第5話「……そんな顔もするんですのね」
アルバイトのない放課後というのは穏やかで、私の心を凪に導いてくれる。それは嵐の中を進むように慌ただしい演劇と比較して、森の湖畔で戯れるような一幕だった。
となれば、目の前で上品にはしゃぐクラスメイトたちの姿は、人間に隠れて踊る妖精じみている。
「本日はあのカフェのテラス席にしましょう! 天気もいいですし、いつもよりおいしくお茶が飲めそうです」
「お供します。うふふ、今日のケーキは何かしら」
クラスメイトたちの会話を一歩後ろで聞きながら、私は「ええ、本当に」と微笑みつつ同意する。最寄り駅から簡単にアクセスできるこの商業エリアでは、私たちとは異なる学校の制服も見かけた。
彼らもまた、学生の放課後という刹那を楽しんでいるのだろう……なんて達観したようなことを考えつつも、私の頭の中はささやかな葛藤を演じていた。
(……本日向かうお店は、紅茶だけでもなかなかいいお値段……ですが、このメンバーに対して『今日はコンビニでお菓子とお茶を調達するのはいかがでしょう?』なんて提案できませんわね……)
白鷺宮女学院に通う生徒は、いうまでもなく富裕層の生まれが多い。だからお出かけに誘われるということは『サービス料がメニューに含まれているようなお店』に向かうことと同義で、不自由こそしていないものの、一般家庭の生まれとしては財布のすすり泣く声が聞こえてきそうだった。
……コンビニやスーパーで売ってる生クリーム入りどら焼きは、あんなにおいしくてお手ごろなのに……。
「あら? あちらは……暁嶺高等学校の方たちですね」
「あの名門の? 私の友人の一人もあちらに通っていますよ」
「……ん?」
お気に入りのお菓子と飲み物を恋しがっていたら、クラスメイトの一人の声に現実へ引き戻される。
そちらに視線を動かすと、名門の進学校の生徒たちがいた。チャコールグレーのブレザーに細いチェックのスカート、そして深緑のネクタイの組み合わせは私の学校に勝るとも劣らない落ち着きを放っている。
それ自体は、驚くことじゃない。だけど私はその生徒の一人を視認することで、小さく声を漏らしてしまった。
(……あれは、安海さん? にしては、妙に……って、いくらなんでも失礼ですわね。けど……)
その中に、安海さんがいた。会話内容まではわからない距離だけど、その表情や動作はきちんと見分けられる。
彼女はクラスメイトたちに対し、分厚い資料を片手にルミアリエルの布教をしている……わけじゃなく。
(周囲の会話に合わせるように微笑んで、自分から会話を振る様子じゃない。息を潜めている、は邪推かしら?)
ドッグランに来たものの、元気に走り回るほかの犬の邪魔をしないように、入口付近で伏せている賢い大型犬。そんなイメージを抱いた。
多分それは、厄介ファンとしてのイメージが強すぎるゆえの、私の余計な推測なのだろう。
それでも。私は周囲の空気を守るように笑う様子に、ライバル令嬢よりも聖女を演じているような印象を持ってしまった。
「松林さん? どうかしましたか?」
「いえ、なんでもありませんわ。行きましょうか」
もちろん、余計な口を挟むわけがない。私はルミアリエルである前に松林留美で、彼女もまた、今は安海文香として生きているのだから。
「……そんな顔もするんですのね」
それでも私はそこを立ち去る前に、とても小さく、人混みにかき消されるような声でつぶやいていた。
*
「お待ちしておりました、ルミア様。どうぞこちらを」
「出勤直後に分厚い資料を見せつけられる同僚の気持ち、考えたことがありますの? というか、これ……普段読んでいるものとは違うような」
「はい、こちらは『ルミア様生存のための記録』です! なぜルミア様が死んではならないのか、それを伝えるにはルミア様が生きていることの素晴らしさを喧伝すべきと判断しました!」
「どうしてあなたはその努力と有能さを勉学に注げませんの!?」
「勉強もちゃんとしています! それに、愛する人を奪われまいと戦うのは人間として当然の感情です!」
「そんな重たい愛情を押し付けないでくださるかしら!?」
「あっ、それでもちゃんと目を通すんですね……松林さんらしいです」
……もしかすると、先日の放課後は黄昏が見せた幻覚だったのかもしれない。
ため息交じりにそんなことを考えてしまうくらい、楽屋にいた安海さんはいつも通りだった。あるいは、安海さんには双子の姉妹がいて……だとしたら、双子の姉か妹は、毎日こんなものを見せられているのでしょうか……?
