表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/6

第6話 消された番号

二度目の床下は水が高くなっていた。


さっき通ったときは、溝の縁から水面まで、手のひらひとつ分あった。


その隙間が、指二本ぶんになっていた。


水は夜のあいだも止まらなかった。ロウが檻に戻り、また下りてくるあいだにも、少しずつ上がっていた。


ロウは水を恐れたことがなかった。床下の水はロウの道だった。匂いを消し、足音を消し、外へ続いていた。


だが、今夜の水は道よりも喉に近かった。


ロウは事務室の側へ進んだ。


道はもう覚えていた。曲がり目も、石の崩れた隙間も、体が覚えていた。さっきより速く進めた。


頭の上で、足音がした。


ロウは止まった。


グレムの足音だった。重く、乱暴に、三歩で一度。それはいつもの足音だ。


だが、そのあとにもう一つ続いた。軽く、間隔の違う足音だった。


子供が一人売られてから、巡回に増えた足音だ。ロウの知らない足音。ロウの時計に入っていない足音。


二つの足音が遠ざかるまで、ロウは水の中で動かなかった。


事務室の床下に着いた。


頭の上の板の隙間から、灯りは漏れていなかった。


さっきは漏れていた。モルデンが起きていた。今は暗い。モルデンの部屋の灯りも消えていた。


モルデンは眠っているらしかった。


ロウは頭の上の板を押した。


古い板だ。釘がゆるんでいる。さっき自分でずらした板だった。音もなく浮いた。


ロウは事務室に上がった。


事務室は暗く、静かだった。


モルデンの部屋の戸が、すぐそこにあった。戸の下に灯りはない。だが、戸の向こうで、モルデンが寝返りを打つ音がした。


ロウは動きを止めた。


息を数えた。十数えて、モルデンの寝息が戻った。


ロウは棚へ行った。


棚の場所は、手が覚えていた。上から二冊目。古く、紙の湿った台帳。指がそれに触れた瞬間、ロウはそれだと分かった。


ロウは台帳を抜いた。


黒い印の続く頁を開いた。さっき手で覚えた場所だった。


そこに、セオの番号があった。


ロウは指でその番号に触れた。


ロウは頁の端をつまんだ。


紙を破る音は、よく響く。夜の事務室では、なおさらだった。戸の向こうには、モルデンが眠っている。


ロウは急がなかった。


頁の端から、ゆっくりと破った。


一気に引けば、音が出る。ロウは紙の糸を一本ずつ切るように、少しずつ破った。破れ目が紙を横に進んでいった。指の幅ずつ。


途中でモルデンの部屋の戸が、かたりと鳴った。


ロウは手を止めた。破れ目の途中で止めた。


戸はそれきり鳴らなかった。風かもしれない。モルデンの寝返りかもしれない。


ロウはまた破りはじめた。指の幅ずつ。


頁が台帳から離れ、手の中に落ちた。


音は立てなかった。


台帳には頁一枚ぶんの隙間ができた。


ロウは台帳を閉じた。閉じると、隙間は表紙の内側に隠れた。今だけは。


ロウは台帳を棚に戻した。抜いたときと同じ場所に。


それでも、頁は一枚なくなった。なくなったものは戻らない。


ロウは床の穴へ下りた。


頁を二つに折って、端を歯で噛んだ。両手は進むのに要る。


水は行きより高くなっていた。


ロウが台帳を破っているあいだも、水は上がっていた。それだけの時間、ロウは床下にいた。


低いところでは、水が顎の近くまで来た。


ロウは頭を上げ、歯に噛んだ頁を水から離して進んだ。


濡らせば、字が滲み、キールには読めなくなる。


ロウは頁を濡らさなかった。



檻に戻ると、ミラが目を開けていた。


ミラは何も訊かなかった。ロウの濡れた体を見て、歯に噛んだ紙を見て、それから、また目を閉じた。


見なかったことにする、という閉じ方だった。


檻の奥で、咳がした。乾いた咳。間はまた短くなっていた。


ロウはキールの寝床へ行った。


キールの肩に手を置いた。すぐに目が開いた。


キールはロウを見て、それから、ロウの歯にある紙を見た。


ロウは紙を歯から外し、折り目を開いて、キールに渡した。


檻の中は暗い。だが、戸の外で、見張りの灯りが一つ灯っていた。その光が格子のあいだから、細く一本、床に伸びていた。


キールは紙をその光の上に置いた。


キールは紙の上に顔を寄せた。


光は細い。キールは紙を、光の線に少しずつずらしながら読んだ。番号の列を、一つずつ。


ロウに読めるのは番号と印だけだった。


ロウは待った。


ロウはセオの番号を指でさした。


キールの目がそこで止まった。


キールはしばらく、その行を読んでいた。声を出さずに。指が同じ行をもう一度たどった。


読み終えても、すぐには何も言わなかった。


「どうした」とロウは言った。


キールは紙から顔を上げなかった。


「黒い印は」キールはそこで言葉を切った。「抹消の印だ」


「この番号は、ここに書いてある。だが、黒い印が、その上から消している」


「消された番号は、売られたことにも、処分されたことにもならない。はじめからなかったことになる」


ロウはセオの番号を見た。黒い印がその上に重ねて押されていた。


セオはもういない。床の染みになって、檻の戸の内側に残っているだけだ。


そして今、ロウは知った。



帳簿の上でも、セオははじめからいなかった。



格子の光は細いままだった。


キールはまだ紙を見ていた。


ロウはもういい、と言いかけた。セオのことは分かった。これ以上読ませることはない。


だが、キールの指が止まっていた。別の番号の上で。


「これ」とキールが言った。


声が変わっていた。さっきまでの、抹消の印を説明する声ではなかった。


ロウはキールの指の先を見た。


番号があった。ロウはその番号を知っていた。檻の子供の番号は、よく知っている。


ニナの番号だった。


ニナの番号の横に、赤い印があった。


新しい印だった。墨の色がまだ濃い。ほかの赤い印より、ずっと新しかった。


キールは赤い印の横の言葉を読んだ。


読みながら、紙を持つ手が少しずつ下がっていった。


「処分の理由が、書いてある」とキールは言った。


ロウはその言葉を読めない。だが、キールは読んでしまった。


「『泣く。商品にならず』」


キールは書いてある通りに読んだ。それだけの言葉だった。


檻の奥で、誰かが寝返りを打った。


ロウはニナが売られるのだと思っていた。


泣く子は値が下がる。安く買われて、どこかへ消える。


だが、キールは首を振った。


「赤い印は、処分の印だ」と、キールは言った。「売る印じゃない」


キールの声は低かった。紙を持つ手はまだ下がったままだった。


「ニナは、売られるんじゃない」


「消される」


赤い印と、黒い印。


これから消される子と、もう消された子。二つの番号が一枚の紙の上に並んでいた。


ロウはセオの番号のために、その紙を取った。だが、同じ紙にニナの番号もあった。ロウは黒い印だけを追っていた。


ロウはニナの寝床のほうを見た。


ニナは眠っていた。膝を抱えて、小さくなって。自分の番号に押された赤を、知らずに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