第16話:言葉と、その重さ
翌日の夕方。
手には紺色の革表紙の本。花の図鑑。
リリーメルから預かった、ルーメンへの一冊。
図書室に向かう廊下を歩いている。
窓の外は秋の夕方で、空が橙色から紫に変わりかけている。
心臓が、速い。
昨日のことがある。ルーメン様が「アリア、俺は――」と言いかけて、リリーメルの飛び込みで途切れた。あの続きが何だったのか、考えないようにしていた。一日中。
でも、考えないようにすればするほど、考えてしまう。
(……今日は、ただの本の受け渡しだ。昨日の続きがあるとは限らない)
自分に言い聞かせた。
足が、勝手に遅くなっている。
図書室の扉の前に立った。
深呼吸。ノック三回。
「失礼します」
扉を開けた。
ルーメンが、机の前に立っていた。
立って、いた。
座っていない。本も開いていない。窓を背にして、こちらを真っ直ぐに見ている。
夕日が逆光になって、表情が一瞬読めなかった。
でも、目だけは見えた。
鋭い目。いつもの目。でも、その奥に覚悟があった。
「本を、お持ちしました」
差し出した。ルーメンが受け取った。机の上に置いた。
目は、本を見なかった。ずっとこちらを見ていた。
「……少し、待ってくれるか」
低い声。静かだけど、震えていない。
「はい」
立ったまま。ルーメンが一歩、近づいた。
距離が、腕一本分になった。
心臓が壊れそうだった。
ルーメンの口が開いた。
「俺は……お前のことが、ずっと、好きだ」
短い言葉だった。
飾りがない。修飾語もない。ただ、事実だけが並んでいる。
でも、その一文の中に、全部が入っていた。
三年間の全部が。
世界が止まった。
(…………え?)
一拍。
(今、何と言いましたか)
二拍。
(え? え????? お嬢様のことじゃなくて? 私の、こと? 「ずっと」って言った? 「ずっと」って……? どれくらいずっと? いつから? え?????)
内心が嵐だった。暴風雨だった。
外面は――固まっていた。完全に。メイドの表情筋が、二度目の機能停止を起こしていた。
ルーメンが待っていた。
焦らない。急かさない。ただ、真っ直ぐに立って、こちらを見ている。
「……答えは、すぐじゃなくていい」
静かな声。
「知っていてほしかった。それだけだ」
踵を返しかけた。
その瞬間、口が動いた。自分の意思とは別に、言葉が出た。
「……ルーメン様は……お嬢様のことを、思っているわけでは、なかったんですか?」
馬鹿なことを聞いた、と思った。
でも、三年間ずっと信じてきた解釈が、最後の抵抗をしたのだ。
ルーメンが止まった。
振り返った。
少しの間。
そして、珍しく――ほんの少しだけ、笑った。
ルーメンが笑うところを、私はほとんど見たことがない。口元がわずかに動いて、目の奥が柔らかくなる。それだけの、小さな笑み。
「……お前のことだ。ずっと」
二度目の「ずっと」が、胸の真ん中に落ちた。
ずしん、と。重くて、温かくて、どうしようもなく確かなものが。
顔が、熱くなった。
耳まで赤くなっているのが自分でわかった。メイド三年目にして、二度目の赤面だった。一度目は中庭で。二度目は、今。
「……あ、あの……」
言葉が出てこない。何を言えばいいのかわからない。
ルーメンは待っていた。ずっと。
「……すぐには、答えられません」
やっと出た言葉は、それだけだった。
ルーメンが頷いた。
「……ああ。わかっている」
怒らない。責めない。急かさない。
ただ、受け取った。
「……待っている」
それだけ言って、ルーメンは図書室を出ていった。
―――
一人になった図書室。
夕日が窓から差し込んで、床を橙色に染めている。
本棚の影が長く伸びて、私の足元まで来ていた。
膝が震えていた。
本を抱えたまま――いや、本はさっきルーメン様に渡した。手が空になっている。空になった手が、行き場をなくしている。
図書室を出た。
廊下に出て、壁に背を預けた。
(……ルーメン様が。私を。ずっと。)
「ずっと」が頭の中で繰り返されている。何度も、何度も。
(三年間……? あの人が、三年間、ずっと……?)
図書室で本を受け取るときの「ありがとう」。
廊下ですれ違うときの短い挨拶。
雨の日に傘を持ってきてくれたこと。
ホットミルクを届けてくれたこと。
指が触れたときの、あの一瞬の温かさ。
全部が、繋がった。
(全部、「お兄様として」じゃなかったんだ……)
三年間の解釈が、音を立てて崩れていく。
でも、崩れた後に残ったものは、瓦礫ではなかった。
温かいものだった。ずっと前からそこにあったのに、見えていなかったもの。
(……どうしよう)
目が潤んだ。泣いているわけではない。でも、何かが溢れそうだった。
(でも、なぜだろう。こんなに心臓が速いのに、怖くない)
前は怖かった。名前をつけるのが怖かった。
でも今は、怖くない。ルーメン様が「待っている」と言ってくれたから。
(……どうしよう。嬉しいんだ、私)
認めた。
初めて、自分の中の感情に、正直になった。
壁にもたれたまま、少しだけ笑った。
涙と笑いが混ざった、変な顔だったと思う。
―――
夕食の給仕は、地獄だった。
いや、地獄というのは言い過ぎだ。でも、ルーメン様と同じ空間にいるのが、今までとまったく違う感覚になっている。
アーレン伯爵がいつも通り穏やかに話している。リリーメルがいつも通りスープを飲んでいる。ルーメンがいつも通り無口だ。
いつも通り。全部いつも通り。
でも、ルーメンがカップを持ち上げるたびに、あの手が「本を受け取った手」だと思ってしまう。あの口が「ずっと好きだ」と言った口だと思ってしまう。
(やめろ!!! 今は給仕中だ!!! プロだろう!!!)
自分を叱りつけた。スープを注いだ。パンを並べた。完璧にこなした。外面は。
リリーメルがちらっとこちらを見た。
にっこりしている。何かを察している目だ。
(お嬢様、全部お見通しですか……)
リリーメルは何も言わなかった。ただ、にこにこしていた。
そのにこにこが、いつもより温かかった。
ルーメンは一度もこちらを見なかった。
気を遣っているのだ。給仕中の私を、意識させまいとしている。
(……優しい人だ)
その優しさが、また胸に刺さった。
―――
夜。自室。
日記帳を開いた。
『ルーメン様に告白された。
「お前のことが、ずっと、好きだ」と。
三年間、ずっとだったらしい。
全部が繋がった。
傘も、ホットミルクも、図書室の「ありがとう」も。
全部。
私は三年間、何を見ていたんだろう。
すぐには答えられなかった。
でも、怖くなかった。
嬉しかった。
お嬢様は今日もかわいかった。
それと、ルーメン様の笑顔を見た。
あの人が笑うと、世界が少しだけ明るくなる気がする』
ペンを置いた。
灯りを消す前に、もう一行だけ書き足した。
『……「ずっと」が、まだ耳に残っている』




