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第2話 銀貨五枚の鼠

匂いが、声より先に来た。


灰汁と、腐ったものと、水。三つが一つに練り込まれた匂いだった。


ロウは暗がりの中で、その匂いを分けた。水を扱う男だ。腐ったものを扱う。そして、その二つを人前で隠さない。


灯りが檻の前まで来た。


手提げの灯りだった。グレムの灯りより、油が古い。芯の燃え方が悪かった。煤の匂いが灰汁の匂いにまじった。


灯りを持つ手は、節が太く、爪のあいだが黒かった。洗っても落ちなかった。土と水の底を、長く掻いてきた手。


モルデンの声がした。


「ご足労を。鼠系はこちらに」


男は答えなかった。灯りを子供たちの上にゆっくりと滑らせた。


子供たちは、灯りが自分を通り過ぎるのを、息を止めて待った。


ロウは壁際で息を浅くした。


だが、今夜は弱く見せても無駄だった。男ははじめから鼠を買いに来ていた。檻じゅうで、鼠系はロウ一人だった。


灯りがロウの上で止まった。


「これか」


男の声は低く乾いていた。名ではなく、数を確かめる声。


モルデンが台帳を開いた。夜でも、台帳は手から離さないものらしかった。革の表紙が灯りで鈍く光った。


「銀貨五枚。鼠系の雄。下水、排水溝、壁の隙間。臭いの追跡もできます」


モルデンは商品の良いところを並べた。並べながら、男の顔色を横目で見ていた。買い手の機嫌を読む目だった。


男は灯りを下げた。ロウの足元を見た。


それから、しゃがんだ。膝が鳴った。年のいった男だった。


男はロウの手を取った。


指を一本ずつ開かせた。爪の形を見た。関節を曲げて戻した。鼠系を好いている手つきではなかった。だが、使い道を知っている手つきだった。


男の手は冷たかった。土と水の冷たさが、そのまま手に移っていた。


「細い手だ」


男は言った。誉めてはいなかった。


「細い手は隙間に入る。隙間に入る手は物を持って出る」


それから、男はロウの指の付け根を親指で押した。骨の当たる場所だった。


「盗む鼠はここを落とす。落とせば、二度と盗らない」


壁際で、誰かの爪が床を掻いた。


ロウは手を引かなかった。


引けば、値が下がる。ロウは男のするままに任せた。


ただ、ロウはその指で覚えていた。床板の沈み方。釘の抜ける場所。継ぎ目の幅。男がいま握っているのは、ただの指ではなかった。


男が立ち上がった。また膝が鳴った。


「三日後だ」モルデンに言った。「夜に引き取る。それまで生かしておけ」


「三日ですか」モルデンが言った。「少し、急でございますな」


「水が出る前に、片づけたい」


男はそれだけ言った。


モルデンはそれ以上言わなかった。


灯りが遠ざかった。煤の匂いも灰汁の匂いも、男といっしょに檻の前から薄れていった。


だが、一つだけ残った。


男の靴の泥だった。


灯りが消える前に、ロウはそれを見ていた。乾ききっていない泥だった。川縁の土ではなく、もっと低い場所の、動かない水がつくる泥。


男は水のそばから来た。そして、水のそばへ帰っていった。


「水が出る前に」と男は言った。


ロウにはその水がどこの水か分からなかった。だが、水を扱う男が水を気にしている。それだけは分かった。


その夜、男が檻の前にいた短いあいだに、ロウは数えていた。


鍵束の鍵の数。閂の位置。足音が戻るまでの間。


買い手はロウを値踏みした。


ロウも檻を値踏みした。



夜が深くなった。


子供たちは壁際で眠っていた。檻の奥の咳は、間隔が長くなっていた。眠っているあいだは、咳も眠るらしかった。


ロウは眠らなかった。


三日。男はそう言った。ロウはその三日を数えはじめた。だが、数えるだけでは何も変わらなかった。


グレムの巡回が一度通り過ぎた。三歩で、灯りが揺れた。足音が遠ざかり、檻の角を曲がった。戻ってくるまでの間を、ロウは知っていた。


その間に、ロウは動いた。


ロウは桶のところへ行った。


水を回し飲みするあの桶だった。木のたががゆるんでいた。底のたがに、錆びた釘が一本浮いていた。


ロウはそれを指で挟んだ。錆が指の腹についた。釘はすぐには抜けなかった。


ロウは左右にねじった。木が小さく鳴いた。


ロウは動きを止めた。巡回の足音を聞いた。まだ遠かった。


もう一度ねじった。釘が抜けた。


釘は短く、先が曲がっていた。だが、板の継ぎ目には入る太さだった。


ロウは自分の場所に戻った。踵の下のあの板。


巡回の足音がじゅうぶん遠いことを確かめた。それから、釘を継ぎ目に差し込んだ。


板ははじめ動かなかった。


ロウは力を一点にためた。指の付け根が白くなった。男が親指で押した、その場所だった。


板が上がった。


指の幅ひとつぶん。


下から風が来た。土の底の冷たさだった。


そして、匂いがあった。


灰汁と、腐ったものと、水。



夜の買い手の匂いだった。



ロウはしばらく動かなかった。


同じ匂いだった。男は水のそばへ帰った。その水は、檻のすぐ下にあった。


ロウは板をそっと戻した。


ただ、道はあった。そして、その道は買い手の帰り道でもあった。


ロウはその板の上に座り直した。


踵の下で、水が低く鳴っていた。


外は下にあった。

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