第20話:お嬢様を、愛でます
朝。
目が覚めた。
窓の外は晩秋の朝だ。空が高くて、薄い青色。冷たい空気が窓の隙間から入ってくる。
ベッドから起き上がって、鏡を見た。
メイド服を着ている。いつもの白いエプロン。いつもの髪型。いつも通りだ。
婚約者になっても、朝の仕事は変わらない。リリーメルが「メイドのアリアも好き」と言ったから、当分はこのままだ。
(……さ、お嬢様を起こしに行こう)
部屋を出た。廊下は静かだ。朝日が差し込んで、床を金色に染めている。
リリーメルの部屋の前。ノック三回。
「お嬢様、おはようございます」
「……おはよう、アリア」
扉を開けた。
毛布にくるまったリリーメルが、こちらを見ている。寝ぼけ眼。ふわふわの巻き毛が乱れている。頬に枕の跡がついている。
(かわいい)
三年前から変わらない感情。何があっても揺るがない感情。
お嬢様はかわいい。宇宙で一番かわいい。それは真理だ。物理法則だ。覆らない。
髪を梳かす。今日のリボンは何色にしよう。
「お嬢様、今日は何色がよろしいですか?」
「……白」
「白ですか。清楚でお似合いですね」
「ふふ。アリアに言われると嬉しい」
白いリボンを結んだ。鏡の中のリリーメルが、にっこりした。
十一歳。少しだけ背が伸びた。少しだけ大人っぽくなった。でも、笑顔は変わらない。
「お嬢様」
「何?」
「これからも、ずっと、ここにいてよろしいですか?」
リリーメルが鏡越しに目を丸くした。それから、ぱっと笑った。
「何を今さら。アリアが嫌いにならない限り、永遠にですわ」
(……お嬢様が「永遠」と言ってくれた。日記に書く。大きな字で書く)
「ずっと好きよ、アリア」
(!!!!!!!!!!!)
お嬢様に「好き」と言っていただいた。
世界が輝いた。鳥が歌った。花が咲いた。少なくとも私の中では。
「あ、ありがとうございます、お嬢様……!」
「ふふ。顔が赤い」
「赤くなります……! お嬢様に好きと言っていただいたら……!」
「もう、大げさ」
リリーメルが笑っている。
朝日に照らされた横顔。白いリボン。青い瞳。
(この子のそばにいられる。これからも、ずっと。メイドとしても、お姉様としても)
それだけで、もう十分だった。
―――
昼。
中庭を歩いていた。リリーメルの午後の散歩の準備をするために、東屋の花を確認しに。
回廊を曲がったところで、ルーメンとすれ違った。
いや、すれ違わなかった。
ルーメンが、私の隣に自然と並んだ。
肩が近い。でも、もう緊張しない。いや、少しだけする。でも、前のような恐怖はない。温かい緊張だ。
「……悪くない、未来だ」
ルーメンがぽつりと言った。
「え?」
「ここにいて、お前がいて、リリーメルがいて。……悪くない」
ルーメンらしい言葉だった。飾りがない。短い。でも、全部が入っている。
私はルーメンの顔を見た。
いつもの鋭い目。でも、今日は少しだけ柔らかい。口元が、ほんの少しだけ上がっている。
(……あ、これ、かわいい)
思った瞬間、自分で驚いた。
(え、私今ルーメン様のことを「かわいい」と思った!? どうしよう。お嬢様と同じ感覚で!? そういうことってあるの!?!?)
