第6話 消された番号
二度目の床下は水が高くなっていた。
さっき通ったときは、溝の縁から水面まで、手のひらひとつ分あった。
その隙間が、指二本ぶんになっていた。
水は夜のあいだも止まらなかった。ロウが檻に戻り、また下りてくるあいだにも、少しずつ上がっていた。
ロウは水を恐れたことがなかった。床下の水はロウの道だった。匂いを消し、足音を消し、外へ続いていた。
だが、今夜の水は道よりも喉に近かった。
ロウは事務室の側へ進んだ。
道はもう覚えていた。曲がり目も、石の崩れた隙間も、体が覚えていた。さっきより速く進めた。
頭の上で、足音がした。
ロウは止まった。
グレムの足音だった。重く、乱暴に、三歩で一度。それはいつもの足音だ。
だが、そのあとにもう一つ続いた。軽く、間隔の違う足音だった。
子供が一人売られてから、巡回に増えた足音だ。ロウの知らない足音。ロウの時計に入っていない足音。
二つの足音が遠ざかるまで、ロウは水の中で動かなかった。
事務室の床下に着いた。
頭の上の板の隙間から、灯りは漏れていなかった。
さっきは漏れていた。モルデンが起きていた。今は暗い。モルデンの部屋の灯りも消えていた。
モルデンは眠っているらしかった。
ロウは頭の上の板を押した。
古い板だ。釘がゆるんでいる。さっき自分でずらした板だった。音もなく浮いた。
ロウは事務室に上がった。
事務室は暗く、静かだった。
モルデンの部屋の戸が、すぐそこにあった。戸の下に灯りはない。だが、戸の向こうで、モルデンが寝返りを打つ音がした。
ロウは動きを止めた。
息を数えた。十数えて、モルデンの寝息が戻った。
ロウは棚へ行った。
棚の場所は、手が覚えていた。上から二冊目。古く、紙の湿った台帳。指がそれに触れた瞬間、ロウはそれだと分かった。
ロウは台帳を抜いた。
黒い印の続く頁を開いた。さっき手で覚えた場所だった。
そこに、セオの番号があった。
ロウは指でその番号に触れた。
ロウは頁の端をつまんだ。
紙を破る音は、よく響く。夜の事務室では、なおさらだった。戸の向こうには、モルデンが眠っている。
ロウは急がなかった。
頁の端から、ゆっくりと破った。
一気に引けば、音が出る。ロウは紙の糸を一本ずつ切るように、少しずつ破った。破れ目が紙を横に進んでいった。指の幅ずつ。
途中でモルデンの部屋の戸が、かたりと鳴った。
ロウは手を止めた。破れ目の途中で止めた。
戸はそれきり鳴らなかった。風かもしれない。モルデンの寝返りかもしれない。
ロウはまた破りはじめた。指の幅ずつ。
頁が台帳から離れ、手の中に落ちた。
音は立てなかった。
台帳には頁一枚ぶんの隙間ができた。
ロウは台帳を閉じた。閉じると、隙間は表紙の内側に隠れた。今だけは。
ロウは台帳を棚に戻した。抜いたときと同じ場所に。
それでも、頁は一枚なくなった。なくなったものは戻らない。
ロウは床の穴へ下りた。
頁を二つに折って、端を歯で噛んだ。両手は進むのに要る。
水は行きより高くなっていた。
ロウが台帳を破っているあいだも、水は上がっていた。それだけの時間、ロウは床下にいた。
低いところでは、水が顎の近くまで来た。
ロウは頭を上げ、歯に噛んだ頁を水から離して進んだ。
濡らせば、字が滲み、キールには読めなくなる。
ロウは頁を濡らさなかった。
◇
檻に戻ると、ミラが目を開けていた。
ミラは何も訊かなかった。ロウの濡れた体を見て、歯に噛んだ紙を見て、それから、また目を閉じた。
見なかったことにする、という閉じ方だった。
檻の奥で、咳がした。乾いた咳。間はまた短くなっていた。
ロウはキールの寝床へ行った。
キールの肩に手を置いた。すぐに目が開いた。
キールはロウを見て、それから、ロウの歯にある紙を見た。
ロウは紙を歯から外し、折り目を開いて、キールに渡した。
檻の中は暗い。だが、戸の外で、見張りの灯りが一つ灯っていた。その光が格子のあいだから、細く一本、床に伸びていた。
キールは紙をその光の上に置いた。
キールは紙の上に顔を寄せた。
光は細い。キールは紙を、光の線に少しずつずらしながら読んだ。番号の列を、一つずつ。
ロウに読めるのは番号と印だけだった。
ロウは待った。
ロウはセオの番号を指でさした。
キールの目がそこで止まった。
キールはしばらく、その行を読んでいた。声を出さずに。指が同じ行をもう一度たどった。
読み終えても、すぐには何も言わなかった。
「どうした」とロウは言った。
キールは紙から顔を上げなかった。
「黒い印は」キールはそこで言葉を切った。「抹消の印だ」
「この番号は、ここに書いてある。だが、黒い印が、その上から消している」
「消された番号は、売られたことにも、処分されたことにもならない。はじめからなかったことになる」
ロウはセオの番号を見た。黒い印がその上に重ねて押されていた。
セオはもういない。床の染みになって、檻の戸の内側に残っているだけだ。
そして今、ロウは知った。
帳簿の上でも、セオははじめからいなかった。
格子の光は細いままだった。
キールはまだ紙を見ていた。
ロウはもういい、と言いかけた。セオのことは分かった。これ以上読ませることはない。
だが、キールの指が止まっていた。別の番号の上で。
「これ」とキールが言った。
声が変わっていた。さっきまでの、抹消の印を説明する声ではなかった。
ロウはキールの指の先を見た。
番号があった。ロウはその番号を知っていた。檻の子供の番号は、よく知っている。
ニナの番号だった。
ニナの番号の横に、赤い印があった。
新しい印だった。墨の色がまだ濃い。ほかの赤い印より、ずっと新しかった。
キールは赤い印の横の言葉を読んだ。
読みながら、紙を持つ手が少しずつ下がっていった。
「処分の理由が、書いてある」とキールは言った。
ロウはその言葉を読めない。だが、キールは読んでしまった。
「『泣く。商品にならず』」
キールは書いてある通りに読んだ。それだけの言葉だった。
檻の奥で、誰かが寝返りを打った。
ロウはニナが売られるのだと思っていた。
泣く子は値が下がる。安く買われて、どこかへ消える。
だが、キールは首を振った。
「赤い印は、処分の印だ」と、キールは言った。「売る印じゃない」
キールの声は低かった。紙を持つ手はまだ下がったままだった。
「ニナは、売られるんじゃない」
「消される」
赤い印と、黒い印。
これから消される子と、もう消された子。二つの番号が一枚の紙の上に並んでいた。
ロウはセオの番号のために、その紙を取った。だが、同じ紙にニナの番号もあった。ロウは黒い印だけを追っていた。
ロウはニナの寝床のほうを見た。
ニナは眠っていた。膝を抱えて、小さくなって。自分の番号に押された赤を、知らずに。




