第7話 処分印
ロウが最初に起こしたのは、ニナではなかった。
キールはまだ起きていなかったが、眠ってもいなかった。肩に触れると、すぐに半身を起こした。
「巡回を数えろ」とロウは小さく言った。
キールは何も訊かなかった。ニナの番号の赤い印を読んだのは、キールだった。
「今夜だ」とロウは言った。「夜明けの前に、ニナは運ばれる」
檻から子供が消えるのは、夜明けだった。朝に出された子供は戻らなかった。
キールの喉が上下した。「まだ、何も用意できてない。穴も――」
「分かってる」
穴はまだ狭い。水は増えている。檻の外へ続く道は、まだ半分しか分かっていなかった。
だが、ニナはその道を待てなかった。夜明けはもう近かった。
ロウが今夜できるのは、隠すことだけだった。檻の外ではなく、檻の下に。
キールは何か言いかけて、やめた。ロウは、その続きを待たなかった。
ロウはガロの寝床へ行った。
ガロは大きい。起こすのに、肩を二度揺すった。目を開けたガロは、まず怯えた。何が来たのか、分からない顔だった。
ロウは檻の隅の桶を指でさした。水を入れておくための桶だった。
「合図で、あれを鳴らせ」とロウは言った。「眠ってる奴が蹴ったみたいに」
ガロは桶を見て、それから自分の手を見た。大きな手が、少し震えていた。
「うまく、鳴らせるかな」
「鳴らすだけだ」とロウは言った。
ヴェラは起こす前に目を開けていた。狼系の眠りは浅い。
ロウの足が、近づく途中で一歩遅れた。ヴェラはそれに気づいたが、何も言わなかった。
そのかわり、鼻をロウのほうへ向けた。「血の匂いがする」
ロウは肩に触れた。第五話で釘に裂いた傷だった。「古いやつだ」
「古くない」とヴェラは言った。「まだ匂う」
ロウは答えなかった。匂うということは、誰かに嗅がれるということだった。
「足音を聞け。匂いを拾え。見張りが檻に近づく前に、教えろ」
ヴェラは檻の戸のほうへ顔を向けた。それで足りた。
ジグは、起こす前に半身を起こしていた。片方の肩が低い。翼のない側だった。
ロウは檻の口の灯りを指した。低い棚の上で、小さな炎が燃えていた。
「合図で、消せ」
ジグはその炎を見て、それからロウを見た。「火を消すのは得意だ。つけるのも、得意だけどな」
ロウは答えなかった。
ミラは、もう起きていた。紙を見て目を閉じたあと、そのまま眠っていなかったのだろう。
ロウが寝床の横に立つと、ミラは小さく言った。「あたしの仕事は、もう分かってる」
ミラは檻の外の音を聞いていた。見張りの足音。鍵束の音。鍵束には小さな鈴がついていて、歩くたびに、かすかに鳴った。
「鈴が鳴ってる間は、こっちの音は届かない」とミラは言った。「鳴ってる時に動け。止まったら、止まれ」
それだけ言って、ミラは戸の外へ耳を向けた。
檻の中で、寝ていない場所が増えた。
ロウは最後に、ニナの寝床へ行った。
◇
ニナは肩に触れただけで震えた。
目を開けたニナは、声を出しかけた。怯えた子供の、いちばん最初の音だった。
ロウはその口に手のひらを当てた。
「声を出すな」とロウは口の動きだけで言った。
ニナの目がロウを見た。それから、檻の中を見た。
ニナは声を出さなかった。
キールが指で数えていた。巡回の足音が遠ざかってから、指がひとつずつ折られた。折る指が最後だけ少し遅れた。
最後の指が折られた。動くのは、そこからだった。
ジグが低いほうの肩を先に入れて、灯りへ手を伸ばした。炎がふっと消えた。檻の中がひとつ暗くなった。
ヴェラは戸のほうを見たまま、動かなかった。見張りはまだ遠かった。
ミラがロウの腕に指で触れた。鈴が鳴っていた。
今だ。
ロウは床板に手をかけた。釘のゆるんだ板だった。
ガロが桶を鳴らした。眠ったまま蹴ったような、鈍い音。その音の下で、板が浮いた。
