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第五章 甘い帝国

 二年目の春、ダールに、五十年ぶりの産声うぶごえが上がった。


 祖父母の代に村を出た、出戻りの若夫婦に生まれた男の子で、村中が寄ってたかって世話を焼いた。産着は蜜蝋で撥水を施した上物、産湯には魔蜜がひと匙。ドム爺は「儂はもう、いつ死んでもええ」と言って、それから五年は元気に生きることになる。


 村は、もう骨ではなかった。

 人の数は六十を超えた。蜜の噂を聞いて流れてきた者、蜜の里の血を引く出戻り、そして「殺人蜂の領主が人を集めている」と聞いて、半信半疑で山を越えてきた食い詰め者たち。源蔵は来る者を拒まず、ただ、最初にひとつだけ約束させた。


「蜂に手を上げるな。困ったら、燻煙器を持って俺を呼べ。それだけ守りゃ、ここはあんたの村だ」


 その約束が本物かどうか、新参者は皆、最初の七日で思い知ることになる。

 北の戦役で亭主を亡くし、幼い娘とふたりで流れてきたリタも、そうだった。着いた初日、井戸端で水を汲んでいると、背後の生け垣に、怯えた目には荷馬ほどにも見える魔蜂が、のそりと降りた。リタは悲鳴を呑み、娘を抱えてへたり込んだ。

 蜂は、きょとんと触角を揺らし——生け垣の花を三つ吟味して、いちばん大きいのに長い舌を差し入れ、蜜を吸って、飛んでいった。それだけだった。

 三日目には、悲鳴が出なくなった。七日目には、洗濯物の横を蜂が抜けても手が止まらなくなった。ひと月目の朝、リタは自分でも驚くことをした。納屋に迷い込んで出られなくなった若蜂を、箒でそっと窓へ導いてやったのである。


「……あんた、案外、不器用ねえ」


 窓から飛び去る蜂を見送って、リタは呟き、それから娘と顔を見合わせて笑った。娘はその頃にはもう、蜂の背中の毛並みを撫で分けて、村の子らと「どの子がいちばん柔らかいか」を言い争う口だった。

 人は、慣れる。恐れというものは、七日分の無事の前には、存外あっけない。


 新しい村人には、養蜂を教えた。燻煙器の使い方、巣塔の建て方、蜜蓋の切り方、そして——蜂の羽音の聞き方。《蜂語》は源蔵だけの技能だが、蜂の機嫌の善し悪しくらいは、耳と目で覚えられる。半年もすると、村の子どもらは魔蜂の背を撫でて登校(といっても寺子屋は源蔵の館の土間だが)するようになり、初めて見る行商人を残らず腰抜けさせた。


 産業は、蜜だけではなくなった。

 蜜蝋である。魔蜂の蜜蝋は、練ると鋼のように粘り、燃やせばすすひとつ出ずに甘く香る。町の蝋燭屋が「聖堂用に」と樽で買い、王都の魔道具師が「魔導灯の芯に最高だ」と倍値をつけ、極めつけは封蝋だった。魔力を帯びた蜜蝋の封は、宛名の者以外が剥がすと文字が消える。貴族の機密文書に、これ以上の品はない。

 花畑は、荒野を南北に貫く金色の帯になった。蕎麦畑は二度の収穫を上げ、蜂の受粉を受けた果樹は、植えて二年で実をつけはじめた。魔蜂の飛ぶ畑は、害虫がつかず、実りが太る。それが知れると、隣領の農夫たちが、こっそり国境の畑に蜜を塗って蜂を「招く」ようになった。


 そして、伝書蜂の網である。

 《群体指揮》で編んだ若い蜂の小隊が、村と、南の毒草園と、街道の町とを、朝夕二便で結ぶ。文を結んだ蜂は、嵐でも迷わず、鷹より速い。バルタの商会(彼はいつの間にか行商人から「ダール交易商会頭取」になっていた)は、この蜂便で相場を先読みし、荷を運ぶ前に売り先を決めた。


「旦那ぁ、王都の連中、なんて言ってるか知ってますかい」


 秋の勘定の日、バルタは酒臭い息で笑った。


「『蜂蜜男爵』でさ。死刑場のはずのダールに、金の川が流れてるって。王都の高級店じゃ、ダールの白蜜がひと瓶、金貨三枚。それでも入荷した端から消えていく。……へへ、あっしは知ってますぜ。最初の夏、道標の前で馬車ごと後ずさった、あっしだけがね」

