第9話 台帳を盗め
ロウは檻の外の音を数えていた。
グレムの足音。見張りの足音。買い手と話すモルデンの低い声。その三つがいつもの位置にそろった夜だった。
そろっている。まだ誰も檻の中に気づいていない。
ロウはジグを見た。
ジグはうなずいて、灯りに布を巻いた。
油を染ませた布だった。火はすぐには燃え立たなかった。布の端から、まず煙が出た。低く、白い煙だった。
「燃やすんじゃない」とジグが言った。「曇らせるだけだ」
煙は炎より先に広がった。床を這い、格子をくぐり、見張りの足もとへ流れていった。
煙の中で、灯りがにじんだ。ものの輪郭がぼやけた。見張りたちは、まず自分の足もとを見た。
その一拍がロウの数えていた一拍だった。
ミラはもう檻の戸口にいた。
手に鍵束があった。鈴は指で押さえたままだった。鳴らさずに、ミラは鍵を錠へ差した。
錠は古かった。鍵は何本もあった。ミラは一本ずつ試した。試すあいだも、鈴は鳴らさなかった。
三本目で、錠がまわった。
戸がわずかに動いた。
グレムが煙に気づいた。戸口のほうへ走った。
ガロがその前に立った。
ガロは鉄の戸枠に両手をかけた。体ごと押した。戸枠は重く、冷たかった。ガロの手は、その冷たさの上で動かなかった。滑らなかった。
グレムがガロの肩を突いた。ガロは退かなかった。手も外れなかった。
グレムがもう一度、肩で当たってきた。ガロの足が、床を後ろへ少し削った。それでも、戸枠は閉じなかった。
ガロは足もとの鎖を蹴った。鎖は床を鳴らして、檻の反対側へ滑っていった。
鳴った鎖のほうへ、見張りが二人走った。
戸が開いた。
子供たちが煙の中を出ていった。低い姿勢で、足音を殺して。小さな体が、白い煙にいくつものまれて、戸口の外へ消えていった。
誰も叫ばなかった。叫べば、見張りが戻ってくる。子供たちは、それを檻の中で覚えていた。
全員ではなかった。
何人かは戸口の前で止まった。出ていく背中を見て、それから、動かなくなった。一人は格子をつかんだまま、その場に座りこんでいた。
煙の向こうへ行くより、知っている隅にいるほうを選んだ子供たちだった。
ロウはその子供たちを呼ばなかった。
ロウの足が、一度だけそちらを向きかけた。
戸は開けた。そこから先は、足の仕事だった。
煙の奥で、咳が一つした。
乾いた、低い咳だった。ロウは顔を見なかった。見なくても分かった。あの咳の子も、動いていた。煙の中を、戸口のほうへ。
ロウはそれだけ確かめて、目を戻した。
煙の中から、声がした。
「銀貨五枚の鼠は、どこだ」
買い手の声だった。下水と泥の匂いが煙に混じって、近づいてきた。
その手が煙をつかんだ。さっきまでロウがいた場所の、煙だけを。
ロウはもうそこにいなかった。
ヴェラがロウの横に来ていた。
鼻先が動いていた。ヴェラは煙のずっと奥を嗅いでいた。
「奥だ」とヴェラは言った。「血と、鉄の匂い。動いてない」
動いていない。あの音のしない男が、事務室へ続く道のどこかで、じっとしている。
キールがロウの腕をつかんだ。
「持っていくなら」とキールは早口で言った。「厚いほうの台帳だ。背に、商会の印がある。丸の中に、鳥」
丸の中に、鳥。
ロウは字を読めない。だが、印の形なら覚えられた。
キールは手を離して、煙の中へ、子供たちのほうへ走っていった。
ロウは戸口を見た。
出れば、それで逃げられた。煙はまだ濃い。買い手の手は、煙をつかんだだけだ。今なら、出られた。
ふところの紙が、胸に当たっていた。
ロウは戸口に背を向けた。
床下の穴へ、ロウは下りた。
◇
床下は水だった。
ロウが穴を下りると、足はすぐに水に着いた。冷たさが踝から、膝から、腹へと昇ってきた。
夜のあいだに、水はそこまで来ていた。
歩くたびに、水が音を立てた。その音がロウの足音を消した。それだけは味方だった。
ロウは床下の道を覚えていた。何度も通った道だった。足音で時を計り、水音で道を読んだ。その道で、ロウは生きてきた。
だが今夜、その道は半分が水の下にあった。
覚えた高さに、もう床はなかった。覚えた曲がり角は、水になっていた。
ロウは覚えた道ではなく、水の浅いほうをたどった。鼠の地図は、夜のあいだに書き換わっていた。
事務室の下へ。だがその前に、寄る場所があった。
古い貯水枡だった。
ロウは縁から中をのぞいた。
ニナがいた。水はニナの胸まで来ていた。顔だけが、水の上に出ていた。
