第15話:リリーメルの反省と最終作戦
翌朝。
リリーメルは、目覚めた瞬間から落ち込んでいた。
毛布を頭からかぶって、ベッドの中で丸くなっている。
いつもは朝のノックで「おはよう」と返すのに、今日は返事がない。
「お嬢様、おはようございます」
「……おはよう」
声が小さい。いつもの元気が、三割ほど欠けている。
「お着替えのお時間ですよ」
「……うん」
毛布から出てきたリリーメルの顔は、しょんぼりしていた。
目が少し腫れている。昨夜、泣いたのかもしれない。
(お嬢様……)
髪を梳かしながら、鏡越しにリリーメルを見た。
いつもの鋭い目は、今日はどこか曇っている。
「お嬢様、昨夜はよくお眠りになれましたか?」
「……あまり」
「そうですか。今日のリボンは何色にしましょう」
「……アリアが選んで」
珍しい。リリーメルは毎朝自分でリボンの色を指定する。それが、今日は委ねてきた。
よほど落ち込んでいるのだ。
水色のリボンを選んだ。晴れた空の色。気持ちが明るくなるように、と思って。
「水色、お似合いですよ、お嬢様」
「……ありがとう」
小さな声。でも、鏡の中のリリーメルが少しだけ口の端を上げた。
―――
午前中。
リリーメルは勉強の時間が終わると、一人で廊下を歩いていった。
行き先は、ドレンの控え室だった。
ドレンは執事だ。この屋敷で最も長く仕えている人間であり、リリーメルが生まれる前からエルドラド家を見守ってきた。
白髪を整えた、背筋の真っ直ぐな老人。表情は穏やかだが、目は鋭い。
「ドレン」
「はい、お嬢様」
「少し、話を聞いてほしいの」
ドレンが椅子を引いた。リリーメルが座った。足がぶらぶらしている。椅子が少し高い。
「わたし……お兄様の邪魔をしてしまった」
しょんぼりと言った。声が小さい。
「昨日、お兄様がアリアに大事なお話をしようとしていたの。でもわたし、夕食の時間を忘れていて、飛び込んでしまって……全部台無しにしてしまった」
ドレンは静かに聞いていた。表情は変わらない。
「……お嬢様」
「はい」
「それは、若様ご自身が決めることでございます」
穏やかな声。でも、はっきりしていた。
「ただ、邪魔をしないことが、一番のお力添えかと存じます」
リリーメルが目を丸くした。
「邪魔をしない? でも、何もしないのも……」
「環境を整えることはできます。しかし、言葉は若様が出すものです」
ドレンがリリーメルの目を見た。老人の目が、優しかった。
「お嬢様は聡明でいらっしゃいます。だからこそ、手を出しすぎることがある。若様もアリアも、大人です。二人の間のことは、二人に委ねるのが一番でございます」
リリーメルはしばらく黙っていた。
足のぶらぶらが止まった。
「……わかりましたわ」
小さく、でもはっきりと言った。
「わたしは最後のお膳立てだけして、あとはお兄様を信じます」
ドレンが微かに微笑んだ。
「それがよろしいかと」
「ドレン」
「はい」
「……ありがとう」
十歳の伯爵令嬢が、老執事に頭を下げた。
ドレンは静かにお辞儀を返した。
―――
午後。
リリーメルは中庭で兄を待ち伏せていた。
ルーメンが回廊を歩いてくるのが見えた。いつもの足取り。いつもの無表情。
昨日のことを引きずっている様子はない。でも、リリーメルにはわかる。兄の目の奥が、少しだけ疲れている。
「お兄様」
ルーメンが足を止めた。
「……何だ」
「昨日は……邪魔をしてしまった。ごめんなさい」
真っ直ぐな謝罪だった。
策略もない。計算もない。ただ、素直に。
ルーメンが妹を見下ろした。
しばらくの沈黙。
「……わかった」
短い。でも、受け取った声だった。怒りはない。責めもない。ただ、受け取った。
