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第19話 椀のない席

朝、ロウは廃材置き場を出た。


キールとニナは、別の崩れた小屋の影に置いた。


「動くな」


それだけ言った。


ニナは、ロウの服を一度つかみ、放した。


キールは、台帳を抱え直しただけだった。


ロウは、一人で歩いた。


歩き方は、昨日と同じだった。


違うのは、目的だった。


道は、作れると知った。


だが、道の先にある門は、自分では読めなかった。


門がいつ緩むのか。


荷がどこを通るのか。


ザハルの契約が、いつ切れるのか。


ロウには、どれも読めなかった。


それを知っている者を、ロウは探さなければならなかった。


しかし、ロウには、街の地図がなかった。


ロウは、自分が街で歩いた場所を、頭の中で並べた。


市場の縁。商会通り。水路の縁。橋の下。廃材置き場。


獣人街は、どれにも入っていなかった。


ロウは、覚えていた話を一つだけ思い出した。


数日前、路地裏で、子供たちの一人が言った。


「狼のような匂いがする店が、商館街の裏にあるって」


その時、ロウは話の続きを聞かなかった。


聞けば、覚えてしまう。覚えれば、行きたくなる。


ロウは、行きたくなかった。


今日は、違った。


今日は、その匂いの場所が、必要だった。


ロウは、商館街の方へ歩いた。


商館街の表は、印が並んでいた。商会の鳥。教会の鍵。三本線の目。


ロウは、印のない裏道を選んで、商館街の裏へ回った。


塀が低くなった。


地面が、石畳から、踏み固めた土に変わった。


匂いが、変わった。


獣人街の入り口だった。


ロウは、初めて、その場所に立った。


塀の向こうに、屋台があった。湯気が上がっていた。匙が皿に当たる音もあった。


湯気には、肉と脂と濡れた毛の匂いが混じっていた。


人が歩いていた。


ロウより、大きかった。


大人ばかりだった。子供の足音はなかった。


ロウは、塀の影に身体を寄せた。


獣人街は、商会の檻の中で、何度か名前を聞いた場所だった。


だが、ロウは、入ったことがなかった。


檻の鼠たちは、商会が連れてきた子供だった。


獣人街から来た子供ではなかった。


道が違った。


ロウは、入り口の塀の影で、息を整えた。


自分の匂いは、隠せなかった。


鼠の匂いは、走ったあとの汗と混じって、消えていなかった。


ここでは、匂いも顔の一部だった。


それでも、ロウは塀から出た。


入り口の脇に、立っている者がいた。


塀にもたれていた。腰を落としていた。寝ているように見えた。


ロウが二十歩離れた時、その者の鼻が、一度動いた。


それから、目だけが開いた。


「来たのか」


ヴェラだった。


ロウは、足を止めた。


ヴェラは、目を細めた。


「お前の匂いは、半日前から流れていた」


ヴェラは、立ち上がった。背は、ロウの倍あった。


「中に入るか」


ロウは、頷いた。


ロウの後ろを、ヴェラが見た。


「二人は」


「置いてきた」


ヴェラは、それ以上聞かなかった。


ヴェラに続いて、ロウは塀をくぐった。


通りは、狭かった。半獣の大人が、両側の屋台で食事をしていた。


ロウが入ると、屋台の半獣たちが、顔を上げた。


その目は、先にロウを見た。


次に、ヴェラを見た。


匙の音が、少し静かになった。


誰も、止めなかった。ただ、見ていた。


ヴェラは、その視線の中を歩いた。


歩幅は、変わらなかった。


ヴェラの背中を、ロウは見ていた。


ヴェラは、この街の獣人街を、知っていた。歩き方で分かった。


ロウは、知らなかった。歩幅が、ヴェラの後ろで、少しずれた。


ヴェラは、振り返らなかった。


ただ、自分の歩幅を、少し短くした。


ロウの歩幅に、合わせていた。


