第五話 証言院の椅子
王立証言院の面談室には、机を挟んで向かい合い、座面の高さも背の角度も等しい椅子が二脚ある。
院長用の大きな椅子は置かない。証言する者が見上げる配置では、沈黙まで服従と取り違えやすいからだ。
朝一番、椅子を戻す。
昨夕、ミレイユ・ローデンが宿街から連絡を寄越した。三つの書類を比較したいので、制度の説明を受けたい。就職を選ぶとは書いていない。
その違いを、職員には二度確認させた。
約束の時刻より少し早く、扉が三度鳴る。
「どうぞ」
ミレイユは小さな鞄を持って入った。子爵家の紋章はない。淡い灰色の衣装に、昨日と同じ銀の名紐を巻いている。
彼女は二脚を見比べた。
「どちらへ座ればよろしいでしょうか」
「お好きな方へ」
一瞬だけ迷い、窓に近い椅子を選ぶ。逃げ道へ近い方でも、院長席から遠い方でもない。庭の梨の木が見える場所だった。
リュシアンは向かいへ座った。
机には契約書を一通だけ置いてある。就職、保護証言、休養の三案を再び並べなかった。今日、彼女が説明を求めたのは就職案についてだけだ。
「王立証言官候補の期間は半年です。依頼ごとに、記憶の範囲、使用目的、保管期限を先に示します」
ミレイユは契約書の各項目を順に読む。
「証言した後の撤回権は、どこまで認められますか」
「審理が確定する前なら全面撤回できます。確定後も、別件への転用を止められます」
「撤回によって生じた損失を、証言者が負うことは」
「故意の虚偽がない限り、ありません」
彼女の指が、損害賠償の欄から離れた。
家族の記憶を返さなければ、誰かが困る。その困りごとを自分の責任として引き受ける癖が、質問の順番に表れている。
リュシアンは次の説明へ進む前に、青い紙を一枚出した。
ローデン家で使われていた朝札より、少し大きい。上部に証言者名、下部に依頼番号と撤回期限を書く欄がある。
「当院の証言札です。無記名では扱いません。署名を隠す場合も、本人が匿名を選んだ記録を別に残します」
ミレイユは青い札を持ち上げ、裏面まで確かめた。
「私の名が、必ずどこかに残るのですね」
「残すか消すかを、あなたが選んだことも含めて」
手が止まる。
「働きます」
声は小さいが、条件を求める響きではなかった。
「候補者として、正式にお願いいたします」
リュシアンは契約書を彼女の側へ向けた。
「承りました、ミレイユさん」
呼び方を変えると、彼女の目が上がった。
「採用した職員を、家名と身分だけで呼ばない規則です。別の呼び方をご希望なら直します」
「いいえ。それで」
ミレイユは署名する。紙の上に、自分の名を最後まで書いた。
午前の鐘が鳴る直前、受付から内線札が届いた。
ローデン子爵夫人が面会を求めている。予約なし。用件は家族の相談。
リュシアンは札をミレイユへ見せた。
「会われますか」
彼女は読み終えても、すぐ返さない。
「今は、会いません」
「分かりました」
受付へ返す欄に、本人辞退と記す。それ以上の理由は書かない。
扉の外で声が高くなった。
「娘に会うのに、なぜ依頼書が要るのです。私は母親です」
厚い壁を通しても、エレーヌの声だと分かる。
受付官は一定の声で説明している。証言官候補への面会は本人の同意が必要。記憶に関する相談なら、対象範囲と利用目的を依頼書へ記す。
「家族の話です。仕事ではありません」
リュシアンは立った。
ミレイユは窓際の椅子に座ったまま、署名した契約書を見ている。
「私が対応してもよろしいですか」
「はい」
許可を得てから扉を開けた。
廊下にはエレーヌが一人で立っていた。供も待合の外へ残したらしい。薔薇の香りが面談室へ流れ込む。
「ベルナール院長。長女をこちらで預かっていると伺いました」
「ミレイユさんは、ご自身で宿を取り、本日から当院の候補者として勤務されます」
「家を出た直後で、正しい判断ができているか分かりません。母親として話を」
「本人は今、面会を望んでいません」
エレーヌの視線が、扉の隙間へ向かう。
「私たちは家族なのです」
「会うかどうかを決めるのは、家族という名ではなくミレイユさんです」
廊下の端で、受付官が記録票へ時刻を入れた。
エレーヌは扉へ呼びかけなかった。受付卓に置かれた依頼書を見て、手に取る。
「これを書けば、会えるのですか」
「依頼が受理されても、本人が断れば面会は成立しません」
「何を書けばよいのでしょう」
リュシアンは答えを急がなかった。
相談したい内容を自分で決め、何を求めるのか自分の言葉で記す。エレーヌに必要なのは、その作業だろう。
「目的を、そのままお書きください」
母親だから会う。娘だから戻る。その二つを目的の欄へ書けば、紙の上でも同じ円を回る。
エレーヌは白紙を持ったまま待合へ移った。
扉を閉めると、ミレイユは青い証言札へ日付を書いていた。
「ありがとうございました」
「職務です」
答えた後、少し硬すぎたと分かる。彼女に恩を感じさせないための言葉が、感情まで遠ざけることがある。
リュシアンは机の端に積んだ控えを移した。
公的記録の下から、私用の紙が現れる。昨日の食事、読んだ本、窓を閉めた時刻。誰に見せる予定もない記録まで、日付順に束ねてある。
故国の記録が焼けた後から、空白を残せなくなった。
ミレイユはその紙へ目をやったが、尋ねない。
彼女が青い札に書いたのは、最初の訓練で扱う記憶の範囲だった。昨夜、宿の主人と交わした会話。部屋代と朝食の時刻。感情の残響をどこまで言葉へできるか。
「昨夜は眠れましたか」
口にしてから、質問の範囲が契約書にないと気づいた。
ミレイユの筆が止まる。
「今の質問は仕事の範囲を越えました。答えないでください」
「心配してくださったのでは」
「それでも、先に尋ねてよいか確認すべきでした。申し訳ありません」
リュシアンは質問を記録しなかった。私用の控えにも書かない。謝罪だけを口にして、次の訓練項目へ移る。
ミレイユはしばらく青い札を見ていた。
「明日も、今の謝罪を覚えていらっしゃいますか」
「覚えています」
「書かなくても」
問いに、机の私用紙が重くなる。
「覚えています。ですが、書く癖があります」
ミレイユは笑わなかった。軽蔑も示さない。ただ、紙の束と彼を同じ静けさで見た。
「では、今日は書かないでいただけますか。私が覚えていますから」
その提案を受けるまで、リュシアンは一呼吸置いた。
記録しない選択を他人から渡されたのは、彼にも久しい。
「お願いします」
ミレイユは青い札へ戻った。自分の名と、扱う範囲と、撤回期限を一つずつ埋めていく。
窓際の椅子は、もう客用ではない。彼女が選んで座り、自分の署名を置くための場所になった。
彼女の記憶を借りる前に、彼女へ椅子を返さなければならない。




