表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/23

第10話 散れ

水がロウを受け止めた。


落ちた高さのぶん、水は固かった。背中から叩きつけられて、息が一度止まった。


それから、ロウは沈んだ。


どちらが上か、すぐには分からなかった。暗くて、冷たくて、重かった。


暗い水の中でも、ロウは台帳を離さなかった。腕の中で、厚い台帳がいやに重かった。手を開けば、すぐに沈む重さだった。それでも、開かなかった。


足が底に着いた。ロウは底を蹴って、顔を上げた。


息を吸った。冷たい水と濃い匂いが、いっしょに入ってきた。むせそうになって、ロウは口を閉じた。


下水の本流だった。


檻の床下より、天井が高かった。水音が大きかった。ここはもう、檻の下ではなかった。


水の流れる音にまじって、別の音がした。


足音。いくつもの、低い足音。水を蹴る音。


ロウはその音のほうへ進んだ。


暗がりの先に、影があった。大きい影と、小さい影。先に檻を出た者たちだった。


水を割って動く大きな背中があった。ガロだった。その横で、鍵束を握った手が白くなっていた。鈴は、まだ鳴っていなかった。


少し離れて、暗がりを嗅ぐ鼻先。天井を見上げる目。濡れて重い服の子の腕を引いていく手。


名のない子供たちもいた。だが、檻にいたぶんの半分もいなかった。


ロウは頭の中で数えた。


混乱の中で別の隙間へ逃げた者。檻の戸の前で動かなかった者。煙の中で見失った者。


檻を出ることと、ここにいることは同じではなかった。


誰も口をきかなかった。みな水に浸かって、震えていた。檻の中でそうしてきたように、声を殺していた。


水は、ここでも上がっていた。


ロウの膝から、腿へ。本流のほうが、檻の下より速く満ちた。


本流の先で、水路は三つに分かれていた。三つとも暗く、三つとも水が流れこんでいた。


背後の高いところで、足音がした。グレムの足音。重い。下りる場所を探していた。


そのグレムの足音とは、別に。


ヴェラが鼻先を動かした。


「来てる」とヴェラは言った。「鉄と、油の匂い。足音は、しない」


足音のしない追手。ロウはそれが誰か知っていた。


三つの水路。だが、一つに固まれば、匂いも足音も太くなる。


ロウは全員を連れてはいけなかった。連れていけば、全員が捕まる。


ロウは子供たちを、水路の分かれめへ歩かせた。


水が小さい体を引いた。子供たちは手をつなぎ、壁に手をつき、一歩ずつ進んだ。流れは立っているだけでも、体を持っていこうとした。


そのとき、水の中で誰かが転んだ。


水が大きく跳ねた。


暗がりの中で、咳がした。


乾いた、低い咳。ロウが檻でずっと聞いてきた咳だった。


咳の子だった。


ほかの子から三歩か四歩、後ろにいた。たった三歩だった。


立ち上がろうとして、立ち上がれずにいた。水が重い。足もとが見えない。子供の小さな体は、流れに半分もっていかれていた。


小さな手が水の上に出た。何かをつかもうとして、何もつかめなかった。


その手を、流れがさらった。子供の体は、暗いほうへ運ばれていった。


ロウはその子のほうを見た。


ガロが動いた。


ガロの手が咳の子のほうへ伸びた。さっき鉄の戸枠を押さえていた手が、今度は子供のほうへ。


ガロは戻ろうとしていた。


弱い子のほうへ。流れに半分とられた子のほうへ。


ロウの手が出た。


ガロの腕をつかんだ。


ロウは自分の手を見なかった。見なくても分かった。


その手は、セオを連れていった男の手と同じことをしていた。


「——戻る」とガロが言った。「あいつ、まだ——」


ロウは答えなかった。腕を放さなかった。


ガロの腕はロウの腕より太い。ロウの手で、ガロを止められるわけがなかった。


それでも、ガロは進まなかった。


ロウに腕をつかまれたまま、ガロは動かずにいた。


水が流れた。時がその水といっしょに流れた。


ガロの体は震えていた。寒さでではなかった。


ロウは腕を放さなかった。放せば、ガロは行く。行けば、みな捕まる。


咳の子を一人拾うために、全員が檻に戻る。ロウはそう計算した。


セオのとき、ロウは見ていた。声を上げず、ただ見ていた。


今夜は、違った。


ロウは見ているだけではなかった。見たうえで、その子を置いていく側に立っていた。


水の向こうで、咳がもう一度した。


遠かった。さっきよりずっと遠かった。一度きりだった。


ロウはその咳の間隔を覚えていた。檻の奥で、ずっと聞いてきた間隔だった。


次の咳は来なかった。


ロウは次の咳を待った。来ない咳を待った。


それきり、聞こえなくなった。