あるらしい。
ルーメン様の不器用な笑顔が、確かに「かわいい」と感じた。
(でも確かにかわいかった……。不器用に笑うところが……。口下手なのに一生懸命言葉にしようとするところが……。耳が赤くなるところが……)
全部、かわいい。
(……私の「愛でる」対象が、増えてしまった)
お嬢様を愛で、ルーメン様も愛でる。
欲張りだろうか。いや、愛でることに上限はない。
中庭の向こうから、リリーメルが歩いてきた。
私たち二人が並んでいるのを見て、足を止めた。
にっこり。
「良い景色ですわ」
十一歳の令嬢が、満足そうに言った。
策謀家の笑みではない。家族を見る、温かい笑み。
―――
午後。
リリーメルとお茶を飲みながら、中庭のベンチに座っている。
「ねえ、アリア」
「はい、お嬢様」
「お兄様のこと、ちゃんと愛でてあげてね」
「え」
「わたしだけ愛でられて、お兄様が放置されたらかわいそうですわ」
「あ、あの、ルーメン様のことも、ちゃんと……」
「ちゃんと?」
「……大切に、思っています」
「ふふ。知ってる」
リリーメルがお茶を一口飲んだ。
「でもね、アリア。わたしが一番よ?」
「もちろんです、お嬢様」
即答だった。迷いがなかった。
「お嬢様は宇宙で一番です。それは変わりません」
リリーメルが笑った。嬉しそうに。
「よろしい」
満足げに頷いて、ケーキを一口食べた。
秋の風が吹いた。落ち葉が舞った。
東屋の花は終わりかけているが、来年の春にはまた咲く。
私はこの場所にいる。
来年も。その次の年も。ずっと。
―――
夕方。
リリーメルをお風呂に送った後、廊下でドレンとすれ違った。
「アリアさん」
「はい、ドレンさん」
老執事が立ち止まった。白髪を整えた、背筋の真っ直ぐな姿。
「……少しだけ、個人的なことを申し上げてよろしいですか」
「はい」
「三年前、あなたがこの屋敷に来たとき、私は正直、長くは続かないだろうと思っておりました」
意外だった。ドレンがそんなことを思っていたとは。
「婚約を破棄された直後の令嬢が、メイドとして働く。普通は、長続きしません」
「……そうかもしれませんね」
「でも、あなたは続けた。三年間、一日も休まず、お嬢様のために尽くした。……それは、なかなかできることではありません」
ドレンが、わずかに頭を下げた。
「お見それしました。これからも、どうぞよろしくお願いいたします」
老執事のお辞儀。重い。
「……こちらこそ、ドレンさん。これからもよろしくお願いします」
ドレンが去った後、マルカが廊下の角から顔を出した。
「聞いてた?」
「聞いてました」
「ドレンさん、ああいうこと滅多に言わない人なのよ」
「……知っています」
「よかったわね、アリアさん」
マルカが微笑んだ。温かい笑み。三年間ずっと見守ってくれた人の笑み。
「……はい。マルカさんのおかげでもあります」
「大げさよ。さ、お仕事お仕事」
マルカがぱたぱたと歩いていった。
(……この屋敷の人たちに、私は恵まれた)
思った。心の底から。
―――
夜。
自室に戻って、日記帳を開いた。
今日は、いつもより長く書こうと思った。
ペンを取った。インクを確認した。新しいインク瓶だ。まだたくさんある。
書き始めた。
『今日も最高だった。
お嬢様のかわいさは宇宙で一番だ。朝の寝ぼけ顔。白いリボン。
「ずっと好きよ」と言ってくれた声。全部、宝物だ。
それから、ルーメン様の笑顔が見られた。
これも、宇宙で一番だ。
「悪くない未来だ」と言ったあの横顔。
不器用で、短くて、でもぜんぶが詰まっている。
私はなんと幸せな人間だろう。
三年前、婚約を破棄されたとき、私は泣かなかった。
泣く必要がなかったから。
あの日、私はお嬢様と出会い、この屋敷に来た。
それは、失ったものよりもずっと大きなものを得た日だった。
愛でることと、愛されることは、どちらも素晴らしい。
私はそれを、この三年間で学んだ。
だから私は、これからも全力でお嬢様を愛でながら、ルーメン様と生きていく。
それが、私の選んだ答えだ』
ペンを置いた。
窓の外に、星が見えた。
秋の夜空。澄んだ空気。遠くの山並みが、月明かりにうっすら光っている。
日記帳を閉じた。
明日も、お嬢様の朝の支度がある。
明日も、ルーメン様と廊下ですれ違う。
明日も、この屋敷で、この家族と、生きていく。
灯りを消した。
暗闇の中で、少しだけ笑った。
(……お嬢様を、愛でます)
いつもの言葉。いつもの気持ち。
でも今は、その「いつも」の中に、もう一人分の温かさがある。
目を閉じた。
穏やかな夜だった。




