第四話 姉のいない朝
姉の部屋は、物が少ないせいで広くなっていた。
衣装棚には三着分の隙間。机の上にはインクの輪。寝台脇には、使われなかった青い紙が束で残っている。
セレネは扉の外から中を見ただけで、入れなかった。
姉が王都へ出て二日目の朝、屋敷には予定表があった。
朝食は七時。花屋は九時。仕立屋は十時。午後にはアルノーが母親と訪れ、南の果樹園と婚礼衣装について協議する。
文字は一つも消えていない。
「予定表がある。少し不便なだけだ」
父は銀の札入れを脇へ押し、執事へ予定どおり進めるよう命じた。
最初に来た花屋は、白い冬薔薇を二百本運んできた。
セレネが頼んだのは桃色の薔薇だった。少なくとも、そう書いた控えがある。
「白へ変更されたのは、お嬢様からのお申し出でございます」
花屋の女主人は受注票を示した。そこにはセレネの署名があった。
「どうして私が白にしたの」
「アルノー様のお母様がお好きだから、と伺いました」
「でも、会場は桃色でまとめるはずだったわ」
「ですから昨日、当店から確認を」
女主人はそこで言葉を切った。
確認に来た店員へ、セレネは何を答えたのか。受注票には「変更なし」とある。誰が何を心配し、なぜ白を選んだのかは、どこにも残っていない。
姉なら知っている。
その考えが頭に上がった途端、セレネは玄関を見た。姉が書斎から青い札を持って現れる朝の動きが、まだ屋敷の壁に残っている気がした。
誰も来ない。
花屋は白い薔薇を置き、桃色への交換には追加料金がかかると告げた。父は家令へ支払わせた。
次の仕立屋は、婚礼衣装の袖を片方だけ短く仕上げていた。
「右手で父君の紋章へ触れる儀式があるため、右袖を短くと」
「ヴァレ家の儀式では左手よ」
「昨日、お嬢様から右手と確認を頂きました」
「私は何を聞いて、そう答えたの」
仕立屋は困った顔で受注帳を開く。質問も答えも書いてある。けれど、セレネが答える前に母と口論していたことや、右と左を取り違えた後に姉へ訂正を頼んだことまでは記されていない。
姉は昨日まで、セレネの間違いをそのまま残さなかった。
何を傷つけるかを説明し、訂正する言葉を一緒に考えた。翌朝には、セレネが自分で過ちに気づいた形の青い札が届く。
それを読むと、謝る理由が自分の中に戻ってきた。
セレネは善い人でいられた。
「お姉様がいないから、分からないの」
仕立屋は視線を下げた。
「ミレイユ様は、変更の理由まで添えてくださいましたから」
遠縁の記録係を、外の者はまだ姉の名で呼んでいる。
午後、アルノーとヴァレ侯爵夫人が到着した。
白い薔薇はすでに桃色へ替えられている。余分に届いた白は別室へ運ばれた。目に見える間違いは消したはずだった。
侯爵夫人は席に着く前、セレネへ尋ねた。
「昨夜お伝えした、婚礼後の冬の滞在先について、お考えはまとまりましたか」
セレネは微笑みを作る。
「はい。南の果樹園で過ごす件ですね」
夫人の眉が動く。
「いいえ。果樹園の屋敷は使わないと決めた後のお話です」
セレネの背中に、遅れて冷たさが広がった。
「申し訳ありません。もう一度、お聞かせいただけますか」
夫人は説明した。王都の別邸か、侯爵領の冬館か。セレネは昨日、冬館は雪が深いから不安だと答えたという。
説明の途中で、セレネは同じことを尋ねていた。
「冬館ではなく、王都で過ごすお話でしたか」
室内が静かになる。
アルノーは母ではなく、セレネを見た。
「今、説明したところです」
責める声ではなかった。それが余計に痛い。
父が協議を引き取った。呪いを知られないよう、婚約披露の疲れだと説明する。母も言葉を添えた。セレネは笑って頷く役に戻った。
姉がいれば、昼までに青い札を渡してくれただろう。
侯爵夫人が帰った後、父は書斎へ家族を集めた。
机には白い紙が一枚置かれている。
「ミレイユへ出す。今夜中に戻るよう書け」
セレネは椅子へ座った。
「私が書くのですか」
「姉妹の方が角が立たない。家の務めを放置すれば、お前の婚約にも影響すると伝えなさい」
母が父の隣で手を組む。
「セレネ。お姉様も、あなたが困っていると知れば」
「帰ってくると思うのですか、お母様」
母は答えなかった。
セレネは筆を取った。
お姉様へ。
花屋との行き違いがありました。仕立屋にも誤った返事をしていました。アルノー様のお母様へ同じ質問を二度してしまいました。どうか、昨日の私が何を考えていたか教えてください。
そこまで書いて、紙を裏返した。
また姉へ自分を返してもらおうとしている。
昨日の自分が何を考えたか。なぜ白い花を選び、なぜ袖を間違え、冬館を怖がったのか。姉が答えれば、セレネは正しく謝れる。相手の痛みに合った言葉を選べる。
何も変わっていない。
紙を二つに破った。もう一度重ね、細く裂く。父の顔が険しくなる前に、新しい紙を取った。
「戻ってとは書けない。戻したいのは姉ではなく、昨日の私だから」
「何を言っている」
父の問いには答えず、書き始める。
お姉様へ。
私は、お姉様を家族から外す話を受け入れました。婚約がまとまれば後で戻せると、自分に都合よく考えました。昨日を教えてほしいとは書きません。返事も求めません。
そこから先が続かない。
許してほしいと書くには、早すぎた。会いたいと書けば、それも姉に何かを求める言葉になる。
セレネは日付と自分の名だけを記した。
青い札なら、姉が明朝の自分へ足りない言葉を添えてくれた。今日は白い紙のまま封じる。
明日、この謝罪の痛みを忘れたとしても、自分の署名から逃げないために。
姉がいなければ、私は昨日の自分さえ善人にできた。




