第20話 熊の手
夜になってから、ロウは廃材置き場を出た。
ニナの手が、ロウの服を一度つかんだ。
それから、ゆっくり放した。
「夜だ」
ロウは言った。
「明ける前に戻る」
キールは、台帳を抱え直しただけだった。
ニナは、頷かなかった。
ただ、ロウの背中を、長く見ていた。
ロウは、振り返らずに歩いた。
鉄門は、街の東にあった。
ロウは、これまで近づいたことがなかった。
ヴェラに教えられた通り、北側の壁沿いに歩いた。
鉄の匂いが、近づくほど強くなった。
油の匂いも混じっていた。古い荷車の下で嗅いだ匂いだった。
夜だったが、鉄門の周辺は、まだ動いていた。
荷を出す音がしていた。鎖を引く音がしていた。
夜に動く荷は、夜に運ぶ手がいる。
昼の検めを避ける荷だった。
ロウは、影に身体を寄せた。
鉄門は、見上げるほど高かった。
鉄格子が、太い梁を組んでいた。
下の方に、横向きの隙間があった。荷を通すための隙間だった。
その隙間の脇に、鎖が一つあった。
留め金で、鉄門の柱に繋がれていた。
鎖を引けば、隙間の戸が上がった。
鎖を放せば、戸が落ちた。
ロウは、塀の影から、その留め金を見た。
新しい傷があった。
爪のような筋が三つ。
それから、押し付けた指の跡。
人間の手ではなかった。
ロウは、その形を知っていた。
ガロの手だ。
ロウは、塀の影から動かなかった。
しばらくして、鉄門の脇から、人影が出てきた。
背が大きかった。肩幅も広かった。
だが、子供だった。
大人の半獣たちも、別の柱で、別の鎖を引いていた。
鎖は、大人が嫌がる重さの仕事だった。
その人影は、鎖の方へ歩いてきた。
ロウは、息を浅くした。
人影が、留め金の前で止まった。
両手で、鎖を握った。
ロウは、その手を見た。
留め金についた傷と、同じ形の手だった。
ガロは、鎖を引いた。
鎖は重かった。重さで、ガロの肩が一度沈んだ。
ロウは、塀の影から、その動きを見ていた。
ガロが、鎖を引き終わった。
それから、手を、留め金の上に置いた。
しばらく、そのままだった。
ガロは、ゆっくり、振り向いた。
ロウのいる塀の方を見た。
ロウは、隠れなかった。
塀の影から、半歩、出た。
ガロが、ロウを見た。
ロウも、ガロを見た。
二人とも、何も言わなかった。
檻の中で見た顔より、頬が落ちていた。
目の下に、夜の色が残っていた。
それでも、ガロはロウを見た。
目を逸らさなかった。
ロウは、ガロの口を見ていた。
咳の子の名前は、出なかった。
「散れ」も、出なかった。
ガロは、ロウを見たまま、もう一度、留め金に手を置いた。
そして、鎖を、もう少しだけ、引いた。
鎖がきしむ音がした。
ガロの手の甲に、白い筋が浮いた。鎖を強く握った跡だった。
その時、近くで音がした。
小さな、子供の咳だった。
湿っていた。
鉄門の向こうの、荷置き場の方から聞こえてきた。
ガロの手が、止まった。
留め金の上で、止まった。
ガロは、咳の方を見なかった。
ロウも見なかった。
二人とも、止まった手を見ていた。
咳は、しばらく続いた。
それから、止まった。
ガロの手は、まだ留め金の上にあった。
ガロは、ゆっくり、手を留め金から外した。
外した手を、自分の腰の布で一度こすった。
白い筋が、布の下に消えた。
ロウは、何か言いたかった。
口を、半分開いた。
「穴に——」
声が、そこで止まった。
ガロは、その声を聞いた。
だが、止まらなかった。
ロウから目を離した。
そして、来た方向へ、歩き始めた。
ロウは、ガロの背中を見ていた。
呼ばなかった。
ガロも、振り返らなかった。
ガロの肩は、檻にいた頃より、少しだけ前に出ていた。
何かを庇うような肩だった。
ガロが、鉄門の脇の暗がりに入った。
それから、見えなくなった。
ロウは、塀の影に戻った。
しばらく、動かなかった。
鉄の匂いが、まだ残っていた。
油の匂いも、残っていた。
留め金の傷も、そこにあった。
ロウは、その傷に近づいた。
触れなかった。
爪の筋が三つ。
押し付けた指の跡。
目で覚えた。
咳の子の名前は出なかった。
水路の話も出なかった。
出なかったものだけが、ロウの中に残った。
ガロが言わなかったものを、ロウは数えなかった。
数えれば、責められた方が軽かったと、分かる。
ロウは、留め金の前から離れた。
歩き出すとき、足が少し重かった。
鉄門の北側の通りには、ロウのほかに、もう誰もいなかった。
ガロは、振り返らなかった。
ロウも、呼ばなかった。
鉄を握った手の白さだけが、暗がりに残っていた。




