第三話 家族でない者の朝
父は空の札入れを、朝食が終わるまでに七度叩いた。
一定の間隔ではない。執事が予定を読み上げた時。母が昨日の来客へ礼を出す話をした時。セレネが婚約の再協議について口を開いた時。
答えが足りないたび、父の指が銀の縁へ落ちる。
ミレイユは長卓の端で、公的な予定表へ日付を入れていた。昨夜、ベルナール院長から渡された三つの書類は自室の机に置いてある。どれもまだ選んでいない。
「南の果樹園の件は、三日後にアルノー卿と話し合う」
父が執事へ告げた。
「先方へは、昨日の行き違いをこちらの伝達不足として詫びておけ」
執事の筆が止まる。
「どの点を行き違いとして記せばよろしいでしょうか」
「屋敷の扱いだ」
「収益の扱いではなく、でございますか」
父の指が札入れを打った。
「ミレイユ」
呼ばれても、顔を上げなかった。公的な予定表の余白を測り、次の行をそろえる。
「昨日の合意は成立しておりません。先方へは、その事実のみお伝えください」
「なぜ成立しなかったかを説明しなければ、こちらの非だけが残る」
「誰の非であるかは、アルノー様と直接お確かめください」
父の椅子が床を擦った。
「昨夜のような態度をいつまで続けるつもりだ」
ミレイユは筆を置いた。
父の横には、家系図から外された銀の名紐がある。昨夜、父が回収して書斎へ持ち帰ったものだ。娘の名を消した証を朝食の席まで運びながら、それが何を意味するかは話さない。
「態度とは、どのことでしょう」
「家族の必要な記憶を渡さないことだ」
「昨日、私は遠縁の記録係になりました」
「外向けの処置にすぎない」
父は何を当然と考えているのか、自分の声で確かめるように言った。
「名簿が変わっても、お前が家族の務めを負うことは変わらない」
母が父の袖へ触れた。
「あなた、言い方を」
「間違ってはいない。セレネの婚約を守るには必要な措置だった。ミレイユも分かっている」
母の手が離れる。
訂正しなかった。それでも母は、自分が止めようとした事実だけは残した顔をする。
父にとって家族は、本人の意思に先立つ権利らしい。名簿から外せる。客前では他人と呼べる。けれど家族という言葉をもう一度かぶせれば、二十年と同じ働きを求められる。
その中に、ミレイユが選ぶ場所はなかった。
「ローデン子爵様」
父の手が札入れから離れた。
二十六年間、一度も本人へ使わなかった呼び名だった。
「何だ、その呼び方は」
「外向けの身分に従いました」
「ここは家の中だ」
「私が家族であるかどうかを、場所によって変えないでください」
声は低いまま。卓上の水差しにも、窓の硝子にも揺れはない。
セレネが椅子から立った。
「お姉様、私のせいなの」
「あなたの婚約が理由の一つです」
「だったら、婚約が決まるまででいいの。アルノー様のお家へ移れば、お姉様はまた」
言葉が途切れた。
また何になれるというのだろう。姉か、長女か。人前に出せない家族か。必要な朝だけ札を書かせる親族か。
セレネは答えを持たない。
「今日、アルノー様へ確認してください。何を話し、何を約束したかを」
「覚えていないから聞いているのよ」
「私も、そのために尋ねられ続けました」
セレネの指が木箱をつかむ。蓋は開かなかった。
母が立ち上がり、ミレイユのそばへ来た。昨日と同じ薔薇の香りがする。母は眠れない夜にこの香油を使う。今朝になれば、なぜ眠れなかったかは薄れている。
「ミレイユ、昨日のことは私も反省していると思うの」
「思うのですか」
「胸に重いものが残っているから。あなたを傷つけたのなら、謝りたいわ」
母は謝罪の形まで娘へ尋ねる。
どの言葉が傷つけ、どの沈黙が見捨てたことになったのか。説明すれば、母は正しく謝るだろう。明朝には、その謝罪が母の優しさとして青い札に残る。
今まで、そうしてきた。
母が父と口論して「もう話したくない」と言った夜、ミレイユは翌朝、その言葉の奥にあった疲れを説明した。父が使用人を解雇すると怒鳴った夜には、当人へ謝る約束を朝札へ。セレネが友人の秘密を口にした日には、罪悪感を言葉にして返した。
家族は、毎朝少しずつ善人になった。
彼らが昨夜の自分を知らないままでも、ミレイユが整えた続きから一日を始められたからだ。
「昨日の私が、何と言っていたかだけ教えて」
母の頼みは柔らかい。
「愛しているなら、今日のあなたが伝えてください」
「愛しているわ」
返事は早かった。
ミレイユは母を見る。
「では、今日のあなたは何をなさいますか」
母の目が父へ向いた。父は立ったまま、答えを待っている。
母は家系図へ名を戻すとは言わなかった。夫の決定を覆すとも、婚約先へ真実を話すとも。
「まず、落ち着いて話し合いましょう」
