第14話:告白未遂と逃走
ルーメンが「近いうちに話がある」と言ってから、三日が経った。
三日間、何も起きなかった。
いつも通りの朝。いつも通りの昼。いつも通りの夜。
ルーメンは私と廊下ですれ違っても、いつもの短い挨拶を返すだけだった。
(……あの「近いうちに」は、いつ来るんだろう)
気にしている自分に気づいて、首を振った。
気にする必要はない。私はメイドだ。お嬢様のお世話をすることが仕事だ。ルーメン様のお話が来るなら、その時に聞けばいい。
でも、胸の奥がそわそわする。
三日前から、ずっと。
―――
四日目の朝。
リリーメルの部屋でいつも通り髪を梳かしていると、お嬢様が鏡越しにこちらを見た。
「アリア」
「はい、お嬢様」
「今日の夕方、図書室にお兄様への本を届けてくれますか?」
「かしこまりました」
いつもの用事だ。リリーメルが読み終えた本をルーメンに返す。何度もやっている。
何の変哲もない日常の一コマ。
でも、リリーメルの目がきらきらしていた。
いつもの策謀家の目ではない。何か、期待するような目。
「……お嬢様?」
「何でもないわ。ふふ」
何でもないわけがない。でも、追及しないことにした。お嬢様の「ふふ」には深入りしない方がいい。三年間の経験則だ。
―――
夕方。
図書室に向かう廊下を歩いている。
手には本が二冊。リリーメルが選んだ返却用の本。
心臓が、少しだけ速い。
(なぜ緊張しているんだ。いつもの本の受け渡しだ。いつもの図書室だ。いつもの……)
いつもの、という言葉が空回りしている。
「近いうちに話がある」の四日後に、図書室に呼ばれている。これが「その時」なのかもしれない。
(……いや、考えすぎだ。お嬢様の本を届けるだけだ)
図書室の扉の前に立った。
深呼吸。ノック三回。
「失礼します」
扉を開けた。
ルーメンが、いつもの席にいた。
窓から夕日が差し込んで、図書室を橙色に染めている。本棚の背表紙が光を受けて、金色に見えた。
でも、いつもと違うことが一つあった。
ルーメンが、本を読んでいなかった。
机の前に座って、ただこちらを待っていた。
手は机の上に置かれている。本は閉じたまま。目は、扉が開いた瞬間から、真っ直ぐにこちらを見ていた。
(……待っていた?)
「本を、お持ちしました」
差し出した。ルーメンが受け取った。指は触れなかった。
「……ありがとう」
いつもなら、ここで私が「他にご用はございますか」と聞いて、ルーメンが「いや」と答えて、退室する。いつもの流れだ。
でも。
「……少し、いいか」
ルーメンが言った。声が、いつもより低い。でも震えてはいない。決意の声だ。
「はい」
立ったまま、ルーメンを見た。
ルーメンが椅子から立ち上がった。私の正面に来た。
距離が、近い。
(!)
心臓が跳ねた。ルーメンの目が、真っ直ぐにこちらを見ている。鋭い目。でも、その奥に、あの温かいものがある。何度か見た、あの光。
「アリア、俺は――」
口が開いた。言葉が出かけた。
その瞬間。
「お兄様ー! お夕食のご準備が始まりますわよー!」
図書室の扉が勢いよく開いた。
リリーメルが満面の笑みで飛び込んできた。
空気が、割れた。
ルーメンの口が閉じた。開きかけた言葉が、音になる前に消えた。
目が一瞬だけ天井を見上げた。それから、ゆっくりと妹を見た。
「……リリーメル」
声は怒っていなかった。でも、完全に止まった顔をしていた。
リリーメルは、兄の顔を見た瞬間に悟った。
(…………あ)
目が見開かれた。
兄の表情。アリアとの距離。図書室の空気。全部が一瞬で読み取れた。
(しまった!!! 今日は夕食の時間を完全に忘れていましたわ!!! お兄様がアリアに話す日だったのに!!!)
リリーメルの顔が、みるみる青くなった。
「あ……あの、お兄様、もしかして……」
「……いや、いい」
ルーメンが静かに言った。椅子に手をかけて、立ち上がったまま。
「……また、にする」
短い言葉。でも、その声に諦めの色があった。
三回目だ。三回目の「言いかけて、やめた」だった。
「ルーメン様、何かおっしゃりたいことがございましたか?」
私は聞いた。メイドとして。でも、声が少しだけ掠れていた。
ルーメンが何を言おうとしていたのか、もう、気づき始めていたから。
「……いや。気にするな」
ルーメンが歩き出した。リリーメルの横を通り過ぎるとき、妹の頭にそっと手を置いた。
「……夕食、行こう」
それだけ言って、図書室を出た。
リリーメルは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
小さな手が、スカートの裾をぎゅっと握っている。
「……アリア」
「はい、お嬢様」
「わたし、お兄様の邪魔をしてしまいましたわ……」
声が小さかった。十歳の、子供の声だった。策謀家ではない。ただの妹の声だった。
「……お嬢様」
「ごめんなさい。ごめんなさい、アリア。わたし、あの、夕食の時間を忘れていて……お兄様が、きっと今日、アリアに大事なお話をしようとしていたのに……」
目が潤んでいた。
リリーメルが泣きそうな顔をするのは、珍しい。とても珍しい。
「お嬢様、大丈夫ですよ。ルーメン様は怒っていらっしゃいませんでした」
「怒っていないのが余計につらいの……」
それは、十歳の子供が言う言葉としては、ずいぶん大人だった。
私はリリーメルの肩にそっと手を置いた。
「お嬢様。ルーメン様はお嬢様のことを大切に思っていらっしゃいます。それだけは確かです」
「……うん」
「さ、お夕食に参りましょう」
リリーメルの手を取って、図書室を出た。
廊下を歩きながら、考えていた。
(……ルーメン様は、何を言おうとしていたんだろう)
わかっている。もう、わかり始めている。
でも、自分から名前をつけるのが、まだ怖い。
(もしかしてお嬢様の何かをご相談しようとしてくださっていたのかもしれない……)
その解釈が、もう無理があることも、わかっていた。
―――
夕食は静かだった。
アーレン伯爵がいつも通り穏やかに話し、リリーメルがいつもより少しだけ大人しく、ルーメンがいつも通り無口だった。
でも、リリーメルの目が赤いことに、アーレンは気づいていた。
「リリーメル、どうした? 目が赤いぞ」
「……何でもないですわ、お父様」
「そうか」
アーレンはそれ以上聞かなかった。代わりに、ルーメンをちらっと見た。
ルーメンが小さく首を横に振った。
父と息子の間で、何かが伝わったようだった。
私は壁際に控えながら、その家族の空気を見ていた。
(……この家族は、温かい)
いつも思うことだ。でも今日は、少しだけ違う感じ方をした。
温かさの中に、自分も含まれている気がした。
(……気のせいだ。私はメイドだ)
そう思った。
でも、心臓は少しだけ速かった。
―――
夜。自室。
リリーメルをベッドに送った後、日記帳を開いた。
『図書室でルーメン様が何か言いかけた。
リリーメルお嬢様が飛び込んできて、途切れた。
ルーメン様は「また、にする」と言った。
お嬢様が泣きそうだった。
申し訳なさそうだった。
ルーメン様は怒らなかった。
優しい人だ。
お嬢様は今日もかわいかった。
泣きそうなお嬢様も、かわいかった』
ペンを置いた。
(……ルーメン様が言いかけた言葉。あれは、きっと――)
その先を、まだ書けなかった。




