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第22話 印を汚す

水路の枝の奥で、三人は身体を温めた。


濡れた布は、外せるところは外した。台帳から裂いた頁は、キールが胸の前で乾かしていた。


ロウは、ニナの手を、まだ握っていた。


夕方になっていた。


水位は、少しずつ引いていた。


ロウは、水路の壁に背を当てて、考えていた。


このまま、夜まで待つ。


夜になったら、また隠れ場所を探す。


明日も、水が来る。


足音も来る。


明後日も。


その先も。


ロウは、自分の手を見た。


水で皺んでいた。


この手は、ニナを引き上げた手だった。


今日は、間に合った。


明日は、間に合わないかもしれなかった。


明後日は、もっと、分からなかった。


ロウは、手を握り直した。


逃げ続けるだけでは、いつか、間に合わなくなる。


その時、キールが、頁を一枚、ロウのほうへ差し出した。


濡れていた。


文字が、半分崩れていた。


「読める」


キールは、それだけ言った。


ロウは、頁を覗いた。


文字は読めなかった。


だが、印は読めた。


三本線の目。


その下に、別の印もあった。


商会の鳥が、半分だけ残っていた。


キールの指が、印の下を押さえた。


「荷札」


指が、半分だけ残った鳥の印へ移った。


「控え」


それから、崩れた文字の列をなぞった。


「明日の夜明け前。荷門。一台」


キールは、そこで少し息を止めた。


「夜の買い手の荷だ」


「中に、子供が入る」


ロウは、キールを見た。


キールは、ロウを見ていなかった。


頁を見ていた。


「ニナと、同じ印の子だ」


キールの声は、低かった。


ニナの手が、ロウの腕の上で止まった。


ロウは、頁を、もう一度見た。


三本線の目。


商会の鳥。


その横に、小さな数字。


四桁の番号。


それだけは、ロウにも分かった。


ロウの知らない番号だった。


知らない番号の下に、知っている印があった。


赤い印だった。


ロウは、頁から目を上げた。


キールは、まだ頁を見ていた。


ロウは、手を、頁の上には置かなかった。


ただ、考えていた。


逃げ続けるだけでは、間に合わなくなる。


明日の夜明け前に、その荷は門を出る。


出れば、子供は門の外で消える。


ロウたちは、その荷を、止めなくてはいけない。


止めるためには、何を、やればいい。


ロウは、廃材置き場のあの朝のことを、考えなかった。


考える前に、手が、動いていた。


毛を落とした手だった。


足跡を重ねた足だった。


どちらも、覚えていた。


読む者の目を、一歩だけ外す。


それだけで、追手の足は、別の方角へ動いた。


ロウは、その手で、今度は、荷札に触れる。


「キール」


ロウは言った。


「どこを汚せば、止まる」


キールは、ロウを見た。


しばらく、見ていた。


それから、頷いた。


「読めるなら、分かる」


ロウは、ニナの手を、ゆっくり、自分の腕から外した。


外す前に、ニナの指を、一度握った。


ニナの指も、ロウの指を、一度握り返した。


それから、放した。


「ここで、待て」


ロウは言った。


ニナは、頷いた。


頷いたあと、もう一度、キールの袖の端をつかんだ。


キールは、頁を、布で包み直した。


水を切って、胸の中に入れた。


二人は、水路の枝の奥を出た。


夕方の街は、まだ動いていた。


商人たちが、店を閉める準備をしていた。荷を積む音がしていた。鎖の音もしていた。


ロウとキールは、商会通りの裏へ回った。


そこに、小さな取引場があった。


塀で囲まれていた。中に、卓が一つあった。


その卓の上に、紙と、印章と、荷札が並んでいた。


人は、二人いた。


一人は、商会の控え係だった。座って、紙を見ていた。


もう一人は、夜の買い手の手の者だった。立って、荷札を確かめていた。


そして、三人目がいた。


塀の隅に、男が立っていた。


外套を着ていた。背丈は、目立たなかった。


ザハルだった。


ロウは、キールの袖を引いた。


二人は、塀の影に身体を寄せた。


ザハルは、取引場の中を見ていなかった。


外を見ていた。


