第17話:アリアの夜と、受け取ること
眠れなかった。
ベッドの中で天井を見つめている。
秋の夜は冷えるのに、体の中が温かい。心臓がずっと速い。落ち着くどころか、時間が経つほど鮮明になっていく。
(ルーメン様が、私を……ずっと……)
「ずっと」の重さが、何度噛みしめても変わらない。
(でも、私はリリーメルお嬢様のメイドで……ルーメン様はお嬢様のお兄様で……)
身分のことが頭をよぎる。サロモン子爵家の娘とはいえ、婚約を破棄された元令嬢だ。今はメイド。エルドラド伯爵家の跡取りであるルーメン様とは、立場が違いすぎる。
(でも……ルーメン様があんな顔で言うわけがない。嘘をつく人じゃない。私は知っている、あの人が)
三年間、すぐそばで見てきた。
ルーメン・エルドラドは、嘘をつかない人だ。言葉が少ないのは、嘘を言いたくないからだ。口に出す言葉は全部、本当のことだけ。
だから、あの「ずっと好きだ」は。
(……本物だ)
毛布を頭からかぶった。
顔が熱い。暗闇の中で、自分の頬に手を当てた。熱い。
(……どうしよう。どうすればいいんだろう)
答えは、出ない。
出ないまま、夜が更けていった。
―――
朝。
一睡もできなかったが、体は動く。メイドの体は丈夫にできている。三年間で鍛えられた。
リリーメルの部屋に向かった。ノック三回。
「お嬢様、おはようございます」
「おはよう、アリア」
扉を開けた。
リリーメルが毛布から顔を出している。いつもの寝ぼけ顔。
(かわいい)
この感情は、何があっても変わらない。ルーメン様に告白されても、世界がひっくり返っても、お嬢様のかわいさは宇宙の定数だ。
髪を梳かす。今日のリボンは桃色。リリーメルが「桃色」と指定した。復活している。昨日の落ち込みから完全に立ち直っている。
鏡越しに、リリーメルがこちらを見た。
目が、鋭い。
「……告白されたんですね」
(!!!!)
「お、お嬢様、なぜ!?」
「わたしが仕組んだんですもの。それに、昨日から顔が違うわ」
にこにこしている。完璧な笑顔。全てを見通した十歳の策謀家の笑顔。
「顔が、違いますか……?」
「ええ。赤い」
(!!!)
鏡を見た。確かに、頬がうっすら赤い。一睡もしなかったせいで顔色が悪いはずなのに、赤い。矛盾している。でも事実だ。
「お嬢様……あの……」
「どうするかは、アリアが決めること」
リリーメルの声が、少し変わった。策謀家ではない。真剣な声だった。
「わたしは、アリアの答えを待ちますわ」
鏡の中のリリーメルの目が、真っ直ぐだった。
十歳の目。でも、嘘がない目。
「……でも、私がルーメン様と……そういうことになったら、お嬢様のメイドを続けられるかどうか……」
言った瞬間、声が震えた。
これが一番怖かった。ルーメン様の気持ちに応えることよりも、お嬢様のそばを離れることの方が、ずっとずっと怖かった。
リリーメルが、少し黙った。
髪を梳かす手が止まった。
鏡越しに目が合った。
「……アリア」
「……はい」
「わたしが望んでいるのは、アリアがずっとエルドラドにいること」
静かな声。十歳の子供が、こんなに静かに話すことがあるのか。
「お兄様の奥方でも、わたしのメイドでも、どちらであっても、アリアはここにいる。それが大事なんですわ」
(――。)
目が、熱くなった。
涙が出そうだった。出た。
「……お嬢様……」
「泣かないで! わたしまで泣くから!」
リリーメルの声が裏返った。鏡の中のリリーメルの目も、赤くなっている。
「ほら、アリアが泣くとわたしも……もう……!」
リリーメルが目を拭った。小さな手で。
私も泣いていた。笑いながら。
