第七話 父が数える二十年
青い朝札は、箱の中では二十年に見えなかった。
父エドガールは書斎の床へ最初の束を置いた。薄い紙が十枚ほど。日付の古い順に、ミレイユの幼い文字が並んでいる。
六歳の長女が書いた札は、行が右へ傾いていた。
父上は昨日、わたしの誕生日に帰ると約束しました。領地の川があふれたので、帰れませんでした。怒っているのではありません。帰れなかったことを悲しんでいます。
その札を読んだ朝、エドガールは娘へ何と答えたのか。
覚えていない。
川が氾濫した年も、屋敷へ戻れなかった事実も知っている。娘の誕生日を欠席したことも、家令の記録にある。
だが、悲しんだと伝えた言葉は、今まで自分の中にあったのか。
翌朝、札を読んで娘へ謝ったはずだ。その謝罪をミレイユが次の札へ書き、また自分へ返したのだろう。
エドガールは二枚目を置く。
七歳。母エレーヌの誕生日を忘れ、夜になって花を届けると約束した札。
八歳。家族で食事をすると言いながら、客人を優先した札。
九歳。娘の記憶術を王都の学者へ見せないと約束し、翌朝には約束の理由を失った札。
十歳。
十一歳。
床の上に、誕生日の札が増えていく。
「一、二、三」
声に出して数えた。
十六枚目からは、ミレイユの文字が整っていた。感情の名が減り、事実と約束の順序が明確になる。父が読みやすいよう、娘が書き方を変えた時期だった。
二十枚。
ミレイユが六歳から家を出るまでに、家族四人の誕生日について残した札が二十組ではない。一年ごとに一組を選び、目の前へ置いただけで二十枚になった。
箱には、その何倍もある。
「何をなさっているの」
扉の前にエレーヌが立っていた。
「数えている」
「何を」
エドガールは答えず、次の束を開く。
夫婦の仲直りに関する札には、紺色の印が付いていた。ミレイユが母の部屋と父の書斎を往復し、翌朝に必要な言葉を分けていたらしい。
エレーヌは床へ膝をついた。
「それは、私があなたへ花瓶を投げた夜の」
「花瓶は割れていない」
「投げようとしたの。ミレイユが受け取ったから」
そんなことは知らなかった。
札には、母は父に、領地の病院へ自分の持参金を使う許可を求めた。父は相談を裏切りと受け取り、許可を拒む。母は話を聞いてほしかった。父は翌朝、病院の計画を読むと約束した、とある。
その朝、エドガールは計画を読んだ。良い案だと認め、妻の善意を称えた記憶がある。
自分は冷静になって考え直したのだと、長く信じていた。
違う。
娘が、怒りの後に残った約束を返していた。
夫婦が仲直りした札は十一束あった。束ごとに何枚もある。エドガールは代表の一枚を床へ置き、一から数え直す。
十一回。
「私は、翌朝のあなたを見て、ちゃんと分かってくれたのだと喜んでいたわ」
エレーヌが札へ手を置く。
「でも、分からせたのはミレイユだった」
「お前も娘へ言葉を預けていた」
「ええ」
母は否定しなかった。
「私はあの子に、今日のあなたへ昨日の私を伝えて、と頼んだ。自分で話せば、また争いになるから。ミレイユなら、あなたが受け取れる言葉に直してくれたもの」
優しい妻だったから夫婦が続いたのではない。理性的な夫だったからでもない。
二人の間には、毎朝、娘がいた。
次の箱をセレネが運んできた。顔色は悪いが、手に持った目録には自分で日付を書いている。
「お姉様が私に返した約束です」
六つの束を床へ並べた。
友人の秘密を守る。母の宝石を勝手に借りない。使用人へ苛立ちをぶつけたら謝る。アルノーの家族を、呪いのない逃げ道として扱わない。
最後の約束は守られなかった。
「六回、姉は私が誰かを傷つけた理由まで教えてくれました」
セレネは自分の目録を握る。
「だから私は、謝れる人だと思っていました。お姉様がいなくても同じ人でいられると」
エドガールは六束を数えた。
縁談の危機に関する札は三束。
一度目は、エドガールがヴァレ侯爵を軽んじる発言をした夜。二度目は、セレネがアルノーの冬館を田舎だと笑った夜。三度目は婚約披露の前夜、家系図からミレイユを外すことに家族全員が同意した夜。
最後の札だけ、青い紙ではなかった。
白い紙に日付と事実が記されている。
家族は、長女を遠縁の記録係と紹介する。本人は反対した。父は必要な処置だと決定した。母の選択は沈黙。妹は婚約後に戻せると考え、同意した。
