第10話 散れ
水がロウを受け止めた。
落ちた高さのぶん、水は固かった。背中から叩きつけられて、息が一度止まった。
それから、ロウは沈んだ。
どちらが上か、すぐには分からなかった。暗くて、冷たくて、重かった。
暗い水の中でも、ロウは台帳を離さなかった。腕の中で、厚い台帳がいやに重かった。手を開けば、すぐに沈む重さだった。それでも、開かなかった。
足が底に着いた。ロウは底を蹴って、顔を上げた。
息を吸った。冷たい水と濃い匂いが、いっしょに入ってきた。むせそうになって、ロウは口を閉じた。
下水の本流だった。
檻の床下より、天井が高かった。水音が大きかった。ここはもう、檻の下ではなかった。
水の流れる音にまじって、別の音がした。
足音。いくつもの、低い足音。水を蹴る音。
ロウはその音のほうへ進んだ。
暗がりの先に、影があった。大きい影と、小さい影。先に檻を出た者たちだった。
水を割って動く大きな背中があった。ガロだった。その横で、鍵束を握った手が白くなっていた。鈴は、まだ鳴っていなかった。
少し離れて、暗がりを嗅ぐ鼻先。天井を見上げる目。濡れて重い服の子の腕を引いていく手。
名のない子供たちもいた。だが、檻にいたぶんの半分もいなかった。
ロウは頭の中で数えた。
混乱の中で別の隙間へ逃げた者。檻の戸の前で動かなかった者。煙の中で見失った者。
檻を出ることと、ここにいることは同じではなかった。
誰も口をきかなかった。みな水に浸かって、震えていた。檻の中でそうしてきたように、声を殺していた。
水は、ここでも上がっていた。
ロウの膝から、腿へ。本流のほうが、檻の下より速く満ちた。
本流の先で、水路は三つに分かれていた。三つとも暗く、三つとも水が流れこんでいた。
背後の高いところで、足音がした。グレムの足音。重い。下りる場所を探していた。
そのグレムの足音とは、別に。
ヴェラが鼻先を動かした。
「来てる」とヴェラは言った。「鉄と、油の匂い。足音は、しない」
足音のしない追手。ロウはそれが誰か知っていた。
三つの水路。だが、一つに固まれば、匂いも足音も太くなる。
ロウは全員を連れてはいけなかった。連れていけば、全員が捕まる。
ロウは子供たちを、水路の分かれめへ歩かせた。
水が小さい体を引いた。子供たちは手をつなぎ、壁に手をつき、一歩ずつ進んだ。流れは立っているだけでも、体を持っていこうとした。
そのとき、水の中で誰かが転んだ。
水が大きく跳ねた。
暗がりの中で、咳がした。
乾いた、低い咳。ロウが檻でずっと聞いてきた咳だった。
咳の子だった。
ほかの子から三歩か四歩、後ろにいた。たった三歩だった。
立ち上がろうとして、立ち上がれずにいた。水が重い。足もとが見えない。子供の小さな体は、流れに半分もっていかれていた。
小さな手が水の上に出た。何かをつかもうとして、何もつかめなかった。
その手を、流れがさらった。子供の体は、暗いほうへ運ばれていった。
ロウはその子のほうを見た。
ガロが動いた。
ガロの手が咳の子のほうへ伸びた。さっき鉄の戸枠を押さえていた手が、今度は子供のほうへ。
ガロは戻ろうとしていた。
弱い子のほうへ。流れに半分とられた子のほうへ。
ロウの手が出た。
ガロの腕をつかんだ。
ロウは自分の手を見なかった。見なくても分かった。
その手は、セオを連れていった男の手と同じことをしていた。
「——戻る」とガロが言った。「あいつ、まだ——」
ロウは答えなかった。腕を放さなかった。
ガロの腕はロウの腕より太い。ロウの手で、ガロを止められるわけがなかった。
それでも、ガロは進まなかった。
ロウに腕をつかまれたまま、ガロは動かずにいた。
水が流れた。時がその水といっしょに流れた。
ガロの体は震えていた。寒さでではなかった。
ロウは腕を放さなかった。放せば、ガロは行く。行けば、みな捕まる。
咳の子を一人拾うために、全員が檻に戻る。ロウはそう計算した。
セオのとき、ロウは見ていた。声を上げず、ただ見ていた。
今夜は、違った。
ロウは見ているだけではなかった。見たうえで、その子を置いていく側に立っていた。
水の向こうで、咳がもう一度した。
遠かった。さっきよりずっと遠かった。一度きりだった。
ロウはその咳の間隔を覚えていた。檻の奥で、ずっと聞いてきた間隔だった。
次の咳は来なかった。
ロウは次の咳を待った。来ない咳を待った。
それきり、聞こえなくなった。
ガロの腕から力が抜けた。
ロウはガロの腕だけを放した。
ガロの顔は見なかった。
ガロも、何も言わなかった。
「散れ」とロウは言った。
声は低かった。だが、全員に届いた。
「同じ道を行くな」
「生きてたら、また嗅ぎつけろ」
ロウは腕の中の台帳を見た。
厚い台帳。水を吸って、さらに重くなっていた。これを抱えたままでは、狭い水路は通れない。
ロウは台帳をひらいた。
あいだから、一枚の紙を抜いた。
処分控えの頁。赤い処分印と、黒い抹消印。ニナと、セオ。
ロウはその頁を、ふところの胸の高さに押しこんだ。水のいちばん来ないところだった。
腕の中の台帳は重かった。これを盗むために、ロウは戸口に背を向けた。これのために、ザハルが床下まで下りてきた。
胸の頁は薄い紙一枚だった。
ロウは重いほうをキールに押しつけた。
キールは字を読める。ロウは読めない。胸のほうは誰にも渡さなかった。
キールは濡れた台帳を両腕で受けた。台帳の重みで、キールの腕が一度沈んだ。受けるとき、キールの目がロウを見た。何か言いかけて、言わなかった。
台帳で両手のふさがったキールの服を、ニナが自分でつかんだ。
ミラが鍵束を持ち上げた。
ミラはずっと、その鈴を指で押さえてきた。震える指で、鳴らさずにきた。
鳴らせば、見つかる。ミラの指はそれを知っていた。
今、ミラは指を離した。
鈴が鳴った。
檻のどこででも殺してきた音が、初めて水路に響いた。
高いところのグレムの足音が、その音のほうへ流れた。
ミラは鈴の音だけを暗がりに残して、左の水路へ消えた。
ヴェラが追手の匂いの濃いほうへ鼻を向けた。それから、逆の水路へ走った。
ジグは天井の排水管に片腕で取りついた。体を引き上げて、上の暗がりへ消えた。
キールが台帳を抱えて、まんなかの広い水路へ入った。その服をつかんだまま、ニナが自分の足で続いた。濡れた台帳の角から、水がしたたっていた。
ガロはまだそこにいた。
ガロは水路の入り口の鉄格子に手をかけた。追手が下りてくる側の、鉄格子に。
咳の子に届かなかった手が、今度は鉄をつかんで白くなっていた。
ロウが右の水路へ向かったとき、暗がりに残ったのは、ガロの鉄格子をつかんだ手だけだった。
ロウは誰の行く先も見届けなかった。
◇
右の水路の奥に、ロウは隙間を見つけた。
鼠しか通れない隙間。さらに下へ落ちる道。前に床下で見つけて、深すぎる、と一度は捨てた道だった。
ザハルはロウが戻る道を読んでいた。鼠は戻る道を覚える、と。
だが、ロウは戻らなかった。
ロウは下へ行った。
背後の広い水路で、水の音が一度、静かになった。
波の立たない場所。足音のしない男がそこにいた。広い水路に。台帳を抱えた鼠を待つために。
だが、ロウの腕に台帳はもうなかった。ロウは広い水路へは行かなかった。
隙間は狭く、ロウの肩をこすった。服がまた裂けた。皮膚が岩でこすれた。台帳を抱えていたら、通れなかった。
あるのは、胸の頁だけだった。
隙間の先で、道は下へ折れていた。ロウは頭から入った。
岩と岩のあいだを体だけが落ちていった。手も足も、突っぱる場所がなかった。
暗かった。水の音だけが下のほうから上がってきた。
ここには、もう誰の足音もなかった。グレムの足音も、ミラの鈴も、ガロの水を割る音もなかった。ロウひとりだった。
ロウはセオを助けたわけではなかった。
助けられたはずの夜は、とうに過ぎていた。
セオはもう戻らない。
それでも、番号は残っていた。黒い印の下に、ひとつ。
ロウに読めるのは、その印だけだった。ロウにできたのも、それだけだった。
その番号を水に消させないこと。
ロウは隙間を抜けた。
その先に、また水があった。だが、その水は流れていた。よどんでいなかった。
流れる水には、行き先がある。
ロウは水音の行く先を聞いた。
水の音が、初めて檻の外へ続いていた。
水はロウの胸まで来ていた。ロウの体に、濡れていないところはもうなかった。
ロウは胸に手を当てた。
黒い印は、まだ濡れていなかった
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
これにて第1章は完結となります。
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