「おう。後ずさったくせに真っ先に手金を打った、その礼だ。今年も一割引いてやってるだろうが」

「それを言われると、頭が上がらねえ」


 位階は、日々の暮らしの中で、静かに、途方もなく積み上がっていった。三十万——いや、巣塔が十一基に増えたいまは五十万の家族が、飛び、狩り、醸し、守る。その営みのすべてが、《女王の誓約》を通じて主に還る。

 秋の終わり、祠の鑑定石に触れた源蔵は、数字を見て、無言で祠の扉を閉めた。


――――――――――――――――――――

位階:71

職能:従魔師(等級外・査定不能)

――――――――――――――――――――


「……もう誰にも言うまい」


 言わなくても、鑑定石は正直である。このころ王都の神殿の大鑑定盤に「南東方角、正体不明の高位階反応」が定期的に灯っては消え、観測係を悩ませていたのだが、源蔵がそれを知るのは、ずっと後の話だ。


* * *


 白い竜が墜ちてきたのは、二年目の、初雪の朝だった。


 『そら! そら、みて!』

 『おおきい、しろいの、おちてくる!』


 群れの警報で空を仰いだ源蔵は、目を疑った。北の空から、白い凧のようなものが、ふらつきながら滑空してくる。翼の打ち方が、おかしい。あれは飛んでいるのではない、墜ちるのを引き延ばしているだけだ。

 白い巨体は、村外れの蕎麦の刈り跡に、雪煙を上げて腹から滑り込んだ。

 駆けつけた源蔵は、その姿に、ノエルの記憶ごと凍りついた。


 白飛竜。翼を広げれば納屋ほどもある、雪色の竜。だがその白は、いまは煤け、痩せこけ、翼膜には破れが三つ。そして首に——毛の擦り切れた、深い、輪の形の傷痕。焼きごてを当てられたような、首輪の痕。


「……ブランシュ」


 名を呼ぶと、竜は薄目を開けた。濁った目に、怯えが走る。翼を引きずって逃げようとして、力尽きて、また倒れた。

 アメリア王女の愛竜、ブランシュ。二年前、厩舎の鉄格子を破って逃げ、ノエルの罪にされた、あの竜だった。二年間、人を避け、山から山へ、こんな南の果てまで——。


「大丈夫だ」


 源蔵は、燻煙器も持たず、丸腰で、ゆっくりと竜との間合いを詰めた。《蜂語》は蜂にしか通じない。だが、怯えた生き物への近づき方なら、両の生涯で骨身に染みている。目を合わせすぎない。正面に立たない。風上から、匂いを先に渡す。


「よう。……ひでえ目に、遭ったなあ」


 一晩中、源蔵はブランシュの傍らに座り続けた。夜明け近く、竜の鼻先が、初めて源蔵の袖に触れた。ふ、と嗅いで、竜は喉の奥で、細く、笛のような音を鳴らした。

 ノエルの記憶が疼いた。飼育舎の夜、腹を下した仔グリフォンを看取り続けた、あの匂い。魔獣たちが「安心」を覚えた、飼育係の匂い。二年経っても、身体に染みたその匂いは、消えていなかったのだ。


「……そうか。おまえ、覚えてたのか。この身体の匂いを」


 竜の目から、大粒の涙がこぼれた。竜は泣くのだ。それを知っている人間は、世界にそう多くない。


 治療には、ひと月かかった。

 破れた翼膜には蜜蝋と魔蜜の膏薬。痩せた身体には、魔蜜を溶いた粥。首の傷痕には、メルティナが調合した、月影草の蜜の軟膏——「古い火傷痕に効くわ。……それにしても、これ、ひどい。何度も、何度も焼かれてる」。

