第3話 セオの影
重く、乱暴に、三つ。グレムの歩き方だった。
だが、グレムではなかった。音が軽すぎた。歩き方は真似られても、体の重さまでは真似られない。誰かが裸の足で床を踏んで、見張りの歩き方をなぞっていた。
飯はまだ来ていなかった。本格的な巡回も、まだ始まっていない。その隙間で、誰かが遊んでいた。
短い笑いが二つ三つ漏れた。手で口を押さえた笑いだった。
ロウは目を開けたまま聞いていた。咎める気はなかった。
それから、本物の足音が来た。
足音は檻の前で止まった。
笑いはすぐに消えた。子供たちは笑い方を覚えるより先に、笑いの消し方を覚える。
グレムが戸を開けた。鍵束の鈴が鳴った。
その音で、檻が静かになった。子供たちはそれぞれの場所で小さくなった。背を丸め、膝を寄せ、息を浅くする。見られないための形だった。みなその形を知っている。
グレムは檻の奥を指さした。名前は呼ばなかった。番号も言わなかった。指で足りた。
指された子が立ち上がった。
ロウはその子の名前を知らなかった。寝る場所と、眠るときに膝を抱える癖だけ、知っていた。
その子は持っていくものを探さなかった。探すものが何もなかった。
戸口へ歩いた。グレムはその肩を押しもしなかった。押す必要のない歩き方だった。
暴れなかった。
泣かなかった。
子供たちはその子を見なかった。みな、床を見ていた。
ロウだけが見ていた。
背中だけがロウのほうを向いていた。痩せた背中。肩甲骨が薄い布の下で二つ浮いていた。
その子は一度も振り返らなかった。
ロウはその背中を見ていた。
見ているうちに、別の背中が重なった。
セオの背中。
セオは狼系の半獣だった。ロウが檻に来たときには、もうそこにいた。
セオは、殴られそうな子の前に黙って立った。一度、ロウもその後ろにいたことがある。グレムの腕が伸びてきて、セオの肩で止まった。
殴られたのは、セオだった。ロウではなかった。
水が足りない日は、セオは自分の器を分けた。
水を分ける前に、セオは器の縁を親指で拭いた。
毎回拭いた。
その器に、拭いて落ちる汚れなどなかった。檻の器ははじめから汚れていて、水も濁っていた。それでも、セオは縁を一度なぞってから、器を回した。
ロウはそれを馬鹿だと思っていた。拭いても、何も変わらない。変わらないことを、なぜ毎回するのか、分からなかった。
一度だけ訊いたことがある。セオは少し考え、器の縁を見たまま、「癖だ」と言った。それ以上は言わなかった。
ある日、セオはグレムに逆らった。
何を言ったのかは、ロウは覚えていない。覚えているのは、檻の中が急に静かになったことだ。子供たちが一斉に床を見た、あの静けさだった。
グレムはセオを外へ連れていった。
セオも暴れなかった。泣かなかった。
ロウは見ていた。檻のいちばん内側で、背を丸めていた。声を上げなかった。立ち上がりもしなかった。手も伸ばさなかった。
セオが連れていかれるとき、その目が一度、檻のほうを向いた。
ロウは目をそらした。
外で、何度も鈍い音がした。セオは戻ってこなかった。
死体は檻の戸の内側に戻された。
埋めるためではなかった。見せしめ。逆らえばこうなると、檻じゅうの子供に見せるために置かれた。
三日のあいだ、死体はそこにあった。子供たちはそのそばを通って、水を受け取り、飯を受け取った。誰もそっちを見なかった。
四日目に、死体は運ばれた。処理を待っていた商品が片づけられた。
死体が置かれていた場所に、染みが残った。檻の戸の内側、子供たちが毎日通る場所。
ロウはその染みを踏まない。
檻の戸が閉まった。鍵束の鈴が鳴った。
その音で、ロウは戻ってきた。
朝の子はもう戻らない。売られた子は戻らないと、檻の子供なら誰でも知っていた。
檻の奥で、咳がした。乾いた咳が一度。間を置いて、もう一度。
間は昨日より短くなっていた。
それでも、その子はまだそこにいた。売られた子の隣で、まだ咳をしていた。
生きている音だった。
◇
奥の寝床の藁が子供一人の形にへこんでいた。
ヴェラがその寝床のそばにいた。
ヴェラは空いた藁に顔を近づけた。鼻先を藁の上でゆっくりと往復させた。売られた子の匂いを、消える前に覚えようとしていた。
狼の仕草。
それを見たとき、ロウの足が半歩後ろに引いた。
理由を探す前に、足が戻る場所を探していた。
ヴェラが顔を上げた。ロウの足を見た。それから、ロウの顔を見た。
ヴェラは何も言わなかった。
ただ、もう一度藁に顔を戻した。
ロウは足を元へ戻した。何でもない、という顔をつくった。
ジグが空いた寝床を見ていた。片方の肩がいつものように低い。そちらには、翼がなかった。
「いなくなったのに」とジグは言った。「へこみだけ残るんだな」
誰も答えなかった。ジグも答えを待ってはいなかった。
昼が過ぎた。檻が静かになった頃、ロウは奥の寝床へ寄った。
藁のあいだに、布切れが落ちていた。手のひらほどの汚れた布だった。売られた子が何に使っていたのかは、分からない。
ロウはそれを拾った。
役に立つものは空いた場所に残る。拾わなければ、藁に埋もれて、次の子の下に消える。
ロウは布を、自分の寝床の藁の下に押し込んだ。
セオのためではなかった。あの子のためでもなかった。
布は、布だった。いつか、何かを縛るか、塞ぐか、噛むのに使える。それだけのことだった。
夕方、灯りが入る前に、ロウは檻の戸の横の板を見た。
古い板が一枚、壁にかかっている。板には釘が打たれ、釘の一本ずつに、番号を彫った木札が下がっていた。
檻にいる子供の数だけ木札があった。子供が減れば、木札が減る。
それが檻の台帳だった。字の読めないロウにも、数だけは読めた。
その朝まで、奥の子の番号は、左から三本目の釘に下がっていた。
いま、その釘は空になっていた。
木札は外されていた。釘の頭のまわりに、木札のこすれた跡が小さく白く残っていた。
板の上で、奥の子がいた場所はそれだけになった。釘と、こすれた跡が一つ。
ロウは自分の番号を探した。
木札はまだ釘に下がっていた。
あと二日で買い手が来る。釘と、こすれた跡だけが残る。
ロウは板から目を離した。
自分の寝床へ戻った。途中、足が床の黒い染みを避けた。
ロウはそれに気づかなかった。




