第六話 破談は誰のせいか
アルノーは婚約指輪を外さずに来た。
それだけを見て、セレネはまだ話し合えると思った。
応接室には父と母が並び、正面にアルノーとヴァレ侯爵が座っている。卓上には、南の果樹園、冬の滞在先、婚礼衣装についての控えが重ねられていた。
どれも文字は読める。署名も日付もある。
食い違っているのは、その間だ。
「果樹園の収益を持参金へ含める件は、こちらの控えにもございます」
アルノーは一枚目を示した。
「屋敷そのものを譲る話はありません。翌日、ローデン子爵が屋敷も含むと話された理由を伺いたい」
父は腕を組んだ。
「披露の席で説明したとおり、伝達の行き違いだ」
「誰と誰の伝達でしょう」
「家内のことだ。婚約条件の本筋には関わらない」
アルノーは次の紙を取る。
「セレネ嬢は、冬館へ行くのが怖いと母へ話した。その後、王都の別邸を選ぶと答えている。先日は、その会話自体を覚えておられなかった」
セレネは膝の上で指を重ねた。
怖いと言ったことは、母の説明を聞いてから紙へ書いた。今も文字なら覚えている。
なぜ怖かったのかは分からない。
冬館の雪か。侯爵家の使用人か。家族から離れることか。それとも、呪いのない家へ行けば幸せになれると信じた自分が、そこで何も覚えていない朝を迎えることか。
姉なら知っていた。
その考えを、セレネは紙へ書かなかった。
「婚約後の滞在先は、改めて決めればよい」
父は別の控えを開いた。
「娘は婚約披露の疲れで混乱していた。記録係が無断で職務を放棄したことも影響している」
「ミレイユ嬢のことですか」
アルノーの声が少し低くなる。
「彼女は当家の記録係だ」
「披露の前まで、長女として紹介されていました」
「血縁上の整理が済んだだけだ。家内では以前と変わらない」
セレネは父を見た。
姉が出ていった朝、父は「名簿が変わっても家族の務めは変わらない」と言った。今はアルノーへ、家内では以前と変わらないと説明している。
それなら、なぜ家系図から名を外したのか。
答えはセレネのためだった。
ヴァレ侯爵家には、ローデン家の呪いを伝えていない。セレネにも軽い物忘れがあるとだけ話し、姉が特別に優れた記録係だから支障はないと説明した。
家系図に姉が残れば、なぜ長女だけを記録係として扱うのか問われる。姉を遠縁にすれば、ローデンの血に関係のない能力として示せる。
呪いのない家へ嫁げる。
セレネは、その言葉を何度も胸の中で使った。姉も自分を救いたいはずだと続ければ、排除へ頷いた自分を見ずに済んだ。
「アルノー様」
声が少し掠れた。
「私は、知っていました。お姉様を遠縁と紹介することも、その理由も」
父が名を呼んだ。
「セレネ、今は婚約条件の話をしている」
「これが条件だったのでしょう、お父様」
姉を家族から消すことが。
アルノーはセレネから目を逸らさなかった。
「呪いについて、説明していただけますか」
父の返事は遅れた。
乾いた事実や文字は残る。強い感情を伴う約束と、その文脈が朝に薄れる。姉だけが残響を保持できる。
セレネは自分の口で話した。父が止める前に、母が柔らかな言葉へ包む前に。
アルノーは聞き終えても、指輪へ触れなかった。
「呪いがあるから、婚約を取りやめるのですか」
セレネの問いに、彼は首を横へ振る。
「呪いは病や体質と同じく、共に備える方法を考えられます」
「では」
「問題は、その備えとして一人の娘を家族から消したことです」
父が身を乗り出した。
「ミレイユは了承していた。家を守る意味を理解している」
「本人は家を出たと伺いました」
「一時的な反抗だ」
アルノーはそこで指輪を外した。
金属が小皿へ置かれる。小さな音だった。セレネの前に、丸い輪だけが残る。
「婚約を白紙へ戻します」
母が立ち上がった。
「アルノー様、どうか急がないでください。セレネはあなたを大切に」
「セレネ嬢の気持ちを疑ってはいません」
彼はセレネへ一礼した。
「ただ、この家が何を家族と呼び、誰の言葉で信用を保っていたのか。私は知らないまま婚姻を結べません」
父が姉の名を口にする。
「ミレイユを連れ戻せば、これまでどおりになる」
アルノーの顔から、最後の迷いが消えた。
「彼女はあなた方の記憶ではありません。一人分の未来を持つ方です」
父は返す言葉を失った。
セレネの内側には、指輪を取り戻したい気持ちが残っている。姉が戻れば。姉が昨日を説明すれば。姉がアルノーへ、家族は悪くないと伝えてくれれば。
その願いこそ、婚約を失った理由だった。
アルノーは指輪を置いたまま退出した。ヴァレ侯爵は父へ、今後の連絡は文書で行うとだけ告げた。
扉が閉まる。
父はすぐにセレネを見た。
「ミレイユへ行きなさい。お前の婚約が破談になったと知れば、考え直す」
「行きます」
父の表情が緩む。
「ただし、お父様の言葉は運びません」
緩みが消えた。
「何のために行くつもりだ」
「私が謝るためです」
父は姉の不在を反抗と呼ぶ。母は傷つけたのなら謝りたいと言う。セレネも昨日まで、姉なら困っている妹を見捨てないと信じていた。
誰も、姉が何を望むかを尋ねていない。
証言院の受付で、セレネは面会申請の目的欄へ「謝罪」と書いた。復帰要請、記憶照会、家族間調停の欄には印を付けない。
許可が下りるまで、青い証言札の見本を眺めて待った。上には必ず本人の名を書く。家の名でも依頼人の名でもない。
案内された面談室には、同じ高さの椅子が二脚あった。
姉は窓側に座っている。淡い灰色の衣装。机の端には、自分の名を書いた青い札があった。
ベルナール院長は壁際に立ち、二人の間へ入らない。
「お姉様」
呼ぶと、姉は静かに顔を上げた。
セレネは用意した手紙を差し出した。破談のことは書いた。父の要望は一文字も入れていない。
「許してとは言いません。戻ってとも言いません。私が姉を消す側に立ったことだけ、忘れません」
姉は手紙を受け取った。
開かなかった。
「受け取りました」
それだけだった。
胸の中で、もっと何かを求める声がする。怒ってほしい。責めてほしい。いつか許すと言ってほしい。
セレネは何も足さなかった。
「婚約は、なくなりました」
「そうですか」
「お姉様は、安心しましたか」
姉の手が手紙の上で止まる。
長い沈黙の後、姉はベルナール院長を見ずに答えた。
「あなたの苦しみを望んではいません。ただ、私を隠したまま何も起きずに済まなくてよかったと、安堵しています」
セレネの胸へ痛みが落ちた。
正しい姉なら言わないと、昨日までの自分は考えただろう。妹の幸福を願い、傷ついても支える姉。その形から外れた感情を、姉自身のものとして認めなかった。
ベルナール院長が初めて口を開く。
「安堵したことと、破談を起こしたことは別です」
姉の感情を慰める声でも、セレネを責める声でもない。誰が何をしたかを、混ぜずに置く言葉だった。
セレネは頷いた。
「はい。破談の理由を作ったのは、私たちです」
立ち上がっても、姉は引き止めなかった。セレネも次の面会を願わない。
扉の前で振り返ると、姉はまだ手紙を開いていなかった。
読むかどうかも姉が決める。
失ったのは縁談ではない。姉に信じてもらえる最後の朝だった。