食事場は、通りの奥にあった。


小さかった。


木の卓が三つ。匙と椀が、卓の上に並んでいた。


湯気が、天井の梁の下で揺れていた。


ヴェラが入ると、店の奥にいた老半獣が、顔を上げた。


老半獣は、ヴェラを長く見た。


それから、ヴェラの後ろのロウを見た。


ロウの耳が、髪の下にあった。


老半獣は、何も言わなかった。


ただ、奥の卓ではなく、入り口に近い卓を、顎で示した。


ヴェラは、そこに座った。


ロウは、ヴェラの向かい側に座った。


少し離れた卓で、半獣の男が二人、食事をしていた。


ロウたちが座った時、男たちの一人が、鼻を鳴らした。


ヴェラは、顔を動かさなかった。


老半獣が、卓に椀を二つ運んできた。


一つは、ロウの前に置かれた。


もう一つは、卓の縁に置かれた。


ヴェラの前ではなかった。


「何が要る」


ヴェラの声は、低かった。


「門」


ロウは言った。


ヴェラは黙っていた。


「開く時。検め。荷の癖」


少し遅れて、ロウは続けた。


「ザハル」


ヴェラの指が、卓の上で止まった。


それから、指で、卓の上に丸を一つ描いた。


「荷門は、朝と夕方に緩む」


指が、丸の縁を二度叩いた。


「朝は、夜の荷が出る時。夕方は、入る時」


指が止まった。


「十息だけ、目が切れる」


ロウは、覚えた。


「夜の買い手の荷は、近く出る」


ヴェラの指が、短く動いた。


「三本線の目が、荷札に押される」


「出る門は」


「まだ決まっていない」


ヴェラは、指を止めた。


「あの男の契約は長くない」


ヴェラは言った。


「だが、切れるまでは外れない」


「切れる前に、門を越えろ」


ロウは、自分の椀の中の湯を、一口飲んだ。


熱かった。


ロウには、情報を買う銭がなかった。


差し出せる名もなかった。


戸籍もなかった。


それでも、ヴェラは話した。


ヴェラは、ロウを見ていなかった。


塀の外を見ていた。


「群れから出れば、誰でも商品だ」


ヴェラは、低く言った。


「狼でも」


ヴェラの指が、反対の手の甲の古い傷を、一度なぞった。


それ以上は、言わなかった。


ロウは、何も返せなかった。


塀の外で、足音がした。


軽い足音だった。鳥のような重さの足音だった。


ヴェラの耳が、一度動いた。


塀の上の隙間に、影が一つ揺れた。


「三人で門は抜けない」


声は、若かった。


「一人は、置け」


ロウは、その声を、覚えていた。


ジグだった。


影は、塀の上から消えた。


ヴェラは、何も言わなかった。


ロウも、何も言わなかった。


ロウは、椀の湯をもう一口飲んだ。


三人。


一人。


湯は、ぬるくなっていた。


食事場を出る前に、ヴェラは、もう一つだけ言った。


「鉄門の北側に、鎖が一つある」


「留め金に、新しい傷があった」


ロウは、ヴェラを見た。


ヴェラは、ロウの目を見なかった。


「大きな手の傷だ」


「鉄門は、押さえる側もいる」


ロウは、卓を立つ前に、ヴェラの椀の位置を、もう一度見た。


ヴェラの椀は、卓の縁にあった。


ヴェラの前には、まだ置かれていなかった。


最後まで、誰も、その椀をヴェラの前に動かさなかった。


ロウは、何も言わなかった。


外に出てから、ロウは振り返った。


塀の上に、影はもうなかった。


ヴェラは、食事場の入り口で、立ち止まっていた。


ロウについては、来なかった。


ヴェラの場所は、そこだった。


ヴェラは、ロウのほうへ、顔を向けた。


ただ、向けただけだった。


ロウは、商館街の方へ歩いた。


歩きながら、何も数えなかった。


ヴェラの顔の向きを、ロウは、覚えていた。

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