感情の翻訳がない。
ミレイユは最後の夜、自分たちを善人に直さなかった。
エドガールは白い紙を床へ置いた。
誕生日、二十。
夫婦の仲直り、十一。
娘たちへの約束、六。
縁談の危機、三。
数えたのは代表の札だけだ。箱には病、葬儀、領民への謝罪、使用人との行き違い、家族の祝いが詰まっている。
毎朝一枚読むだけだと思っていた。
一枚を書くために、ミレイユは夜の全員を覚えていた。父の怒りを父が受け入れられる言葉へ直し、母の沈黙から本音を拾い、妹の涙に理由を与えた。
エドガールは銀の札入れへ手を伸ばす。
指が縁を叩く。
空の音。
一度。
もう一度。
娘を呼ぶ代わりに、この器を叩いていた。答えが遅いと苛立つ時も、言葉の続きを失った時も。
「やめて」
エレーヌの声で手が止まる。
「それを鳴らせば、あの子が来ると思っているように聞こえるわ」
そうではないと言いかけた。
否定する材料がなかった。
エドガールは札入れを伏せた。
「ミレイユの好物は何だ」
妻と次女が顔を見合わせる。
「甘い物は、あまり」
エレーヌの答えは途中で消えた。
「果物なら食べていました」
セレネも種類を言えない。
父親の自分にも分からなかった。
誕生日を二十回教えられた。娘が母へ何を贈り、妹がどんな菓子を喜び、自分が何に失望したかまで返されている。
それなのに、娘の好きな物は一つも朝札に書かせなかった。
「二十回の誕生日を教えられて、私は娘の好物を一つも知らない」
言葉にすると、札の青が急に濃く見えた。
これは家の記録ではない。
娘の時間だ。
エドガールは立ち上がった。足元の札を踏まないよう、壁まで遠回りする。
「証言院へ行く」
「お父様」
「認証式の前に、話す機会を求める。今度は私が説明する」
セレネは止めなかった。
「姉へ戻るよう頼むのですか」
「家族なのだ。謝れば」
その先の言葉を、二人は待った。
戻るはずだ。許すはずだ。家族なら。
エドガールは最後まで言えなかったが、考えを捨ててもいなかった。
王立証言院の廊下は、歩く音をよく返す。
面会申請を出し、認証式に関する相談として待たされた。家族という理由では扉は開かない。エドガールは受付横の長椅子に座り、膝の上で手を組んだ。
奥の面談室から、ミレイユの声が聞こえた。
扉は少し開いている。中にはベルナール院長と娘がいる。
「院長の私用記録は、証言院の保管対象ではありません」
「承知しています」
「でしたら、毎日の食事まで二部残す必要は」
ベルナール院長の返事はすぐに来なかった。
エドガールは顔を上げる。
「故国で記録庫が焼けた時、家族が最後に何を話したか証明できませんでした」
低い声が廊下まで届く。
「私は記録を残せば人を失わずに済むと、今も錯覚します。越えた時は止めてください」
ミレイユは黙っていた。
院長は彼女へ、止める権利を渡している。
エドガールは家族という言葉で、娘が止める権利を奪った。名簿から外しても務めは残ると言い、報酬を出せば同じ役目へ戻せると考えた。
「分かりました」
娘の声がする。
「ただし、私が止めた時に、理由を説明する義務は負いません」
「はい」
扉が開き、ベルナール院長が先に出た。
エドガールを見ても驚かない。
「ローデン子爵。面会の申請は受け取りました」
「娘と話したい」
「本日は本人が辞退しています」
「私は謝罪に来た」
「認証式には、家族からの申し立てを述べる時間があります。公の記録へ残す覚悟がおありなら、そこで」
公の場で、娘を遠縁と紹介した。
ならば訂正も、同じ明るさの下で行うべきだ。
エドガールは頷いた。
「すべて話す。娘だと認め、戻ってほしいと頼む」
ベルナール院長の表情は変わらない。
「頼むことはできます。答えを決めることはできません」
エドガールは、その区別をまだ受け入れきれない。
二十年を数えた。家族のために何をしてきたかも理解した。父親が誤りを認め、家へ戻るよう求めれば、娘は立ち止まるはずだ。
そうでなければ、二十年は何だったのか。
問いが浮かび、すぐ形を変えた。
二十年を意味のあるものにする役まで、また娘へ求めようとしている。
廊下の窓から庭が見える。雨の跡が葉に残り、梨の枝だけが低く揺れていた。
あれを娘が好きかどうか、エドガールには分からない。
娘の好きなものを、私は一つも証言できなかった。