 処置をしながら、メルティナは静かに言った。


「ねえ。この竜、王家の紋の焼き印があるわ。……アメリア王女の、逃げた白飛竜。あなたが罪を着せられた、あの竜でしょう」

「ああ」

「王都へ突き出せば、冤罪の生き証拠よ。首輪の痕、鞭の痕、全部残ってる。あなたの汚名はすすげる。爵位だって——」

「そいつは、こいつの傷が治ってからの話だ」


 源蔵は、膏薬を塗る手を止めなかった。


「それにな、先生。こいつの傷を、俺の裁判の道具にはせん。……傷が癒えて、こいつが自分で選ぶなら、そのときは付き合う。選ばんなら、うちの空で好きに飛ばせておく。それだけだ」


 メルティナは、しばらく黙って、軟膏の蓋を閉めた。


「……本当に、変な領主」


 その声が、これまでで一番柔らかかったことに、言った本人は気づいていないようだった。


 治療がひと月に及ぶあいだ、メルティナは三日とあけず、北の村へ通った。

 ある晩、膏薬を替え終えた帰り、彼女は囲炉裏端で、ふと聞いた。


「ねえ。前から不思議だったのだけれど。あなたの言う『うちの坊主』って——誰のこと?」


 薬缶の湯気が、ひと呼吸ぶん、揺れた。

 源蔵は、隠さないことに決めた。この人には、隠したくなかった。

 六十一年の生涯のこと。豪雨の夜と、濁流と、腕の中の羽音の温かさのこと。目覚めたら二十三の若造で、その胸の奥に、悔しい悔しいと燻る熾火が残っていたこと。囲炉裏の火だけを見ながら、ぽつり、ぽつりと話した。

 メルティナは、途中で一度も口を挟まなかった。聞き終えると、長いこと黙って、それから、いつもの調子で言った。


「……道理で。二十三歳の口の利き方じゃないと、最初から思っていたのよ」

「驚かんのか」

「驚いているわよ。腰を抜かすほど。でも」


 彼女は、囲炉裏の火に、薪を一本足した。


「毒が薬になる庭で暮らしているの。魂がひとつ多く宿った身体くらい、いまさらだわ。……それに、六十一年ぶん、あなたの話が増えたということでしょう。研究者として、聞き甲斐があるじゃない」


 それから夜更けまで、彼女は前世の山の話を聞きたがった。小さな黒い蜂が雀蜂を熱で包む話では身を乗り出し、三年前に先立たれた女房の話では、静かに目を伏せた。


「……いい奥様だったのね」

「おう。よく、笑う人だった」

「そう。あなたの周りの人は、よく笑うのね。——昔も、いまも」


 その言い方が、自分をも勘定に入れてのことだと気づいたのは、彼女が帰ったあとだった。


* * *


 ブランシュが再び空を飛んだ日、ダールの空で、ちょっとした騒ぎが起きた。


 『しろいの、とんだ!』

 『はやい! おおきい! ずるい!』

 『きょうそう、きょうそう!』


 物見高い若蜂の一個小隊が、白竜と競争を始めたのだ。翼を治した白竜は、金色の小さな群れを従えて、花畑の帯の上を、面白がって二度、三度と旋回した。地上では村人が総出で空を見上げ、子どもらが歓声を上げた。

 殺人蜂の巣窟と、呪われた白竜。王都の誰かが見たら卒倒しそうな空が、ダールでは、ただの午後だった。


 その「王都の誰か」は、存外早く現れた。もっとも、本人ではなく、手紙の形で。

 春先、バルタの荷に紛れて、上質の封筒がひとつ届いた。差出人の名はなく、封蝋には何の紋もない。ただ、便箋に焚き染められた香が、宮廷の白百合だった。


 【南東の空に白い竜を見た、という商人の噂を聞きました。その竜の首に、古い傷はありますか。左の翼に、三日月形の白斑は。——もしあるのなら、どうか、その仔を大切にしてやってください。その仔は、悪くないのです。何ひとつ、悪くないのです】


 署名はない。だが、ブランシュの翼の白斑を知る人間は、世界にそう多くない。

 源蔵は、返事を書いた。宛先のない手紙は、バルタの手から手へ、来た道を辿って王都へ帰っていった。


 【傷は癒えた。斑も健在。竜は毎日、蜂と競争しては負けて、悔しがって、また飛んでいる。飯は樽で食う。あんたの仔は、いい仔に育ってる。——南の蜂飼いより】


 ひと月後、二通目が来た。


 【ありがとう。ありがとう。ありがとう。……いつか必ず、お礼に伺います。それから——二年前の冬のこと、わたくしは、まだ諦めておりません。あの夜の当直表を、いま、調べています】


