第5話 台帳の場所
床板を外すと、下から冷たい匂いが上がってきた。
水と、腐った木と、石の匂い。
ロウは穴に足から入った。
肩が板の縁をこすった。ガロなら入らない。グレムも入らない。ロウだけが、肩を削れば通れた。
床下は暗かった。
灯りはない。ロウは灯りを持ってこなかった。床下では、目はもともと役に立たない。
ロウは手と、足の裏と、耳で進んだ。
板の下に、細い水路があった。石を組んだ溝。底に、水が浅く流れていた。
水は低かった。溝の縁から水面まで、手のひらひとつ分の隙間があった。
その隙間が道だった。
水が増えれば、道は水の下に沈む。
ロウは水の音を追った。
さっき床に耳をつけて聞いた、あの太くなる音のほうへ。事務室があるはずの側へ。
頭の上で、足音がした。
グレムの巡回だった。重い。乱暴。三歩で一度止まる。
水が脛に触れたまま、ロウは息を止めた。足音が檻のほうへ遠ざかるまで、動かなかった。
足音が遠ざかった。ロウはまた進んだ。
水路は途中で狭くなった。
石が崩れて、隙間がふさがりかけていた。大人の手なら、入らない。ロウは肩を抜き、息を吐いて、体を細くして通った。
通りながら、ロウは思った。ここは鼠の道だ。鼠より大きいものは通れない。
狭い隙間を抜けると、空気が変わった。
少し広い場所だった。石でできた、四角いくぼみ。古い貯水枡だった。底に、水が薄く残っていた。
ロウは手で枡の壁をなぞった。深さは子供一人が膝を抱えて入れるくらい。
人が一人、隠れられる。
ロウはその場所を覚えた。
貯水枡の先で、道が分かれていた。
一つは、檻のほうへ戻る道。来た道だ。
一つは、事務室の側へ続く道。水音が太いほうだった。
そして、足元に、もう一つあった。
床の石が一枚、外れていた。その下に、穴があった。
ロウは手を入れた。腕が肘まで入っても、底に届かなかった。下のほうから、低い水音がした。さっきの溝より、ずっと太い音だった。
深い。
この穴は、今は使えない。落ちたら、上がってこられない。
ロウは石を元に戻した。
そのとき、また足音がした。
グレムだ。さっきより近い。巡回が戻ってくる時間だった。
戻れば檻だった。進めば足音だった。
ロウは事務室への道を選んだ。
事務室への道は低かった。腹ばいで進む高さしかなかった。
ロウは体を伏せて、進んだ。
途中で、肩の布が何かに引っかかった。
板から突き出た、古い釘だった。
ロウは布を引いた。布は釘から自由にならなかった。もう一度引くと、裂ける音がした。
肩の布が手のひらほど破れた。破れた布きれは釘に残った。
釘の先が肩の皮を切った。
腕に細い傷ができて、血が出た。
血は腕を伝って、床下の石に落ちた。一滴。それから、もう一滴。
ロウは袖を見なかった。
床下は暗い。床下は狭い。床下は鼠の場所だ。
布の破れたまま、ロウは進んだ。
道の先で、頭の上の板の隙間から灯りが漏れていた。
事務室の床下だった。
頭の上で、声がした。
モルデンの声だった。低く、平らな声。番号と、値段を読み上げていた。
もう一つ、グレムの声があった。短く答えるだけの声だった。
ロウは板の隙間に目を寄せた。
隙間は細く、見えるのは床のひとところだけだった。モルデンの靴。机の脚。壁ぎわに、棚があった。
棚には、本のようなものが並んでいた。
しばらくして、モルデンの声がやんだ。
机の上で、台帳が閉じる音がした。モルデンの靴が隙間から消えた。足音は事務室の奥の戸へ歩いていった。戸が開いて、閉まった。
その奥がモルデンの部屋らしかった。
グレムの足音も出ていった。
事務室が静かになった。
灯りも消えた。
ロウは頭の上の板を押した。
一枚が浮いた。古い板で、釘がゆるんでいた。ロウはその板をそっとずらした。
頭が事務室の床から出た。
事務室は暗かった。
モルデンの部屋の戸の下から、細い灯りの線が漏れていた。ロウの目にはそれで足りた。
戸の向こうで、椅子がきしんだ。モルデンはまだ起きていた。
ロウは棚に手を伸ばした。
本が三冊あった。
一冊は薄かった。その薄さを、ロウの指は知っていた。檻の前で開かれる厚みだった。いまいる子供の台帳。
あとの二冊は厚かった。古く、紙が湿って波打っていた。
ロウは厚いほうを開いた。
頁に、番号が並んでいた。番号の横に、獣種の印。値段。買い手の印章。読めない言葉も並んでいた。
どの番号にも買い手の印章があった。売られた番号の束だった。
ロウはもう一冊を開いた。
こちらにも、番号が並んでいた。だが、買い手の印章はなかった。
代わりに、簡単な印が押されていた。同じ形が頁じゅうに繰り返されていた。
赤い印と、黒い印。
買い手の印章がない。売られなかった番号だった。
ロウは黒い印の頁を探した。
なぜ黒を探すのか、ロウは考えなかった。手が勝手に黒い印を追っていた。
赤い印のついた番号に、ロウの知る番号が混じっていた。檻にまだいる子供の番号だった。
黒い印は違った。
黒い印のついた番号はもう檻にいない。買い手の印章もない。木札もない。
あったのは、黒い印だけだった。
ロウの指が一つの黒い印で止まった。
その横の番号を、ロウは見た。
ロウはその番号を知っていた。
セオの番号だった。
番号は分かった。黒い印も分かった。
だが、番号の横に、言葉が並んでいた。その言葉が読めなかった。
ロウは指で、その言葉をなぞった。形は分かった。形だけだった。
セオに何が書かれたのか、ロウには分からなかった。
ロウは台帳を閉じた。
棚の上から二冊目。頁は黒い印が続くあたり。ロウはその場所を手に覚えさせた。
モルデンの部屋の戸の下で、灯りの線がまだ揺れていた。
ロウは床の穴へ戻り、板を元のように戻した。
帰り道、肩の傷がまた血を出した。床下の石に、点々と落ちた。
ロウはそれを拭かなかった。
檻に戻ると、子供たちは眠っていた。
ヴェラだけが鼻先を一度動かした。
ロウはキールの寝床のほうを見た。
読める目は閉じていた。




