第11話:アリアの混乱と現実逃避
翌朝。
目が覚めた瞬間、昨日のことが全部よみがえった。
リリーメルの「結婚してほしい」。
ルーメンの頷き。
赤い耳。
(うわああああああ)
毛布を頭からかぶった。
メイド歴三年にして、初めて朝の支度が遅れそうになった。
いや、遅れるわけにはいかない。プロだ。プロなのだ。
跳ね起きて、髪を結い上げ、メイド服を整え、鏡を見た。
……顔色が悪い。寝不足だ。当然だ。一睡もできなかった。
(大丈夫。大丈夫。いつも通りにすればいい。お嬢様の朝のお支度をする。それだけだ。それだけでいいのだ)
深呼吸して、廊下に出た。
―――
リリーメルの部屋のドア。
ノック三回。
「お嬢様、おはようございます」
「……おはよう、アリア」
扉を開けた。
毛布にくるまったリリーメルが、いつも通りの寝ぼけ顔でこちらを見ていた。
(かわいい)
この感情だけは、何があっても揺るがない。
お嬢様はかわいい。宇宙で一番かわいい。それは昨日も今日も明日も変わらない。
安心した。
この感情がある限り、私は大丈夫だ。
髪を梳かす。リボンを結ぶ。今日は薄紫色。
いつもの手順。いつもの仕草。
リリーメルが鏡越しにこちらを見た。
「……アリア、顔色悪い?」
「い、いいえ。大丈夫です」
「ふーん」
リリーメルの目が少しだけ細まった。観察している目だ。策謀家の目だ。
「昨日のこと、考えてた?」
(ぐさっ)
「……少しだけ」
「そう。まあ、ゆっくり考えればいいですわ」
あっさりと言った。追及しない。
この引き際の鮮やかさが、リリーメルの恐ろしいところだ。
(……お嬢様、絶対全部わかってる顔だ)
でも、ありがたかった。今は、追い詰められたくない。
―――
朝食。
食堂でアーレン伯爵、ルーメン、リリーメルが揃う。
私は壁際に控える。
ルーメンが入ってきた。
(!)
心臓が跳ねた。
いつもの鋭い目。いつもの無表情。いつも通りの歩き方。
何も変わっていない。変わっていないはずなのに、全部が違って見える。
ルーメンが席に着いた。
こちらをちらっと見た。
目が合った。
(!!!)
慌てて視線を逸らした。お嬢様のスープの温度を確認するふりをした。スープは完璧だった。何も問題ない。問題があるのは私の心拍数だ。
ルーメンは何も言わなかった。
いつも通りだった。
でも、少しだけ――少しだけ、口元が動いた気がした。何か言いかけて、やめた。
朝食は平穏に終わった。
表面上は。
―――
午前中。
リリーメルの勉強時間。私は部屋の隅で控えている。
リリーメルが算術の問題に取り組んでいる。真剣な顔。ペンを握る小さな手。眉間のしわ。
(かわいい)
よし。お嬢様を見ていれば落ち着く。お嬢様は変わらない。この可愛さは不変だ。永遠の定数だ。
でも。
ふとした瞬間に、ルーメンの顔が浮かぶ。
昨日、頷いた瞬間の顔。
赤くなった耳。
「驚かせた。すまない」と言った声。
(やめろ!!! 今はお嬢様の時間だ!!! 集中しろ!!!)
自分を叱りつけた。
お嬢様の勉強を見守る。それが今の仕事だ。
リリーメルが「できた!」とぱっと顔を上げた。
「さすがです、お嬢様」
にっこり。完璧なメイドの笑顔。
(……お嬢様が笑った。それだけでいい。それだけで私は幸せだ。本当に)
そう思った。
本当にそう思った。
でも同時に、胸の奥で何かがちくりとした。
それが何なのかは、まだわからなかった。
―――
午後。
図書室に本を届ける。いつものリリーメルからの依頼だ。
扉をノックした。心臓が早い。
いつもはただの業務だったのに。
「失礼します、ルーメン様」
扉を開けた。
ルーメンが机に向かっていた。こちらを見た。
目が合った。
(……)
ルーメンの目が、いつもより少しだけ柔らかい気がした。いや、気のせいだろう。気のせいに違いない。
「本を、お持ちしました」
「……ありがとう」
本を差し出す。受け取る。指は触れなかった。今日は触れなかった。
(ほっとした。いや、なぜほっとしたんだ。指が触れるかどうかなんて、今まで気にしたことなかったのに)
「他にご用はございますか」
「……いや」
少しの間。
「……アリア」
「はい」
「昨日のことは、気にしなくていい。お前のペースで」
短い言葉。でも、その声はいつもより温かかった。
「……ありがとうございます」
頭を下げて、退室した。
扉を閉めた。廊下に出た。
壁にもたれた。
(……ルーメン様が、「お前のペースで」って)
心臓がどくどく言っている。
(なぜこんなに優しいの。なぜこんなに待ってくれるの。お嬢様のお兄様として……いや、違う。違うんだ。もう「お兄様として」では説明がつかない)
三年間使ってきた「お兄様として」という解釈が、ひびを入れ始めていた。
―――
夜。
リリーメルをベッドに送った。
「おやすみ、アリア」
「おやすみなさい、お嬢様」
リリーメルが毛布にくるまりながら、ちらっとこちらを見た。
「……アリア。お兄様のこと、嫌い?」
唐突な質問。でもリリーメルらしい。
「いいえ。嫌いではありません」
正直に答えた。嫌いなわけがない。ルーメン様は静かで、誠実で、優しい人だ。
「……そう」
リリーメルが少しだけ笑った。安心した顔。十歳の、子供の顔だった。
「じゃあ、大丈夫ね」
何が大丈夫なのか、聞き返す前にリリーメルは目を閉じてしまった。
寝息が聞こえてくる。早い。
(……お嬢様)
毛布をそっと直して、部屋を出た。
―――
自室に戻って、机に向かった。
便箋を取り出した。姉のヴィオレに手紙を書こうとした。
『姉さんへ。エルドラドでは元気に働いています。最近、少し……混乱することがあって』
そこでペンが止まった。
何と書けばいいのだろう。
「ルーメン様が私を好きかもしれない」とは書けない。
「お嬢様が私をルーメン様と結婚させようとしている」とも書けない。
「心臓が止まらない」なんて、もっと書けない。
(……姉さんに心配をかけるわけにはいかない)
便箋を見つめた。ペンを握ったまま、一分、二分。
結局、こう書いた。
『姉さんへ。エルドラドでは元気に働いています。お嬢様もお元気です。最近は秋のお茶会が忙しかったですが、楽しい日々です。お体にはお気をつけて。アリアより』
何も伝えていない手紙ができた。
封をして、机の端に置いた。
日記帳を開いた。
『混乱している。ルーメン様のことを考えると心臓がおかしくなる。でもお嬢様はかわいい。それだけは変わらない。それだけは、絶対に変わらない』
ペンを置いた。
灯りを消して、ベッドに入った。
天井を見つめた。
(……ルーメン様が、「お前のペースで」と言ってくれた)
その言葉が、暗闇の中で、ずっと光っていた。