 当直表。その一語に、源蔵は手紙を持ったまま、しばらく動かなかった。

 王都に、まだ、諦めの悪い正直者がいる。


「……いるんだなあ、どこにでも。筋の通った奴ってのは」


 源蔵は手紙を蜜蔵の帳面箱に仕舞い、そのことを、メルティナにだけ話した。


 その夕暮れ、源蔵は毒草園の縁台で、メルティナと茶を飲んでいた。竜昏草の畑の上を、名残の蜂が二匹、宿へ帰りそこねて飛んでいる。


「一昨年の秋」


 メルティナが、湯気の向こうで、ぽつりと言った。


「この谷の毒草園に、変な男が蜜壺を提げて詫びに来たとき——私、賭けをしたの。どうせこの男も、ひと月で私を『魔女』と呼ぶほうに」

「負けたな」

「ええ。負けたわ。……全部、負けた」


 彼女は、茶碗を置いた。それから、庭を——毒草と魔蜂が織り合う、世界にひとつの庭を、目を細めて眺めた。


「私の毒草は、誰かを殺すかもしれないから、囲いの中に置くしかなかった。あなたの蜂は、誰かを刺すかもしれないから、崖に閉じこもるしかなかった。……なのに、いまはどう? 私の毒はあなたの蜂の腹で薬になって、あなたの蜂はうちの花で冬を越す。テオは今月も薬を取りに来て、生意気にも私を『師匠』と呼ぶわ」


 メルティナは、源蔵に向き直った。夕陽が、翡翠の目を蜜の色に染めていた。


「あなたの蜂は、私の毒を、薬に変えるのね」

「あんたの花が、うちの蜂を強くしてる。……おあいこだ」

「ええ。おあいこ。……だから、その」


 彼女は、一度言葉を切り、それから、毒草の講釈をするときと同じ、早口で言った。


「帳面の突き合わせ、週二度では研究が滞るの。三度に増やしなさい。いえ、増やしてください。……夕餉も、その、作り置きがあるから、食べていけばいいわ。どうせあなた、囲炉裏で干し肉を炙るだけなんでしょう。栄養が偏ると、いい判断ができなくなるのよ。領主でしょう。責任を持ちなさい」

「……おう」


 源蔵は、湯呑みで口元を隠して、頷いた。

 六十一足す二十三、しめて八十四年分の生涯で、こんな誘われ方は初めてだった。断る理由は、ひとつも思い浮かばなかった。


「世話になる。……先生の飯は、うまいんでな」

「知ってるわ」


 毒草園の上に、一番星が出ていた。


* * *


 異変の報せは、三年目の春に来た。


 その日、王都との街道筋に放っている伝書蜂の定期便が、一便、丸ごと戻らなかった。

 翌朝戻った二番便の蜂たちは、ひどく怯えていた。


 『まちが、こわれてた』

 『けもののにおい。ちのにおい。けむり』

 『おおきいけものが、まちのなかで、あばれてた。いっぱい。いっぱい』


 《蜂目》を凝らす。遠すぎて、映像は切れ切れだ。だが、確かに視えた。王都アルセイドの城壁。その内側に上がる、幾筋もの黒煙。城門から溢れ出す避難民の列。そして瓦礫の上に、見覚えのある巨影——城壁の下に寝床を掘って、ノエルに三晩添い寝された、あの地竜ドルガの、変わり果てた姿。

 地竜の首に、鈍く光る、金属の輪が嵌まっていた。


「……首輪」


 源蔵の背筋に、冷たいものが走った。

 バルタの噂話。従魔の事故。新式の首輪。ブランシュの首の、焼きごての痕。

 全部、つながった。


「山吹」


 源蔵は、静かに、羽音で呼んだ。老女王の応えは、すぐにあった。


 『きこえている、ゲンゾウ』

 『とおくのまちで、けものたちが、ないている』

 『——どうする、むれのおさ』


 源蔵は、北の空を睨んだまま、長いこと、答えなかった。


 【ダール養蜂日誌 七百三十二日目。天気晴れ。花、満開。……北の空が、焦げ臭い】

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