第12話 昼の通り
水が、下がりはじめていた。
脛まで来ていた水は、足首へ戻った。それから、踵だけを濡らす高さになった。
腹が鳴った。
さっきとは違う音だった。中身がない音だった。
ロウは石段の脇から、初めて顔を出した。日が高かった。雲が薄くなっていた。
通りはもう、朝の足音ではなくなっていた。荷を引く音はやんでいた。代わりに、売り買いの声があった。
ロウは石段を上がった。
鼠は、石段の上を通らない。それでも、ロウは上がった。腹が中身を欲しがっていた。脇を通っても、食えるものはなかった。
通りの端に出た。
人の足の高さに、ロウは肩を縮めた。耳を髪の下に押し込んだ。尻尾を腰の布の中に巻き込んだ。
それでも、ロウの服が違った。乾いた泥がついていた。裂け目があった。袖の長さが合っていなかった。
ロウは壁に身体を寄せて、人の流れを見た。
子供が一人、籠を抱えて歩いていた。ロウより少しだけ背が高かった。
その子は、店先で足を止めた。店主と何か言葉を交わした。
店主は、その子を見ても顔を上げなかった。
子供は籠の中のものを渡し、銭を受け取り、また歩きだした。
歩幅が違った。
肩が違った。目の上げ方が違った。地面を見ていなかった。
その子は、見られても、足を止めなかった。
ロウは、その歩き方を覚えた。
肩を開く。目を上げる。足を止めない。耳を伏せたまま、足だけ堂々と動かす。
ロウは壁から離れた。
一軒目の店の前を通った。
店主は鍋を磨いていた。顔を上げなかった。
ロウは足を止めなかった。
二軒目の店の前を通った。
店主は客と話していた。顔を上げなかった。
ロウは足を止めなかった。
歩き方で、少しだけ隠せる。
ロウは、そう思った。
三軒目の店の前に、磨かれた金具があった。
吊り下げられた銅の鍋だった。光っていた。
ロウは、そこに映った。
半獣の耳が、髪の下から出ていた。尻尾の毛先が、布の端から出ていた。袖は短く、肩は狭く、目は怯えていた。
さっきの子供は、こんな顔をしていなかった。
ロウの足が、一瞬止まった。
「おい」
声が、後ろから来た。
ロウは振り返らなかった。走った。
足音は読めなかった。
街の音は、追手の足音も、客の足音も、馬の蹄も、子供の声も、一つに重なっていた。
ロウは、ただ細い場所を選んだ。
二人並べない路地に入った。一人でも肩を擦る隙間に入った。最後は、籠と籠のあいだに身体を押し込んだ。
そこまで来ると、後ろの足音は止まった。大きな身体は、そこまで入れなかった。
ロウは息をひそめた。
逃げ切ったのではなかった。
ただ、ロウが小さかった。それだけだった。
◇
路地の奥は、別の街だった。
通りには店があり、人がいた。ここには、店がなかった。人もまばらだった。
代わりに、子供がいた。
物乞いの子。籠を背負って走る子。腐った野菜を漁る子。
下水の蓋を持ち上げ、下から何かを取り出す子。
みな、痩せていた。みな、耳か、尻尾か、爪か、何かが獣だった。
誰も、ロウを見て驚かなかった。誰も、ロウを呼び止めなかった。
ロウもまた、誰も呼ばなかった。
ここは、ロウが入っても咎められない場所だった。咎める者がいなかったからだ。
子供たちは、表の通りへ出ていかなかった。
出れば、並ぶ。並べば、違いが見える。違いが見えれば、連れていかれる。
ロウは、その路地の奥で、初めて昼の中に立っていた。
昼の光は、表の通りより薄かった。建物の影が、ずっと長かった。
それでも、屋根はなかった。
路地の先に、街の門が見えた。
門は二つあった。一つは、馬車と荷の出入りに使われる大きな門だった。もう一つは、人が一人ずつ通る小さな門だった。
どちらも、役人が立っていた。
ロウは、籠の陰にしゃがんで、門を見た。
人が一人ずつ、小さな門を通っていた。
役人は、通る者の腰や袖を見た。木札を見せる者は、すぐ通された。紙を出す者は、少し読まれてから通された。何も出せない者は、横の柵に寄せられた。
横の柵に寄せられた者は、しばらくして、腕章をつけた二人に挟まれて、別の方へ連れていかれた。
ロウは、その別の方を見なかった。見なくても分かった。
籠を持った子供が、小さな門を通っていった。
腰の木札が鳴った。
役人は顔を上げなかった。子供は足を止めなかった。
ロウと同じ背丈だった。
腹は、もう鳴らなくなっていた。
中身のない腹は、ある時から黙る。ロウは、それを知っていた。
ロウは籠の陰から立ち上がらなかった。
立ち上がっても、行く先は二つしかなかった。表の通りに戻るか、路地の奥に戻るか。
どちらにも、ロウの探すものはなかった。
門の向こうには、道があった。だが、その道へ出るには、木札か、紙か、印が要った。
ロウには、どれもなかった。
ロウは胸に手を入れた。
頁があった。濡れていない。
頁には、印があった。黒い印と、赤い印。
どちらも、門を通すための印ではなかった。
それでも、ロウは頁を確かめた。手の癖だった。
頁を、胸に戻した。
街のどこかに、キールがいるはずだった。台帳を抱えて、ニナを連れて。
台帳には、たくさんの番号が並んでいた。印も並んでいた。
キールは、それを読める。
門でも、番号と印が見られていた。ロウには、その形しか分からなかった。
だが、形が同じものなら、どこかでつながっている。
そこまで考えて、ロウは止めた。
考えても、キールがどこにいるのか、ロウには分からなかった。
ただ、ロウは決めた。
食えるものを探す前に、キールを探す。
腹は、もう鳴らなくなっていた。だから、それができた。
門は、戸籍のある子供を通した。
ロウに読めない台帳だけが、この街のどこかに残っていた。