夜の買い手の荷ではない。


別の足音を待っている目だった。


ロウは、それを覚えた。


ロウは、それを今は見なかった。


今日は、印と荷札だった。


ロウは、塀の隙間から、取引場の中を見た。


控え係が、立ち上がった。卓から離れ、塀の隅へ歩いた。


紙から目が離れた。


夜の買い手の手の者は、まだ、荷札を見ていた。


「行く」


ロウは、キールに小さく言った。


ロウは、塀の低いところを越えた。


足音は立てなかった。


あの朝、別の子供の足跡へ足を置いた時と、同じ動きだった。


ロウは、卓の下に入った。


卓の下から、印章を一つ取った。


商会の控えの印章だった。


ロウは、印章の縁を、爪の先で軽く削った。


削った跡は、小さかった。


紙に押せば、印の縁が欠ける。


欠けた印は、目を止める。


一拍あればいい。


ロウは、印章を元の場所に戻した。


それから、荷札を、見た。


夜の買い手の手の者が、卓の端で、荷札を確かめていた。


ロウは、卓の下の影から、キールに合図を出した。


キールは、塀の影で、頷いた。


キールが、塀の外で短く咳をした。


夜の買い手の手の者が、咳の方を見た。


その間に、ロウは、卓の上の荷札を一枚動かした。


四桁の番号の荷札だった。


その隣に、別の荷札があった。


入れ替えれば、すぐにばれる。


だから、ずらす。


一枚は右へ。


一枚は左へ。


紐の結び目が、別の番号の上に乗った。


夜の買い手の手の者が、咳のほうから目を戻した時、荷札は、見た目では、さっきと同じ場所にあった。


だが、紐の結び目が、別の番号の上にあった。


それだけだった。


ロウは、卓の下から、後ろへ下がった。


下がりながら、もう一つ、見た。


出発時刻を書いた、小さな札があった。


ロウは、その札に、爪の腹で、横向きに線を一本引いた。


線は、薄かった。


だが、墨が、その線に沿って、滲んだ。


数字の端が、別の数字に見えた。


ロウは、塀の下の隙間から、外に出た。


キールが、塀の影で待っていた。


二人は、すぐには動かなかった。


塀の隅のザハルが、まだ立っていた。


ザハルは、ロウとキールの方を、見なかった。


ザハルの目は、別の方角を見ていた。


塀の外の通りで、別の足音がした。


商会の検めの男たちの足音だった。


その足音は、取引場のほうへは向かわなかった。


別の方向へ、行った。


ザハルは、その足音を、見送っていた。


ザハルの仕事は、別の場所にあった。


ロウは、キールの袖を引いた。


二人は、塀の影から、ゆっくり離れた。


水路の枝の奥に戻った時、ニナは、まだ、待っていた。


ニナは、ロウとキールを見た。


二人とも、頷かなかった。


ただ、ロウは、ニナの手の前に、自分の手を出した。


ニナは、その手を、両手で握った。


ロウの爪の間には、印章の削りかすが残っていた。


ニナは、それを、握ったまま、何も言わなかった。


ロウは、その指を、覚えていた。


あの朝、毛を抜いた指だった。


今日は、印章の縁を削った指だった。


ロウは、自分が子供を救ったとは思わなかった。


手がやったのは、商売を一つ詰まらせたことだった。


その荷に子供が乗らないのは、ただの結果だった。


その子供の顔を、ロウは探さなかった。


名前も、探さなかった。


見れば覚える。


覚えれば、また数えなくてはいけない。


ロウは、ニナの手を、もう一度握り返した。


外では、夜が来ていた。


夜の買い手の荷は、まだ門の前で動いていた。


印章を押す音がしていた。荷札を確かめる音もしていた。


その音は、いつもより、少しだけ長かった。


印の縁。


荷札の紐。


出発時刻の滲み。


どれか一つでよかった。


ロウは、塀の中の音を、聞いていた。


音は、まだ続いていた。


夜の買い手の手の者の声が、上がった。


「これは違う」


それだけだった。


それだけで、十分だった。


ロウは、ニナの手を、もう一度握った。


キールは、胸の前で、台帳から裂いた頁を、握り直した。


印は汚した。


荷札は、ずれた。


残るのは、門だけだった。



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