第10話:お嬢様の本気、確認
中庭。夕方。
空が橙色に染まり始めている。花壇の花が夕日を浴びて、少しだけ違う色に見えた。
リリーメルと二人きりで、ベンチに座っていた。
いつもの時間。いつもの場所。でも、リリーメルの顔がいつもと少し違った。
真剣だった。
にこにこしているが、目の奥に決意がある。
「アリア」
「はい、お嬢様」
「わたし、正直に言いますわ」
改まった口調。十歳の声が、妙に大人びて聞こえた。
「何でしょう?」
リリーメルが私を真っ直ぐに見た。
青い瞳が、夕日を映して琥珀色に光っている。
「……ルーメンお兄様と、結婚してほしいんです。アリアに」
――。
時間が、止まった。
(え)
一拍。
(え!!!!!!)
二拍。
(え!?!?!?!?!?!?!?!?)
世界がぐるんと回った気がした。ベンチに座っているはずなのに、地面がなくなった感覚。
(ちょっと待って!!! 今お嬢様なんて言った!? ルーメン様と!? 結婚!? 私が!?!?)
外面は固まっていた。完全に。メイドの表情筋が機能停止していた。
「お、お嬢様……それは……」
声が裏返った。メイド三年目にして初めてだった。
「ルーメン様はお嬢様の大切なお兄様です。私のようなメイドが、そんな、とてもそういうことは……」
「そういうことよ」
リリーメルがあっさりと言った。
「それに、ルーメン様は私のことをそういう目で見ていらっしゃるはずが……」
「確認してみましょうか?」
「え、ちょっとお嬢様!?」
リリーメルが立ち上がった。ベンチから飛び降りるように。
そして中庭に向かって、澄んだ声で叫んだ。
「お兄様ー!」
(!!!!)
声が中庭に響いた。
鳥が飛び立った。
回廊の向こうから、足音が近づいてくる。
ルーメンが現れた。いつもの無表情。いつもの鋭い目。
でも足取りが少し速かった。リリーメルの呼び声には、すぐに来る。この兄は妹に弱い。
「……何だ」
「お兄様は、アリアのことが好きですか?」
直球。
豪速球。
打席に立つ前にボールが来た。
空気が凍った。
私は固まったまま、ルーメンを見ていた。
ルーメンは私を見て、それからリリーメルを見て、もう一度私を見た。
沈黙が流れた。
長い沈黙だった。
五秒。十秒。
風が吹いて、リリーメルの髪が揺れた。
夕日が赤くなっていく。
ルーメンの目が揺れた。
鋭い目が、一瞬だけ柔らかくなった。
そして、かすかに。
ほんのわずかに。
頷いた。
――。
世界が、また回った。
(…………は!?!?!?)
(何が起きた!? 今の何!? ルーメン様が!? 私を!? 好き!?!?!?)
(違う!!! 違う違う違う絶対何か誤解が!!!)
(でも確かに頷いた!!!)
(頷きましたよね!? 見間違いじゃないですよね!?)
(うそでしょ!?!?!?!?!?)
内心が嵐だった。台風だった。竜巻だった。
外面は――固まっていた。完全にフリーズしていた。
リリーメルが、にっこりと笑った。
「ほら」
満足そうに。得意そうに。十歳の策謀家の顔で。
「お兄様は、嘘をつかないでしょう?」
それはそうだ。ルーメンが嘘をつくところを、私は一度も見たことがない。
あの人は、言葉を選びすぎて何も言えないことはあっても、嘘を言うことはない。
だから、あの頷きは。
(本物……?)
ルーメンの目が、静かにこちらを見ていた。
いつもの鋭い目。でも、その奥に。
何かが。温かいものが。
(……え。ルーメン様が。私を。)
頬が熱くなった。
メイドとして、三年間一度も顔を赤くしたことがなかったのに。
「お嬢様、あの、これは……」
「アリアの答えは今すぐじゃなくていいですわ」
リリーメルが軽やかに言った。その声は、策謀家のそれではなかった。優しい声だった。十歳の女の子が、大切な人を気遣う声だった。
「でもね、アリア。お兄様はずっと前からそうだったの。わたしは知ってた。ずっと」
ルーメンが目を逸らした。
初めて見た。あの鋭い目が、逸れた。
耳の端が赤い。
(ルーメン様の耳が赤い……)
その小さな事実が、何よりも雄弁だった。
―――
リリーメルが「さ、お夕食の時間ですわ」と言って、先に歩き出した。
ルーメンが一歩遅れて、私の横を通り過ぎた。
すれ違いざまに、小さな声が聞こえた。
「……驚かせた。すまない」
それだけ言って、ルーメンは歩いていった。
(謝った……。ルーメン様が……)
その背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。
いつもは堂々としているのに。
(……ルーメン様も、緊張していたんだ)
そう気づいた瞬間、胸の奥で何かが、ぎゅっと締まった。
痛いのではない。温かいのだ。でも、どう処理すればいいかわからない温かさだった。
夕食は普通だった。
リリーメルがいつも通りスープを飲み、アーレン伯爵がいつも通り穏やかに笑い、ルーメンがいつも通り無口だった。
でも、一度だけ、ルーメンと目が合った。
すぐに逸らした。お互いに。
リリーメルだけが、にこにこしていた。
―――
その夜。
リリーメルをベッドに送り、自室に戻った。
ベッドに座って、ぼうっとしていた。
窓の外に夕焼けの残照が消えかけている。紫と紺の間の空。
頭の中がぐるぐるしている。
(ルーメン様が、私を好きだと。)
(リリーメルお嬢様が「結婚してほしい」と言った。)
(ルーメン様が、頷いた。)
どこから処理すればいいのかわからない。
(いや、まず落ち着け。落ち着け私。メイドだろう。プロだろう。冷静になれ)
深呼吸した。
一回。二回。三回。
ダメだ。落ち着かない。
(だって、ルーメン様の耳が赤かったんだもの……)
あの赤さは作り物じゃない。本物だ。人間の感情が体に出たときの、ごまかせない赤さだ。
日記帳を開こうとした。
手が震えていた。
ペンを取った。
書こうとした。
(……何を書けばいいんだろう)
結局、一行だけ書いた。
『お嬢様が「お兄様と結婚してほしい」と言った。ルーメン様が頷いた。これは、何かの冗談だろうか』
ペンを置いた。
窓の外に、星が一つ、光り始めていた。
(……冗談じゃない、よね)
心臓が、まだ速く打っていた。
中庭で見た夕日の色。
ルーメンの赤い耳の色。
リリーメルの「ほら」という声。
全部が、まぶたの裏に焼きついている。
(……ルーメン様のことを考えると、心臓がこうなる)
こう、というのがどういう状態なのか、自分でもわからない。
速いのだ。痛くはない。でも止まらない。
(これは……何なんだろう)
お嬢様のことを考えるときの幸福感とは違う。
お嬢様のかわいさに感動するときの「!!!」とも違う。
もっと静かで、もっと深くて、もっと――怖い。
(怖い? なぜ怖いんだろう)
答えは出なかった。
毛布を被って、目を閉じた。
明日、お嬢様の朝の支度がある。いつも通りの朝が来る。いつも通りにノックして、いつも通りに髪を梳かして、いつも通りにリボンを結ぶ。
それだけでいい。
それだけでいいはずだ。
――でも、明日からの「いつも通り」が、少しだけ違うものになる予感がしていた。
眠りに落ちる直前、最後に思い浮かんだのは、ルーメンの頷きだった。
静かな動作。確かな意志。
(……冗談じゃない)
確信だけが、胸に残った。




