第8話 鼠の穴
グレムが板に指をかけた時、ロウは寝床からそれを見ていた。
板はすぐにはめくれなかった。グレムが体重をかけると、板は鈍い音を立てて起きた。釘はもう、板を留めていなかった。夜のあいだに、二度ずらした釘だった。
板の下に、黒い隙間があった。下水の匂いが、その隙間から上がってきた。水の音も、かすかに混じっていた。
グレムは隙間に顔を寄せた。誰かが灯りを近づけた。穴の底で、黒い水が鈍く光った。
グレムは長くはのぞかなかった。立ち上がって、暗がりへ声を投げた。
「下に、穴がある」
檻がざわついた。眠っていた子供たちが起こされ、見張りの数が増えた。灯りが、いくつも持ちこまれた。
ロウは寝床から動かなかった。ほかの子供と同じ顔をした。怯えて、何も知らない子供の顔。
浮いた板はロウの寝床のすぐ横にあった。
床下から戻った時の濡れがまだ服に残っていた。だが、檻には濡れた子供が何人もいた。床はどこも湿っていた。
灯りがロウのそばを通った時、ロウはまばたきもせず、ただ膝を抱えていた。
見張りの一人が、檻の奥へ行った。子供を一人、連れ出すための足取りだった。夜明け前のその時刻に、処分はいつも来た。
だが、見張りはすぐに戻ってきた。手ぶらだった。
「兎系の子供が、いねえ」
ニナの寝床は空いていた。さっきまでは、ただ空いているだけだった。今は、それが声になった。
見張りが檻の隅を灯りで照らしていった。照らされるたびに、子供たちは身を縮めた。
板の浮きと、消えた子供。二つが同じ夜に並んだ。
グレムがその二つを見比べた。考えるまでもない、という顔だった。
「床下から出やがったか」
グレムは穴に灯りを向けた。底のほうで、水が動いていた。
誰もそこへは下りなかった。
モルデンが来た。寝間着のままだった。
モルデンは穴を見た。空いた寝床を見た。怒ってはいなかった。数えなおす、という顔だった。
モルデンは台帳を持ってこさせた。頁をめくる指が、一度だけ余った。眉が寄った。
ロウには、モルデンが何を見たか分かった。自分が一枚抜いた頁だった。
モルデンは台帳を閉じた。閉じる時、少しだけ間があった。
「売れるものは、朝までに全部出す」とモルデンは言った。「買い手を、今すぐ呼べ」
それから、もう一つ言った。
「用心棒を呼べ。ザハルを」
ロウはそれを寝床から聞いていた。
朝までに全部出す。それは、ロウも出される、ということだった。
床下の穴は、もう知られていた。ロウだけの道だった穴が、今は檻じゅうの目にさらされていた。あとは、塞がれるだけだった。
ザハルという名を、ロウは知らなかった。だが、用心棒を呼ぶ理由は分かった。穴を塞ぐためだった。
逃げるしかなかった。
穴はまだ狭い。外へ続く道は、半分しか分かっていない。準備は、何もできていなかった。
それでも、今夜しかなかった。
買い手はすぐに来た。
ロウは、見るより先に匂いで分かった。前に一度、嗅いだ匂いだった。下水と、廃棄物と、湿った泥の匂い。三日前の夜、ロウを指名した買い手だった。
買い手はロウのほうを見もしなかった。
モルデンは、檻の鼠をまとめてこの男に渡そうとしていた。
その男の手は太く、節くれだっていた。鼠の指を落とすのは、ああいう手だった。
ロウは自分の手を一度、握った。
モルデンと、低い声で話していた。
ロウに届いたのは、切れ切れの言葉だった。「銀貨五枚の鼠」。「夜明けに引き取る」。「下水仕事には、ちょうどいい」。
夜明けに引き取る。
下水で使い潰された鼠が長く生きた例を、ロウは知らなかった。
ロウは床下の穴を見た。グレムが起こした板の、すぐ下。
水の音がした。さっきよりも高い音だった。夜のあいだ、水は止まっていなかった。
