第23話 門の外の泥
夜は、まだ深かった。
ロウとキールが水路の枝の奥に戻ってから、ニナは、ずっと起きていた。
「これは違う」 の声を、三人は聞いた。
そのあと、いつもより長い印章の音と、確かめ直す荷札の音が続いた。
それから、別の声が上がった。
「番号がずれている」
「時刻も、滲んでいる」
検めの男たちの声だった。
その声が、商会の控え係を呼んだ。
控え係の声は、そこで一度止まった。
印の縁に、気づいた音だった。
塀の中で、声が増えた。
夜の買い手の手の者の声。
商会の控え係の声。
検めの男たちの声。
三つの声が、ぶつかった。
誰も、同じ紙を見ていなかった。
ロウは、その声を、聞いていた。
聞きながら、立ち上がった。
「動く」
ロウは言った。
ニナは、頷いた。
頷いたあと、キールの袖と、ロウの服の裾を、両方つかんだ。
キールは、胸の前の頁を、布で包み直した。
三人は、水路の枝の奥を出た。
水路の出口は、街の北の縁にあった。
水路に追われて下りた、あの階段ではなかった。
別の階段だった。ヴェラが教えた荷門に近い方の階段だった。
階段の上に出ると、空は、まだ暗かった。
夜明け前の、一番暗い時間だった。
ロウは、空の色を覚えた。
ヴェラの言葉が、頭の中にあった。
朝は、夜の荷が出る時。
検めは、十息のあいだ、目を切る。
十息の目切れ。
今夜は、そこに欠けた印があった。
ずれた荷札があった。
滲んだ時刻があった。
目は、三つに縫いつけられる。
ロウは、その間を通る。
荷門は、商館街の東の縁にあった。
三人は、荷門へ向かって歩いた。
走らなかった。走れば、足音が立つ。
歩いた。
通りは、いつもより暗かった。商人たちは、もう寝ていた。荷を積む夜の手だけが、ところどころで動いていた。
荷門に近づくと、声が大きくなった。
人が、多かった。
荷車が、五台、門の前で詰まっていた。
その先に、夜の買い手の荷車があった。
検めの男たちは、荷車を見ていた。
商会の控え係は、紙を見ていた。
夜の買い手の手の者は、控え係の口を見ていた。
誰も、門の下を見ていなかった。
ロウは、荷門の壁の影に身体を寄せた。
キールも、ニナも、続いた。
ロウは、門の隙間を見た。
横向きの隙間が、門の下にあった。
夜、ガロが鎖を引いていた、あの隙間だった。
ガロの手の傷が、留め金の上に、まだあるはずだった。
ロウは、そこを見なかった。
今夜使うのは、鎖ではない。
欠けた印だった。
「行く」
ロウは言った。
三人は、荷車の影に入った。
詰まった荷車の間を、低い姿勢で、抜けた。
ロウが先。キールが続いた。ニナは、ロウの服の裾を握ったまま、最後についた。
荷車の間の地面は、泥だった。荷から滴った水と、馬の小便と、踏み固められた土が、混じっていた。
ロウの足の裏に、泥がついた。
ニナの足にも、ついた。
キールの足にも、ついた。
三人とも、足跡を残した。
ロウは、それを見た。
消す時間はなかった。
足跡は、検めの男たちが落ち着いてから読まれる。
その時には、門の外にいる。
そうしなければならなかった。
荷車の最後の影を抜けた時、門の隙間が、すぐ目の前にあった。
検めの男たちは、まだ夜の買い手の荷車を囲んでいた。
声が、もう一段上がった。
「これは、別の番号だ」
商会の控え係の声だった。
夜の買い手の手の者が、何かを言い返した。
検めの男たちが、両方を見た。
その瞬間、検めの男の目は、ロウたちを見ていなかった。
ロウは、ニナを先に通した。
ニナの身体は、小さかった。隙間の下を、楽に抜けた。
次にキールを通した。
キールは、台帳から裂いた頁を、胸の前に抱えていた。隙間を抜ける時、頁が一枚、布から滑った。
ロウが、それを拾った。
水路で濡れて、今は乾いている頁だった。
ロウは、その頁を腰の布の折り目に入れた。
胸の頁ではない。
銭の場所でもない。
返せないものを入れる場所だった。
最後に、ロウが隙間を抜けた。
頭を下げ、肩を縮め、腹を地面につけて、滑った。
門の隙間の下は、湿っていた。
腹の下に、泥が貼りついた。
抜けた。
三人は、門の外に立った。
外の地面も、泥だった。
夜明け前の空気が、内側より、少し冷たかった。
風が、外から、中へ向かって吹いていた。
その風には、荷車の油の匂いと、濡れた泥の匂いが混じっていた。
ロウは、深く息を吸わなかった。
深く吸えば、外の匂いを覚えてしまう。
覚えれば、足が止まる。
ロウたちは、長くここに立っていられなかった。
商会の声が、また上がった。
「子供が、足りない」
控え係の声だった。
足りないのは、荷の中ではなかった。
紙の上だった。
夜の買い手の手の者が、荷車の幌をめくった。
中に、子供はいた。
だが、その子の番号は、別の荷の控えに書かれていた。
赤い印の子が、どの荷に乗るはずだったのか、誰もすぐには言えなかった。
商会の控え係も、夜の買い手の手の者も、互いを責め始めた。
その間、別の荷車は、検めを終えて、門を出始めた。
幌の中は、見えなかった。
子供がいるかどうか、分からない。
ロウは、その荷車を見送った。
荷車は、門を通って、外へ出た。
ロウたちと、同じ方角だった。
少し先で、荷車は、別の道へ折れた。
ロウたちは、荷車とは別の方向へ歩いた。
街の壁が、後ろで遠くなった。
少し歩いてから、ロウは振り返らなかった。
振り返れば、門の灯りが見える。見えれば、戻れる気がしてしまう。
ロウは、振り返らずに歩いた。
その時、後ろから、子供の泣き声が風に乗った。
ロウは止まらなかった。
止まれなかった。
止まれば、ニナの足も、キールの足も、止まる。
止まれば、商会の声と、検めの足音が、追いついてくる。
ロウは、歩き続けた。
ニナの手は、ロウの裾を、まだ握っていた。
キールは、胸の前の頁を、もう一度抱え直した。
ロウは、自分の胸に手を当てた。
頁があった。
濡れていなかった。
黒い抹消印。
赤い処分印。
どちらも、布の奥にあった。
その頁を、ロウは、檻の中の机から、盗んだ。
あの夜、ロウは、逃げる鼠だった。
今夜、ロウの手には、削りかすが残っていた。
腰には、拾った頁があった。
逃げただけではなかった。
門を越えるために、汚した。
三人は、街の壁から離れていった。
夜明けの最初の光が、地平線の縁を、薄く染め始めていた。
その光は、街の方ではなく、外の方から、来ていた。
ロウは、その光を、まだ見なかった。
ロウは、足元の泥を見ていた。
足の裏に、他人の泥がついていた。
取引場の泥。
荷車の泥。
門の下の泥。
自分の足跡を消すために、選んだ泥だった。
ロウは、その泥を拭わなかった。
拭えば、自分の足跡が戻る。
他人の泥のまま、歩いた。
門の外の風には、荷車の油と濡れた泥が混じっていた。
少し遅れて、子供の泣き声が来た。
ロウは振り返らなかった。
胸の頁だけが、まだ濡れていなかった。