「はい……ありがとうございます、お嬢様」
「もう、感謝はいいですわ。わたしの方こそ……」
リリーメルが照れくさそうに横を向いた。耳が赤い。兄と同じだ。
「……アリアがいなくなったら、わたし、朝の支度ができないんですもの」
それは冗談だった。でも、冗談の中に本音があった。
「……ずっとお側にいます、お嬢様」
「……うん」
小さな声。十歳の、子供の声。
策謀家でも、伯爵令嬢でもない。ただの、アリアを必要としている女の子の声。
―――
昼前。廊下でマルカとすれ違った。
「アリアさん、今日は少し顔色がいいわね」
「え、そうですか?」
「ええ。……何かあった?」
マルカの目が優しい。いつもの穏やかな笑み。
でも、見透かしている目だ。この屋敷の侍女長は、何でも見ている。
「……マルカさん」
「ええ」
「前に、『自分のことを見なさい』とおっしゃいましたよね」
「言ったわね」
「……少し、見えてきた気がします」
マルカが目を細めた。嬉しそうに。
「そう。よかった」
「マルカさんは、いつから知っていたんですか。ルーメン様のこと」
「そうねえ……あなたが来て半年くらいかしら。若様の目が変わったの」
(半年!? 三年じゃなくて、最初の半年から!?)
「そんなに前から……」
「若様は態度に出る方だから。本人は隠しているつもりでも、わかる人にはわかるのよ」
マルカが少し笑った。
「ドレンさんも気づいていたし、アーレン様も。……気づいていなかったのは、アリアさんだけ」
(全員知っていたんですか!?!?!?)
「あ、あの……」
「いいのよ。あなたは一生懸命お嬢様のことを見ていたから。それは素敵なことだわ」
マルカが私の肩にそっと手を置いた。
「でもね、アリアさん。これからは、自分のことも大事にしなさい。あなたには、その価値があるの」
目が熱くなった。今日、二度目だ。
「……ありがとうございます、マルカさん」
「はいはい。さ、お仕事お仕事」
マルカがぱっと手を離して、いつもの侍女長の顔に戻った。背筋が伸びて、足取りが軽い。
(……この屋敷の人たちは、みんな温かい)
―――
午後。
中庭のベンチに座って、一人で考えていた。
リリーメルは昼寝の時間だ。マルカが見守っている。
秋の風が吹いている。花壇の花が、もうすぐ終わりだ。
(お嬢様が、「ここにいる」と言ってくれた)
それは、答えを出すための最後の壁を取り払ってくれた言葉だった。
ルーメン様のことが好きかどうか。
もう、わかっている。
ずっと前から、わかっていたのかもしれない。
図書室で本を渡すときの「ありがとう」が嬉しかった。
廊下ですれ違うときの短い挨拶が、一日の中で一番待ち遠しかった。
雨の日に傘を持ってきてくれたとき、胸が痛かった。
ホットミルクが温かかったのは、ルーメン様の手の温度だったから。
全部、好きだったのだ。
ずっと。
(……私も、ずっとだったんだ)
認めた。
今度は、怖くなかった。
名前をつけた。
好きだ。ルーメン様のことが、好きだ。
風が吹いた。花びらが一枚、ベンチに落ちた。
拾い上げて、掌に乗せた。
(……明日、伝えよう)
決めた。
自分の言葉で。自分の声で。
―――
夜。日記帳。
『お嬢様に全部見透かされていた。
「ここにいることが大事」と言ってくれた。
泣いてしまった。
お嬢様も泣いた。
二人で泣いた。
午後、中庭で考えた。
答えが出た。
私は、ルーメン様のことが好きだ。
ずっと好きだった。
明日、伝える。
お嬢様は今日もかわいかった。
泣いたお嬢様も、かわいかった。
桃色のリボンが最高に似合っていた』
ペンを置いた。
今夜は、眠れそうだった。