夜明けには、床下は水の下になる。
ニナはまだその床下にいた。貯水枡の中で、水はニナの体を少しずつ上ってきているはずだった。
水はこれまで、ロウの道でもあった。床下を読み、水音をたどって、ロウは事務室の下まで行けた。その道が、夜明けに沈む。
穴を使えるのは、夜明けまでだった。水さえ、ロウの味方ではなかった。
ザハルがいつ来たのか分からなかった。
ロウは檻の外の音をずっと数えていた。昔からの癖だった。音で人の居場所を知り、音で危ない場所を知る。
グレムの足音は重い。三歩で一度、床が鳴る。見張りの足音は数えられる。モルデンの声は低い。買い手の靴は湿っている。
その音の地図が、ロウを生かしてきた。
だが今夜、その地図に穴があいた。
檻のそばに、人が一人立っていた。それは分かった。気配でも、影でもない。まわりの見張りが、その一点をよけて動いていた。
見張りが一人、そのそばを通った。通る時、見張りは少し身をよけた。そこに誰もいないかのように、誰かをよけていた。
だが、その人の足音を、ロウは聞いていなかった。立つ音も、歩く音もしなかった。床を鳴らさなかった。
一瞬、ロウは自分の耳を疑った。だが、耳ではなかった。その人が音を持っていないのだった。
ロウは何度も、その一点へ耳を戻した。戻すたびに、そこには何もなかった。
音を立てない人間は、立てないように生きてきた人間だった。
足音が、ひとつ足りなかった。
売られた子が出てから、巡回の足音は一つ増えていた。多すぎる足音に、ロウの時計は狂った。
だが、今夜のこれはその逆だった。
人がいた。足音だけが、なかった。
ロウの首のうしろが冷たくなった。
ロウはその人を見なかった。見れば、向こうもこちらを見る。
見なくても分かった。モルデンが呼んだ男だった。
ザハル。
モルデンたちは檻から離れていった。グレムが、板の浮いた場所へザハルを連れていった。
ザハルはそこにしゃがんで、動かなくなった。穴を読んでいるようだった。
檻の中がひとつ静かになった。見張りの目が、穴のほうへ集まっていた。
その隙だった。
ロウは動いた。
ロウはヴェラのところへ行った。
ヴェラの匂いが近づいた。狼の匂いだった。ロウの足が半歩引きかけた。
ロウはその足を前へ出した。
あの用心棒は足音をさせない。耳では追えない。追えるとすれば、匂いだけだった。狼系の鼻なら、音のしない男でも追える。
ロウはヴェラのほうを見なかった。
「音のしない男だ」とロウは言った。「匂いを拾え」
ヴェラは返事をしなかった。ただ、鼻先を少しだけ上げた。
ヴェラの目がロウの横顔を一度だけかすめた。
それきり、何も言わなかった。
ミラは壁ぎわにいた。
ミラの手に、鍵束があった。さっき檻のそばを通った見張りの腰に、もう鈴はなかった。
鍵束には、小さな鈴がついていた。ミラはその鈴を指で押さえていた。鳴らないように。
指が震えていた。
ロウが見ているのに気づくと、ミラは軽い声で言った。
「鍵って、持ってる奴ほど歩くのが下手だよね」
いつもの、ミラの皮肉だった。
だが、指は震えたままだった。そして、ミラの目は鍵を見ていなかった。
ミラは貯水枡のほうを見ていた。
「……あの子、まだ鳴いてない」
それだけ言って、ミラは鈴を押さえなおした。
ロウは檻の中を見た。
ガロはこぶしを握っていた。今夜は震えていなかった。
ジグは天井の暗がりを見ていた。
キールは口の中で何かを数えていた。
穴は狭い。水は増えている。ザハルは穴の前にいる。買い手は夜明けに来る。
待つ道は、もうなかった。
「夜明け前だ」とロウは言った。
それは、買い手より先に、ということだった。用心棒より先に、ということだった。
そして、水より先に。