それが今日の母の行動だった。
ミレイユは頷いた。
「承知しました。私も、決めたことをお伝えします」
長卓の脇に置いていた箱を持ち上げる。家族三人分の青い朝札が、日付ごとに分けて入っていた。昨夜までに書いたものだ。
父の前へ一束。母の前へ一束。セレネの木箱の横へ一束。
紙が卓へ触れる音は軽い。二十年分の朝は、三つの束に収まるほど少なくない。それでも、今日から必要なのはこれだけだった。
「今後、私的な朝札は作りません。既に書いた札はお返しします。公的な義務については、日付と事実の写しを三十日分残しました」
父が最上段の札を取った。
「これを読めというのか」
「ご自身の昨日です」
「お前が読めば済む」
「家族でない者の務めは、昨日までで終わりました」
父の指が紙の角を押し曲げた。
「報酬が必要なら決める。記録係として正式に雇ってもよい」
遠縁になった次の朝には、娘の務めが雇用へ変わる。
父は解決策を出したつもりでいる。地位か金額を整えれば、同じ席へ戻せると信じている。
「お受けしません」
「では何が望みだ」
その問いを待っていたはずなのに、すぐには言葉が出なかった。
何を与えるかは毎朝決めてきた。何を望むかを問われた記憶は少ない。昨日、ベルナール院長が三枚の書類を並べた時にも、手を伸ばせなかった。
けれど、望まないものなら分かる。
「この家で、家族と記録係を都合よく行き来することは望みません」
父は言葉を返さない。
ミレイユは席を離れた。
自室の荷造りは短く済んだ。
衣装棚から普段着を三着。記憶術の教本。母から成人祝いに贈られた小さな裁縫箱。家の宝飾品と紋章入りの品には触れない。
机にはベルナール院長の書類がある。
就職。匿名の保護証言。半年の休養。
ミレイユは三枚目を手に取り、置いた。次に一枚目を読む。王立証言院の候補者には、住居と報酬が与えられる。記憶を扱う依頼ごとに、本人の同意が要る。
今すぐ働きたいのかは分からない。
ただ、自分が覚える範囲を自分で選ぶ場所へ行きたかった。
一枚目と三枚目を鞄へ入れた。働くか休むかを、家の外で決めるために。
机の隅には銀の名紐があった。
朝食の後、執事が父の命で届けたらしい。家の印章を刻んだ銀板から、ミレイユの名だけを削る手続きが必要だという。
削られる前の名は、まだ読めた。
ミレイユは紐を巻き、鞄の内側へ収める。家の銀を持ち出すためではない。名を削る手続きには本人の立ち会いが必要だ。その日までは、自分の名を自分で持つ。
玄関広間には家族がそろっていた。
父の後ろに母。階段の下にセレネ。ベルナール院長は玄関扉のそばで、屋敷の者から何も受け取らず立っている。
外には証言院の馬車があった。
「ミレイユ嬢」
ベルナール院長が一礼した。
「証言院の馬車は、書類を届けるために来ています。ご利用になりますか」
父が先に口を開く。
「院長、これは家族の話だ。娘を連れ出す権限はない」
「ありません」
即答だった。
「ミレイユ嬢が利用を望まれなければ、馬車は書類だけを運びます」
助けるとは言わない。父を退けもしない。
ミレイユは窓の外を見た。証言院の紋章を付けた馬車は目立つ。乗れば、父は連れ去られたと言い続けられるだろう。
「ありがとうございます、ベルナール院長。別の馬車を頼みます」
「承知しました」
それだけだった。
玄関番に町の貸馬車を呼ぶよう頼む。父は信じられないものを見る顔をした。
「どこへ行く」
「王都で宿を取ります」
「家があるだろう」
「私の名は、今朝そこから外されました」
母が一歩出る。
「戻りたくなったら、いつでも」
「戻る場所を残すおつもりなら、私の名を消す前にお考えください」
母の足が止まった。
セレネは何も言わない。両手で木箱を抱えている。朝には開けられなかった箱だ。
貸馬車が到着するまで、誰も昨日の続きを尋ねなかった。
御者はミレイユの鞄を受け取り、行き先を確認した。王都の宿街。証言院ではない。父の家でもない。
自分で選んだ最初の場所は、まだ名前のない一室だった。
馬車へ乗る前、ミレイユは振り返った。
父の指が、空になった銀の札入れをまた叩いている。母はその手を止めない。セレネは木箱の蓋へ自分の名を書き始めていた。
ベルナール院長だけが、選択を変えさせる言葉を持ち出さない。
扉を閉める。
屋敷の輪郭が窓の外へ下がっていく。ミレイユは鞄の中の銀の名紐へ触れ、その横にある二枚の書類を確かめた。
明日の朝、父が昨夜の苛立ちを忘れても、もう札は届かない。母が愛情を思い出せなくても、ミレイユの責任にはならない。セレネが謝るべき言葉を失っても、姉の口を借りることはできない。
馬車は王都へ向かう道を曲がった。
今日から覚えるのは、私が選んだ言葉だけだ。