板が浮いた時、檻の奥で、咳が出かけた。
乾いた、小さな音。第六話で間が短くなっていた、あの咳だった。
誰かが袖を押し当てた。咳は途中で潰れた。
檻じゅうが息を止めていた。目だけが床に落ちていた。
ロウは穴に下りた。先に、自分が。それから、ニナを引いた。
ニナの体は、思ったより簡単に隙間を通った。兎系の子供は小さい。床下は、ニナを呑むように暗かった。
床下は水だった。
ロウの脛より上まで、水が来ていた。夜のあいだに、また増えていた。
ニナが水に足をつけて、止まった。
「進め」とロウは言った。
ニナは進まなかった。暗くて、冷たくて、底の見えない水だった。
ニナの喉から、またあの音が出かけた。
ロウはニナの手を取った。強く引いた。ニナの指がロウの手の中で縮んだ。それで、ニナは歩いた。
水がロウの肩の傷にしみた。まだ塞がっていない傷だった。
ロウはニナを連れて、排水路を進んだ。
道は、ロウの体が覚えていた。曲がり目。石の崩れ。深い水と浅い水。
だが、その地図は水で狂いはじめていた。浅かったところが、深くなっていた。
貯水枡は排水路の横にあった。第五話で見つけた、石造りの古い窪みだった。
ロウはニナをそこへ入れた。
枡の底にも水があった。雨水の溜まる窪みだった。その水も増えていた。ニナが入ると、水はニナの膝を超えた。
「冷たい」とニナがはじめて言った。小さな、途切れた声だった。
「夜明けまでだ」とロウは言った。「それまで、ここにいろ」
夜明けまで。それは嘘ではない刻限だった。水は夜明けまでに、枡の縁まで来る。それより長くは、ニナをここに置けなかった。
ロウは布を出した。
第三話で売られた子の寝床から拾った布きれだった。ずっと持っていた。
きれいな布ではなかった。ロウは固い端を内側へ折ってから、ニナの手に押し込んだ。
「声を出すな」
それだけ言って、ロウは枡から離れた。
排水路を半分ほど戻った時、頭の上で、足音がした。
ロウは止まった。水の中で、石のように止まった。
足音はニナの枡のすぐ上だった。
ロウは戻れなかった。動けば、水が鳴る。今、音を立てれば、足音はここで止まる。
ニナのいる枡からは、もう離れていた。手は届かない。
ニナの喉から、音が出かけた。
ロウには聞こえた。泣く前の、息を吸う音だった。
それは、檻でニナが目を覚ました時の、最初の音と同じだった。あの時は、ロウの手が止めた。
今は、ロウの手は届かなかった。
足音は枡の上にいた。
息を吸う音が途中で止まった。
布の湿る音がした。
ニナは泣かなかった。
足音が動いた。枡の上から、離れていった。遠ざかって、消えた。
ロウは長いあいだ動かなかった。
ロウは枡まで戻った。
ニナは水の中にいた。膝を抱えて、布を歯で噛んでいた。
噛んだまま、ロウを見上げた。
ロウは何も言わなかった。よくやった、とは言わなかった。
「夜明けまで」ともう一度だけ言った。
それから、ロウは枡を離れた。ニナを、水の中に残して。
◇
ロウは床板を元に戻した。釘の頭を指で押さえた。
自分の寝床に戻ると、体から水が垂れた。ロウは濡れたまま横になった。
ニナの寝床は空いていた。
売られた子の寝床と、同じへこみだった。
朝になれば、見張りはニナを連れに来る。
夜明けの前に、足音が来た。
一つではなかった。二つ。三つ。いつもの巡回より多かった。
グレムの声がした。低く、まだ眠そうな声だった。
足音が寝床のあいだを歩いた。子供たちは、誰も動かなかった。動けば、見られる。
グレムの足が止まった。
ロウの寝床のすぐ近くだった。床板の上だった。
グレムがその板を踏んだ。もう一度、踏んだ。今度は、強く。
板がわずかに鳴った。
「ここ、浮いてねえか」




