメン様のことを……嫌いでは、ないです」
言った。
言えた。
でも、足りない。「嫌いではない」では足りない。
「むしろ……」
言葉が詰まった。喉の奥で何かがつかえている。
でも、出さなければ。ルーメン様は三年間、行動で示し続けて、やっと言葉にしてくれた。私も、言葉にしなければ。
「……ずっと、お側でお仕えしていて」
声が震える。
「ルーメン様がいる場所が、温かいと、思っていました」
目が合った。ルーメンの鋭い目が、少しだけ揺れた。
「それが何なのか、今まで……考えていなかったんですが……」
長い沈黙。
図書室の時計がかちかちと音を立てている。夕日が窓から差し込んで、ルーメンの髪を金色に染めている。
ルーメンが、静かに言った。
「……それは、好きということか?」
直球。ルーメンらしい。飾りのない、真っ直ぐな問い。
「……たぶん」
声が小さい。
「……そうだと、思います」
顔が熱い。耳まで赤くなっている。今、鏡を見たら、真っ赤なりんごが映っているだろう。
ルーメンが、長い沈黙の後、口を開いた。
「……なら、婚約してくれるか?」
(!!!!!!!!!)
心臓が止まった。いや、止まっていない。止まっているように感じるほど速く打っている。
(婚約!? 今、婚約とおっしゃいましたか!? いきなり!? 好きと言ったらすぐ婚約!? 段階を踏まないんですか!?)
でも、これがルーメンだ。
回り道をしない。必要なことだけを、真っ直ぐに言う。
「……はい」
小さな声。でも、確かな声。
自分でも驚くほど、迷いがなかった。
ルーメンの目が、一瞬だけ見開かれた。
それから、ゆっくりと――笑った。
笑った。
ルーメン・エルドラドが。
口元が緩んで、目の奥が柔らかくなって、顔全体が温かくなった。
三年間で、初めて見る笑顔だった。
(……ルーメン様が、笑っている)
世界が、明るくなった気がした。
図書室の夕日が、一段と暖かくなった気がした。
「……ありがとう」
ルーメンが言った。短い。でも、その二文字に、全部が入っていた。
―――
そのとき。
図書室の扉の外で、小さな気配がした。
ルーメンと私が同時に扉を見た。
すすす、と足音が遠ざかっていく。小さな足音。軽い足音。
(……お嬢様だ)
わかった。あの足音は、リリーメルだ。
ルーメンがため息をついた。でも、怒りではない。呆れと、少しの温かさが混ざったため息。
「……聞いていたな、あいつ」
「……ですね」
二人で、少しだけ笑った。
―――
翌朝。
朝食の場。
アーレン伯爵、ルーメン、リリーメル。そして給仕の私。
いつもの食堂。いつもの朝。
でも、リリーメルの目が輝いていた。
昨日の盗み聞きから、一晩中この瞬間を待っていたのだろう。
全員が席に着いた。
アーレンが「いただきます」と言いかけた。
その前に。
リリーメルが、椅子から立ち上がった。
「お待ちになって」
アーレンが不思議そうに娘を見た。ルーメンは無表情だが、何が来るか察している顔だ。
リリーメルが背筋を伸ばした。スカートの裾を整えた。伯爵令嬢の姿勢。完璧な姿勢。
そして、高らかに宣言した。
「アリアとお兄様の婚約を、エルドラド家令嬢として正式に認めますわ!」
(!!!!!!)
声が食堂に響いた。
「お、お嬢様、それはお父様が……」
「……同意する」
廊下から声がした。
振り返ると、アーレンが穏やかに笑っていた。――いや、アーレンは最初から席にいた。
声の主は、廊下に立っていたドレンだった。
「旦那様は、すでにご承認されておりますよ」
ドレンが静かに言った。その横に、マルカが立っている。
「……よかったわね、アリアさん」
マルカが微笑んだ。穏やかな笑み。「自分を見なさい」と何度も言ってくれた人の、最後の笑顔。
アーレンが咳払いをした。
「まあ、正式な手続きは追って進めるが……家族として、歓迎する」
温かい声だった。
(え、全員公認だった!? というかドレンとマルカ、知っていたんですか!? 遠い目はそういうことだったんですか!?!?!?!?!?)
頭の中が嵐だった。
でも、嵐の中心に、温かいものがあった。
リリーメルが私の手を取った。小さな手。温かい手。
「アリア。これからは、わたしのお姉様ですわ」
(お姉様……!?)
「で、でも、メイドの仕事は……」
「続けたいなら続ければいいですわ。でも、呼び方は変えませんからね」
リリーメルがにっこりした。完璧な笑顔。策謀家の笑顔ではない。妹の笑顔だった。
ルーメンが黙ってこちらを見ていた。
目が、いつもより柔らかい。口元が、ほんの少しだけ上がっている。
(……この人たちが、私の家族になるんだ)
涙が出た。
今度は、止めなかった。
「……ありがとう、ございます。皆様」
深くお辞儀をした。メイドのお辞儀ではない。家族へのお辞儀だった。
朝食は、いつもより少しだけ長かった。
アーレンがいつもより多く話し、リリーメルがいつもよりはしゃぎ、ルーメンがいつもより長く食堂にいた。
私は給仕をしながら、この風景を目に焼き付けていた。
(……この朝が、これからずっと続くんだ)
パンの籠を運びながら、ルーメンの横を通った。
ルーメンが、こちらをちらっと見た。目が合った。
今度は、逸らさなかった。
お互いに。
リリーメルが「ふふ」と笑った。
―――
夜。日記帳。
『ルーメン様に「はい」と答えた。
ルーメン様が笑った。
三年間で初めて見た笑顔だった。
リリーメルお嬢様が「正式に認めます」と宣言した。
アーレン様が承認してくださった。
ドレンとマルカも知っていた。
全員が、私を家族にしてくれた。
お嬢様が「お姉様」と呼んでくれた。
泣いた。たくさん泣いた。
お嬢様は今日もかわいかった。
世界で一番かわいい妹になった』
ペンを置いた。
最後に、もう一行。
『私は、なんと幸せな人間だろう』