ニナは泣いていなかった。歯を食いしばって、震えていた。声は出していなかった。ずっと、出していなかったのだ。
ロウはニナの腕をつかんだ。引き上げた。ニナの体は軽く、冷えきっていた。水が、ニナの服から滴り落ちた。
ロウはニナを壁ぎわの細い隙間へ向けた。
「向こうに、誰かいる」とロウは言った。「行け」
隙間の奥は暗かった。だが、ロウは知っていた。さっき子供たちがそちらへ抜けていった。
隙間の向こうから、手が伸びた。誰の手かは見えなかった。その手がニナの腕をつかんで、引いた。
ニナの足が水を蹴った。隙間の向こうへ、消えた。
ロウはその隙間へは行かなかった。
ロウは水の中を、一人で進んだ。事務室の下へ。
ロウは事務室の床板を一枚ずらした。
すぐ上に棚があった。台帳が何冊も並んでいた。棚は水より高く、台帳は濡れていなかった。暗くても、ロウの目はその並びを見分けられた。
ロウは字を読めなかった。だが、背の印なら見えた。
丸の中に、鳥。
厚い台帳だった。ロウはそれを棚から抜いた。重かった。
革の表紙は古く、手になじんでなめらかだった。台帳のあいだから、乾いた藁のような匂いがした。
水に濡らさないよう、胸の高さに持ち上げた。
それから、ロウはふところに手を入れた。
一枚の紙を出した。
処分控えの頁だった。キールが読んだ、あの頁。床下の水気で、端がもう湿っていた。
ロウは字を読めない。だが、その頁の印は読めた。
赤い処分印。それはニナだった。
その下に、黒い抹消印が、ひとつ。
セオだった。
ロウは前に、これを番号だと思っていた。台帳の中の、消された一行。台帳の中の、数字。
そうではなかった。
水を分ける前に、器の縁を親指で拭った男。殴られて、檻の前に三日置かれた男。ロウが声を上げずに見ていた男。
それがこの黒い印の下にいた。
ロウは指に少し力を入れた。湿った頁が、低い音を立てた。
薄い紙一枚では、水に負ける。
ロウはその頁を厚い台帳のあいだに挟んだ。台帳がいちばん水から遠かった。
ロウは戻る道へ向かった。
来た穴は狭かった。台帳を抱えたままでは、通れなかった。
だが、もう一つ、穴があった。少し広い穴。ロウが夜明け前に使うつもりでいた穴だった。
その穴は塞がれていた。
新しい板が、何枚も打ちつけてあった。釘の頭がまだ光っていた。打たれたばかりだった。
ロウは板に手をかけた。動かなかった。指をかける隙もなかった。
板のそばに、ロウは見た。
乾いた血の跡。釘に引っかかった布の切れはし。
ロウ自身が床下に残したものだった。袖を裂いた夜の、血と布。
あの男はこの血を読んだ。この布を読んだ。
ロウが残した痕が、ロウの道を塞いでいた。
ロウは振り返った。来た道は、水が満ちつつあった。
戻れば、水。進めば、板。
残った道はひとつだった。
広い穴の脇に、鼠しか通れない隙間があった。
ザハルはその隙間のそばにいた。
足音はしなかった。立っている音もしなかった。だが、そこにいた。
水の中なのに、ザハルの足もとだけ水が静かだった。波も、揺れも、立っていなかった。
ザハルはその隙間を塞いではいなかった。塞ぐ板も、釘も、そこにはなかった。
隙間が狭すぎた。ザハルの体は、そこを通らない。だから、塞ぐ必要もなかった。
ザハルはただ、待っていればよかった。
台帳を抱えた鼠は、広いほうの穴からしか出られない。ザハルはそう読んだのだろう。
だが、ロウの体なら、狭いほうも通った。
ロウは走った。
水を蹴って、台帳を胸に抱えて、隙間へ頭から入った。
ニナがそうしたように。鼠がそうするように。
台帳が隙間の岩肌につかえた。ロウはそれを先に押し込み、体で追った。
隙間はロウの肩をこすった。服が裂け、皮膚がこすれた。それでも、体は前へ進んだ。
ザハルが、初めて音を立てた。
布のすれる速い音だった。
手が伸びた。ロウの背に届いた。届いて、つかんだ。
つかんだのは、ロウの服の、裂けた布の一片だった。
それだけだった。
ロウの体は、隙間の先へ落ちた。
さらに下へ落ちる道。深すぎる、と一度は捨てた道。
今は、そこしかなかった。
落ちながら、ロウは上を見た。
ザハルの手に、ロウの布があった。ザハルはその布を見ていなかった。
ザハルはロウの手を見ていた。台帳を抱えた手ではなく、穴の縁を最後に掴んだ、濡れた手のほうを。
「鼠は」とザハルは言った。「戻る道を覚える」
ロウは暗い水の中へ、落ちていった。