頭痛を感じつつも、私は資料をめくってみた。高町さんのツッコミには、曖昧に微笑んで応じる。
「好きな紅茶、よく使う言葉、過去の勝敗、リオネを籠絡した回数……本当にきれいに整理してますのね。これ、AIを使ってませんの?」
「AIはどれだけ語っても解釈違いを起こすから……人間の愛を理解するのはまだ難しいみたいです」
「人間というよりも『厄介ファン』の間違いでは? あと、さすがにこの部分は申し上げたいこともあるのですが?」
残念なことに、資料としてはよくできていた。残念、という感想が先行する理由は、どの項目も『このように、ルミア様は余人をもって代えがたい。ゆえに人がルミア様を裁こうなどとおこがましい』なんて結論に到達しているからだ。
そんな流し読みしているだけで胸焼けを起こしそうな資料には、いくつものツッコミどころがあった。そのうちの一つを、指でとんとんと叩く。
「どうして『庶民的な菓子を好む』が『民情視察に熱心』に変換されているんですの?」
「だって……ルミア様、休憩中にどら焼きを食べることが多かったので……そのお姿を見るたび、私は『庶民の好みを把握して、人心掌握を進めている』としか思えなくて」
「単純に好きだからなのですけど!? わたくしがお菓子を食べているときにたまに視線が合うのはそういうことでしたの!?」
「ルミア様は直接聞いても素直に答えてくれませんから! ちなみにそういう頑固さも解釈通りなので文句はありません!」
相変わらずこの子、こういうときは無敵にしか見えませんわ……。
私がルミアリエルでないとき──安海さんとしてはすべてがルミアリエルだけど──も、この子はひたすらにルミアリエルを知ろうとしている。それは、彼女ほどのファンであれば当然の心理かもしれない。
でもそれは、私が四六時中、何をしてもルミアリエルとして解釈されてしまうわけで。
面白くない、というのは違うと思う。けれど、心のすみっこ、その一部がずーんと重く沈んでいくようで、仕事前だというのに疲労を感じた。
「はぁ、まったく……わたくしのこと、そんなに知りたいんですの?」
「無論です! ルミア様を知り、そして周囲にもルミア様について知ってもらうことで、この人を失うことの重みをもっと広めてですね」
「今は松林留美として語っているつもりですが……ともかく。そんなに知りたいのであれば、ご自分のことも同じくらい話してくださいまし。たとえば、そうですね……学校のある日、放課後はどんな過ごし方をしているのか、ですとか」
少し、切り込みすぎたかもしれない。ルミアリエルとしてフェンシングの試合に挑むのであれば、ラフィエラの喉元を突いた、と表現すべきか。
安海さんは私が自分のことを知りたいだなんて言ってくるとは思わなかったのか、あるいは『放課後』という単語に思い当たる節があったのか。
きょとんとしたかと思ったら、一瞬だけ気まずそうな顔をして、それでもなにかを探すように資料をめくり始めた。
「……ラフィエラはですね、学校が終わると図書室に向かうことが多いんです。そこにはルミア様が来てらっしゃることも多いですし、なにより、ルミア様がしようとしていることを調べ、まとめて、そして次の戦いに」
「今は安海文香さんの話をしているんです。ラフィエラのことであれば台本やその資料にも書かれていると思いますが、わたくしが知りたいのは……」
知りたいのは、何?
自分で口にしておいて、続きはすぐには出てこなかった。
どうして放課後のあなたは、あんな顔をしていたのです?
そんな詮索ができるほど、私はこの子のことを知らなかった。なにかを知るためには、もっと些細ななにかを知って、お互いの地図に広がる空白を埋めないといけない。
それが少しだけ、私を踏みとどまらせた。
「……安海さんが好きなあんこの種類、とか……?」
「へ? えっと、私は粒あんのほうが……じゃあルミア様、私が答えたので次はルミア様の好きなあんこの種類を教えてください! できれば好きなどら焼きのメーカー、食べ方、一緒に飲むお茶、普段はどこで購入しているか、あとは」
「なんでわたくしが開示する情報のほうが多いんですの?! そんな不公平、認められませんわ! ちなみにこしあん派です!」
結局のところ、私は安海さんのことを知らなさすぎて、それでも彼女は私……もとい、ルミアリエルのことを知りすぎていて、その不公平が嫌なのだろうか?
お互いの地図に残る空白を手探りしながら、私は暴走を始めた安海さんへ突っ込む。高町さんはそれを「今日も仲良しです」なんて見守ってくれていた。
*
ラ・クーロンヌでは、ときどき“即興劇”が行われる。
これは予定されていた劇と異なり、世界観を崩さない範囲であれば、ある程度はキャストの自由に演じられるミニイベントだ。
たとえばキャストがホール担当として接客しているところへ、別のキャストがセリフを差し込み、そのままちょっとした劇にする……というケースが多かった。
「ルミアリエル様! 本日のおすすめを教えてください!」
「あら、リオネ様みたいにわたくしへ判断を委ねますの? うふふ、とても賢いこと……そうですわね、季節のミニケーキセットがおすすめです」
「じゃあそれで!」
「あら? ルミア様は、異国のお菓子……“和菓子”がお好きではなかったのですか?」
嬉しそうに私へ尋ねてくるお客さんに対し、オーダーをとりつつもルミアリエルとして回答する。そこにラフィエラが割って入ってくると同時に、目の前から「きゃー! ラフィエラ様も来てくれた!」と歓声が上がった。
私は即興劇の始まりを感じて振り向く。すると、ラフィエラの顔にはいつもの微笑みというよりも、どこか意地悪い、子供っぽい笑顔が浮かんでいた。
(……さっきの仕返しですの? この厄介ファンめ……)
私もまた、笑っていた。あえて蔑むように、ルミアリエルを演じて。
それでも胸の底から、安堵がふっと浮かび上がる。言葉のフェンシングで、安海さんを傷つけてはいなかったらしい。
私は注文票を扇子のように使って口元を隠しながら、「さすが、しつこいほどわたくしを見ているだけはあります」と不敵に応じた。