リリーメルがもう一歩、前に出た。
「次は、邪魔しません。だから……ちゃんと言ってください。お兄様の言葉で」
父と同じことを言った。
リリーメルは知らない。アーレンがルーメンに同じことを言ったことを。でも、同じ言葉が出た。
ルーメンの目が、一瞬だけ揺れた。
それから、静かに頷いた。
「……ああ」
リリーメルが笑った。いつもの笑顔ではない。安心した笑顔。十歳の子供の、素直な笑顔。
「頑張って、お兄様!」
それだけ言って、くるりと踵を返した。
スカートの裾を翻して、中庭を小走りに去っていく。
ルーメンはその背中を見送った。
(……こいつは、本当に……)
口元が、ほんの少しだけ動いた。苦笑のような、微笑のような。
―――
夕方。
リリーメルが私を呼んだ。
「アリア」
「はい、お嬢様」
「明日の夕方、図書室にお兄様へ本を届けてくれますか?」
また、図書室。また、本。
「かしこまりました。どの本をお届けすればよろしいですか?」
リリーメルが本棚から一冊を抜き出した。紺色の革表紙。花の図鑑だった。
「これを。お兄様が前に読みたいとおっしゃっていたの」
「承知しました」
リリーメルの顔を見た。昨日までのしょんぼりした表情が消えている。
でも、策謀家の目でもない。静かで、澄んだ目だった。信頼の目、と言ってもいい。
「……お嬢様、何かございますか?」
「何もないわ。ただの本のお届けよ」
にっこり。何もない顔。
でも、その笑顔の奥で、リリーメルは祈っていた。
(あとはお兄様次第。頑張って、お兄様。わたしは信じてる)
―――
夜。
図書室。
ルーメンが一人、机に向かっていた。
本は開いているが、ページは進んでいない。文字を追っていないのだ。
窓の外に月が出ている。秋の月は高い位置にあって、図書室の床に銀色の光を落としている。
ルーメンが本を閉じた。
(……明日、ちゃんと言う)
父に言ったように。言葉で。
行動だけでは足りない。それは、もうわかっている。
三年間、行動で示してきた。
アリアの傘になった。荷物を持った。夜の見回りで安全を確認した。ホットミルクを届けた。
全部、伝わっていない。全部、「お嬢様のお兄様として」に分類されている。
(……当然だ。言葉がないんだから)
口下手は自覚している。言いたいことが喉まで来て、そこで止まる。いつもそうだ。
でも、明日は止まるわけにはいかない。
(リリーメルが「邪魔しない」と言った。父上が「言葉で」と言った。ロロードが「頼む」と言った)
みんなが道を開けてくれている。
あとは、自分が歩くだけだ。
ルーメンが立ち上がった。本を棚に戻して、図書室の灯りを消した。
月だけが、静かに図書室を照らしていた。
―――
同じ夜。
私は自室で日記帳を開いていた。
『リリーメルお嬢様が今日、ドレンさんのところに行っていた。
何を話したのかはわからないが、午後から顔つきが変わっていた。
しょんぼりから、凛とした顔に。
お嬢様は成長している。
それを見守れることが嬉しい。
明日、また図書室に本を届ける。
ルーメン様に。
……なぜだろう、それだけのことなのに、ペンを持つ手が震えている。
お嬢様は今日もかわいかった。
水色のリボンがとても似合っていた』
ペンを置いた。
(……明日の夕方)
何かが起きる気がしていた。
何が起きるのかは、もう、わかっている気がした。
それでも名前をつけられないのは、怖いからだ。
名前をつけたら、もう元には戻れない気がするから。
灯りを消して、目を閉じた。
まぶたの裏に、ルーメンの「また、にする」という声が浮かんだ。
(……「また」が、明日なんだろうか)
答えは出ないまま、眠りに落ちた。




