第二話 私の昨日は誰が覚える
翌朝の書斎には、青い朝札が並んでいなかった。
父の席には銀の札入れがある。母の前には青磁の重し。セレネの場所には、角を丸く削った木箱。どれも長く使われ、置かれるべき札の幅だけ色が褪せていた。
ミレイユは窓際の小机に座り、昨夜の婚約披露で生じた公的な事実だけを書き写した。
アルノー・ヴァレとセレネ・ローデンの婚約が披露されたこと。南の果樹園について合意が成立しなかったこと。次回の協議は三日後であること。
そこに、父が何を守ろうとして言い違えたかは書かない。セレネが金糸を見つめながら何を恐れたかも、母が夫を止められなかった理由も。
紙の上には、乾いた昨日だけが残った。
父が銀の札入れを指先で二度叩く。
「ミレイユ、朝札はどうした」
「公的な記録はこちらです、お父様」
ミレイユは三枚の白い紙を差し出した。青い紙は使っていない。
父は最初の一枚を読み、次をめくった。
「アルノー卿が果樹園の屋敷を受け取らなかった理由がない」
「合意しなかった、と記録しました」
「理由を聞いている」
「公的な事実には含まれません」
父の指が札入れへ戻る。そこを叩けば、これまでは必要な答えが出てきた。今日、銀の器が返すのは硬い音だけだった。
セレネは自分の木箱を開けては閉じている。
「お姉様、私、アルノー様に何を約束したの。昨日、最後に話した時」
「婚約に関する正式な約束なら、次の協議で確認できます」
「正式ではないことよ。私、何か失礼を言った気がするの。アルノー様が帰る前、少し遠い顔をしていたから」
覚えているのは感触だけらしい。残響の抜けた記憶は、輪郭のない染みになる。セレネは昨夜、アルノーに「呪いのない家なら、毎朝を疑わずに済む」と話した。その直後、姉を遠縁と偽った自分も同じだと気づき、言葉を止めた。
ミレイユはその文脈を返さなかった。
「次にお会いした時、ご本人へお尋ねなさい」
セレネの木箱が閉じる。細い蝶番が鳴った。
母はそれまで黙っていた。昨夜の扇を膝の上に置き、一本だけ歪んだ骨を撫でている。
「ミレイユ」
「はい、お母様」
「昨夜、部屋へ戻ってから、私はあなたと話したでしょう」
母の声には、何かを失くした者の慎重さがあった。
ミレイユは覚えている。
母は扉を閉めた後、父の決定に逆らえなかったと泣いた。セレネを呪いの外へ出したい。ミレイユなら身分が変わっても屋敷に残れる。家族であることは名簿だけでは決まらない。そう言って、最後に娘の手を包んだ。
朝になれば、その涙を母自身が持てないことも知っていた。
「昨日の私が愛していたと、今日の私にも教えてちょうだい」
母は頼む時、主語を昨日の自分へ預ける。
今日の母がミレイユを家系図へ戻すとは言わない。父へ異を唱えるとも、遠縁という紹介を訂正するとも。
愛していた事実だけ、娘から受け取ろうとしている。
ミレイユは母の扇を見た。歪んだ骨は残っている。なぜ歪んだかを忘れても、手の力まで消えたわけではない。
「お母様の昨日は、お母様のものです」
「だから、教えてほしいの」
「今日は、どうなさいますか」
母の指が止まった。
返事はなかった。
ミレイユは白い紙をそろえ、立ち上がる。小机の引き出しには、使わなかった青い札が束で残っていた。
家族の誕生日には、特別な札を一枚足した。
父が五十歳になった朝には、亡き祖父から初めて仕事を任された日の誇りを。母の四十歳には、幼い娘たちが寝台へ花を置いた時の喜びを。セレネの成人には、初めて一人で仕立屋を選んだ日の自信を。
ミレイユ自身の誕生日を記した札はない。
家族は日付を知っていた。食卓に菓子も並んだ。けれど前夜にミレイユが何を楽しみにし、贈られた物へどう礼を言い、来年には何をしたいと語ったかを、翌朝に尋ねた者はいなかった。
ミレイユも、自分のための札を書かなかった。
午後、王立証言院の調査は屋敷の南側にある硝子廊で行われた。
夜の雨が止み、庭木の葉には水が残っている。窓の向こうで、果樹園から運ばれた梨の籠を庭師が抱えて通った。薄緑の実の表面を水滴が滑る。
ミレイユの目は、籠が柱の陰へ消えるまで追っていた。
「始めてもよろしいですか、ミレイユ嬢」
ベルナール院長は向かいの席に書類を三組置いた。昨夜と同じく、彼女の手元には触れない距離を保っている。
「はい」
「昨日の婚約披露について、事実と感情の残響を分けて証言できますか」
「できます」
父の宣言、客の戸惑い、母の恐れ、セレネの罪悪感。問われれば順に答えられる。ただし、家族が忘れた私的な言葉を第三者へ渡すつもりはなかった。
「証言する範囲は、私が決めてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。答えた後でも撤回できます」
「撤回すれば、証言としては無効になります」
「証言院にとっては。あなたにとって必要なら、それで構いません」
ベルナール院長は質問を三つだけ行った。どれも事実の範囲を先に示し、答えを急かさない。
四つ目の前に、彼は窓の外へ目を向けた。
「梨がお好きですか」
ミレイユの返事が止まった。
雨の後の梨は香りが濃い。幼い頃、庭師が洗わずに渡してくれた実を袖で磨き、木の下で食べたことがある。歯を立てると固く、甘さの後に少し酸味が残った。
好きなのだろうか。
家族の好物なら答えられる。父は焼いた肉に苦い香草を添える。母は蜂蜜を入れない果実茶。セレネは熟しきった梨を薄く切った菓子。
自分について、同じ速さで出せる答えがない。
「分かりません」
ベルナール院長は梨を見直さなかった。書類へも何も記さない。
「答えなくても、あなたの証言の価値は減りません」
その言葉の後に、慰めは続かなかった。
彼は三組の書類を同じ間隔で並べる。
一つ目は、王立証言院で働くための候補者証。報酬と住居が付き、扱う記憶は依頼ごとに選べる。
二つ目は、匿名の保護証言。ローデン家の呪いについて必要な範囲だけ国へ預け、本人の名と所在を伏せる制度だった。
三つ目には、半年の休養許可とだけ書かれている。証言も勤務も求めない。
「どれかを今、選ぶ必要はありません」
「三つ目を選んだ場合、証言院には何も差し出さないことになります」
「休む人が、休む対価を差し出す必要はありません」
ミレイユは三枚を見比べた。
これまで差し出す量の違いを、選択肢と呼ばれてきた。多く渡すか、少しだけ残すか。何も渡さない道が同じ机に並んだことはない。
ベルナール院長は、彼女が決めるまで待つと言った。その言葉も書類も、明日の朝に消えない。
ミレイユはまだ一枚も取らなかった。
けれど、窓の外へ運ばれた梨の色だけは、先ほどより鮮明に覚えていた。
私自身の昨日を尋ねられたのは、これが初めてだった。