ガロの腕から力が抜けた。



ロウはガロの腕だけを放した。



ガロの顔は見なかった。


ガロも、何も言わなかった。


「散れ」とロウは言った。


声は低かった。だが、全員に届いた。


「同じ道を行くな」


「生きてたら、また嗅ぎつけろ」


ロウは腕の中の台帳を見た。


厚い台帳。水を吸って、さらに重くなっていた。これを抱えたままでは、狭い水路は通れない。


ロウは台帳をひらいた。


あいだから、一枚の紙を抜いた。


処分控えの頁。赤い処分印と、黒い抹消印。ニナと、セオ。


ロウはその頁を、ふところの胸の高さに押しこんだ。水のいちばん来ないところだった。


腕の中の台帳は重かった。これを盗むために、ロウは戸口に背を向けた。これのために、ザハルが床下まで下りてきた。


胸の頁は薄い紙一枚だった。


ロウは重いほうをキールに押しつけた。


キールは字を読める。ロウは読めない。胸のほうは誰にも渡さなかった。


キールは濡れた台帳を両腕で受けた。台帳の重みで、キールの腕が一度沈んだ。受けるとき、キールの目がロウを見た。何か言いかけて、言わなかった。


台帳で両手のふさがったキールの服を、ニナが自分でつかんだ。


ミラが鍵束を持ち上げた。


ミラはずっと、その鈴を指で押さえてきた。震える指で、鳴らさずにきた。


鳴らせば、見つかる。ミラの指はそれを知っていた。


今、ミラは指を離した。


鈴が鳴った。


檻のどこででも殺してきた音が、初めて水路に響いた。


高いところのグレムの足音が、その音のほうへ流れた。


ミラは鈴の音だけを暗がりに残して、左の水路へ消えた。


ヴェラが追手の匂いの濃いほうへ鼻を向けた。それから、逆の水路へ走った。


ジグは天井の排水管に片腕で取りついた。体を引き上げて、上の暗がりへ消えた。


キールが台帳を抱えて、まんなかの広い水路へ入った。その服をつかんだまま、ニナが自分の足で続いた。濡れた台帳の角から、水がしたたっていた。


ガロはまだそこにいた。


ガロは水路の入り口の鉄格子に手をかけた。追手が下りてくる側の、鉄格子に。


咳の子に届かなかった手が、今度は鉄をつかんで白くなっていた。


ロウが右の水路へ向かったとき、暗がりに残ったのは、ガロの鉄格子をつかんだ手だけだった。


ロウは誰の行く先も見届けなかった。



右の水路の奥に、ロウは隙間を見つけた。


鼠しか通れない隙間。さらに下へ落ちる道。前に床下で見つけて、深すぎる、と一度は捨てた道だった。


ザハルはロウが戻る道を読んでいた。鼠は戻る道を覚える、と。


だが、ロウは戻らなかった。


ロウは下へ行った。


背後の広い水路で、水の音が一度、静かになった。


波の立たない場所。足音のしない男がそこにいた。広い水路に。台帳を抱えた鼠を待つために。


だが、ロウの腕に台帳はもうなかった。ロウは広い水路へは行かなかった。


隙間は狭く、ロウの肩をこすった。服がまた裂けた。皮膚が岩でこすれた。台帳を抱えていたら、通れなかった。


あるのは、胸の頁だけだった。


隙間の先で、道は下へ折れていた。ロウは頭から入った。


岩と岩のあいだを体だけが落ちていった。手も足も、突っぱる場所がなかった。


暗かった。水の音だけが下のほうから上がってきた。


ここには、もう誰の足音もなかった。グレムの足音も、ミラの鈴も、ガロの水を割る音もなかった。ロウひとりだった。


ロウはセオを助けたわけではなかった。


助けられたはずの夜は、とうに過ぎていた。


セオはもう戻らない。


それでも、番号は残っていた。黒い印の下に、ひとつ。


ロウに読めるのは、その印だけだった。ロウにできたのも、それだけだった。


その番号を水に消させないこと。


ロウは隙間を抜けた。


その先に、また水があった。だが、その水は流れていた。よどんでいなかった。


流れる水には、行き先がある。


ロウは水音の行く先を聞いた。


水の音が、初めて檻の外へ続いていた。


水はロウの胸まで来ていた。ロウの体に、濡れていないところはもうなかった。


ロウは胸に手を当てた。


黒い印は、まだ濡れていなかった

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

これにて第1章は完結となります。


少しでも楽しんでいただけましたら、

ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。


次章も引き続き投稿していきますので、

よろしければまたお付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