第13話:縁談という名の試練
その日、エルドラド伯爵家に一通の書簡が届いた。
差出人は王都の伯爵家。内容は、ルーメン・エルドラドへの縁談の打診だった。
私はその書簡のことを知らない。
メイドが主家の縁談書簡に触れることはない。知る必要もない。
だが、屋敷の空気が少し変わったことには気づいていた。
ドレンが朝からアーレン伯爵の書斎に出入りしている。マルカが少し忙しそうだ。ルーメンの表情が、いつもより硬い。
(何かあったのかしら……。お嬢様に関わることでなければいいのだけど)
いつものように、「お嬢様」が最初に来る。
自分のことは、まだ思い浮かばない。
―――
アーレン伯爵の書斎。
アーレンが机の向こうに座り、ルーメンが正面に立っていた。
窓から秋の光が差し込んで、書斎を柔らかく照らしている。
「ルーメン、縁談が来ている」
アーレンの声は穏やかだった。温和な父親の声。でも、目は真剣だ。
「ランベール伯爵家のご令嬢。歳も近い。家格も申し分ない。先方は好意的だ」
ルーメンは黙って聞いていた。表情は変わらない。
「断るなら、理由が要る。相手方への礼儀としても、家としても」
アーレンが息子の目を見た。
「……誰かいるのか?」
沈黙が流れた。
書斎の時計がかちかちと音を立てている。
ルーメンは口を開いた。閉じた。もう一度、開いた。
「……アリアを、妻にしたい」
絞り出すように言った。
声は低くて小さかったが、一文字一文字に重さがあった。
アーレンが、しばらく動かなかった。
目を閉じて、腕を組んで、何かを考えている。
長い沈黙。
時計の音だけが続く。
やがて、アーレンが目を開けた。
――微笑んでいた。
「……そうか」
穏やかな声。温かい声。
「サロモン子爵家の娘か。……いい子だな、あの子は」
「……はい」
「ルーメン」
「はい」
「ちゃんと伝えなさい。お前の言葉で」
ルーメンが顔を上げた。父の目を見た。
「言葉が苦手なのは知っている。でも、こういうことは、行動だけでは足りない。お前が自分の口で、自分の声で、言わなければならない」
「……はい」
「アリアは……お前の行動を全部『お嬢様のお兄様として』解釈してるからな」
アーレンが苦笑した。
ルーメンも、わずかに口元が動いた。苦笑だ。
「……知っています」
「だから、ちゃんと言え。言葉で」
「……はい」
アーレンが立ち上がって、息子の肩に手を置いた。
「お前が誰かを好きになった。それだけで、親としては十分だ」
ルーメンの目が、一瞬だけ潤んだ。すぐに戻ったが、アーレンは見逃さなかった。
「……行ってこい」
「……はい」
ルーメンが書斎を出た。
扉が閉まった。
アーレンは窓の外を見て、小さく呟いた。
「……妻に似たな、あの表情」
誰にも聞こえない声だった。
机の上に置かれた縁談の書簡を手に取り、丁寧に折り畳んで引き出しにしまった。
(ランベール伯爵家には、丁重にお断りの書簡を送ろう。理由は……まあ、「すでに心に決めた者がいる」で十分だ)
アーレンは筆を取って、返事の下書きを始めた。
文面を考えながら、ふと手が止まった。
(サロモン子爵家の娘。あの子が来た日のことは覚えている。雨の中、ぼろぼろの姿で、それでもきちんとお辞儀をした。十三歳の子供が、あんな目をしていた)
三年前のことだ。リリーメルが「この子をうちのメイドにしてほしい」と言い出した。七歳の娘の頼みを、アーレンは最初、断るつもりだった。
だが、アリアの目を見て考えを変えた。
折れていない目だった。悲しみはあっても、屈服はない。
(……あの子は強い。ルーメンが惹かれるのも、わかる気がする)
筆を動かした。返事の文面は、短く、しかし礼を尽くしたものになった。
―――
書斎の外。廊下。
ルーメンが出てきた扉の横の壁に、小さな影がくっついていた。
リリーメルだった。
息を殺して、扉の隙間から聞いていたのだ。全部。
ルーメンが廊下を去った後、リリーメルは壁から離れて、そっと拳を握った。
(……お父様、公認をくださった)
目がきらきらしていた。策謀家の目ではない。嬉しそうな妹の目だった。
(計画が加速する。お兄様がアリアに伝える。アリアがお姉様になる。完璧だわ)
でも、すぐに表情が引き締まった。
(……でも、お兄様がちゃんと自分の言葉で伝えるかどうかが問題ね。あの人、行動では一級品だけど、言葉になると途端に……)
ため息。
(まあいいわ。お父様も「言葉で」とおっしゃった。お兄様は約束を守る人だもの。……たぶん)
「たぶん」がついたのは、兄の口下手を三年間見続けてきた結果だった。
―――
夕方。
私は廊下を歩いていた。
リリーメルの部屋に向かう途中、ルーメンとすれ違った。
ルーメンの表情がいつもと違っていた。
鋭い目はそのまま。でも、目の奥に、何か光るものがあった。決意に近い何か。
「ルーメン様、お疲れ様でございます」
「……ああ」
いつも通りの短い返事。
でも、立ち止まった。
「……アリア」
「はい」
「……いや、何でもない」
また言いかけて、やめた。
でも今日は、やめた後の顔が違った。「言えなかった」のではなく、「まだその時ではない」と判断した顔だった。
「……近いうちに、話がある」
それだけ言って、ルーメンは歩いていった。
背中が廊下の奥に消えるまで、私は動けなかった。
(……話? 何のお話だろう。お嬢様のことかしら。縁談のことかしら)
足が動かない。
ルーメン様の声が、耳に残っている。いつもの短い言葉。でも今日は、その短さの中に、何かが詰まっていた。
(「近いうちに」。近いうちって、いつだろう。明日? 明後日? ……なぜ、こんなに気になるんだろう)
首を振った。いけない。今はお嬢様のお着替えの時間だ。
縁談、という言葉が頭に浮かんだ瞬間、胸がきゅっと締まった。
(……縁談? ルーメン様に、縁談?)
何かが引っかかった。
でも、それが何なのかわからなかった。
(……なぜ、胸が痛いんだろう)
わからないまま、リリーメルの部屋に向かった。
扉をノックする。
「お嬢様、お着替えのお時間です」
「入って」
リリーメルの顔が見えた。にっこりしている。いつも以上ににっこりしている。
(お嬢様がにっこりしている。かわいい。……でも何かを知っている顔だ)
「お嬢様、今日は特別にご機嫌ですね」
「そう? ふふ、いい日だっただけよ」
何がいい日なのかは教えてくれなかった。
日記帳を開いた。
『ルーメン様が「近いうちに話がある」と言った。何のお話だろう。縁談のことだろうか。そう思ったら、なぜか胸が痛かった。理由がわからない。お嬢様は今日もかわいかった』
ペンを置いた。
胸の痛みの正体に、まだ名前をつけられなかった。




