第四章 毒草令嬢
時は少し戻って、雀蜂の騒ぎの翌日である。南の谷を越え、さらに半日。荒野が尽きて、痩せた林が始まるあたりに、その屋敷はあった。
黒ずんだ石造りの古い館。傾いた鉄柵。門柱には、日に晒されて白くなった獣の頭骨が針金で括りつけられ、その下に、風雨に殴られた木の札が下がっている。
【警告。当園の植物はすべて毒物である。立ち入る者、盗む者、命の保証はしない。——園主】
「……愛想のいい門構えだ」
源蔵は蜜壺を提げ直し、門を叩いた。
柵の向こうに広がる庭は、しかし、荒れ屋敷の名にまるで似合わなかった。畝は定規で引いたようにまっすぐ通り、支柱は等間隔、株間は正確、水路には落ち葉ひとつない。紫の釣鐘、白い傘、黒に近いえんじ色の穂——見たこともない花々が、恐ろしく行き届いた手入れで、整然と咲き誇っている。
どの畝の作りにも、土の匂いにも、育て主の性根が出る。これは、本物の育て手の畑だ。
「動かないで」
声は、頭上から降ってきた。
門柱の陰、脚立の上。黒いドレスの裾を括った女が、剪定鋏をこちらへ向けて立っていた。歳の頃は二十代半ば。癖のある黒髪を無造作に束ね、革の前掛けに革手袋。日除けの鍔広帽の下から、猜疑心で研ぎ上げた翡翠色の目が、源蔵を射抜いている。
「三歩下がりなさい。あなたの右足の横のそれは、月影草。露に触れただけで三日は指が動かなくなるわ」
源蔵は、素直に三歩下がった。それから、足元の白い花を、しげしげと眺めた。
「ほう……こいつが月影草か。夜に香りが強くなる型だな。株がよく締まってる。この痩せ土で、よくここまで育てたもんだ」
「……は?」
女の眉が、歪んだ。
「あなた、いま、褒めた? 毒草を?」
「畑を褒めた。こんなに気持ちのいい畑は、久しぶりに見た」
女は脚立の上で、しばらく固まっていた。やがて、警戒を解かぬまま降りてくると、鋏を前掛けに差して、腕を組んだ。
「……で? その恰好、南の谷の向こうの人ね。何の用。私、薬は売らないわよ。毒はもっと売らないけど」
「詫びに来た。うちの蜂が、あんたの畑に無断で入った」
「うちの、蜂?」
女の目が、すう、と細くなった。
「まさかとは思うけれど。ここ最近、私の竜昏草の受粉率を勝手に三倍にしていった、あの馬鹿でかい金色の連中のこと?」
「それだ。ダールの領主で、蜂飼いの、ノエル・クレインという。……源蔵でいい」
「…………」
女は、値踏みするように源蔵を眺め、それから、心底呆れた声で言った。
「『殺人蜂の巣窟』の領主が、殺人蜂を、飼った?」
「飼ったというか、家族になったというか」
「……頭に花でも咲いてるの、あなた」
「咲いてるのは畑だ。うちの領は、いまは花だらけでな」
源蔵は、蜜壺を柵越しに差し出した。
「詫びの品だ。あんたの畑の花の蜜も、混じってるはずだ」
女は受け取らず、壺と源蔵を交互に見た。
「私を誰だか知って言ってる?」
「知らん。名乗られてないんでな」
「……メルティナ・ロズワース。ロズワース伯爵家の、恥さらしの三女。社交界で私の異名を聞かなかった? 『毒草令嬢』。十六の夜会で、隣に座った子爵夫人の顔色ひとつで肝の病を言い当てて、治療法として毒草の煎じ方を延々講釈して差し上げたの。以来、縁談は七回流れて、二十二で家からここへ『転地療養』ですって。四年、迎えは来ないわ」
早口に、まるで先に自分で言ってしまえば傷つかないとでもいうように、女——メルティナは言い切った。
源蔵は、ふむ、と顎を撫でた。
「つまり、あんたは四年、ひとりでこの畑を守ってきたわけだ」
「……そうよ」
「大したもんだ」
メルティナの翡翠の目が、大きく見開かれた。
源蔵は、畝の紫の花を指した。
「で、毒草令嬢の先生よ。ひとつ教えてくれ。あの紫の——竜昏草と言ったか。あの花の蜜を、うちの蜂が巣で醸すと、妙なことになる。舐めると舌が痺れて、そのあと、身体の芯からほどけるように効く。ありゃあ、何だ」
「……効く?」
その一言で、メルティナの顔から、猜疑がすとんと抜け落ちた。代わりに宿ったのは、飢えた研究者の目だった。
「待って。竜昏草の毒は神経毒よ。竜の心臓すら三拍で止める。蜜に移った毒が、『効く』ですって? 量は? 症状は? あなた舐めたの? 正気? ——待って、いま帳面を取ってくる、そこを一歩も動かないで!」
黒いドレスが、屋敷へ駆けていった。
源蔵は、門前に取り残されて、ぽつりと呟いた。
「……変わり者って看板は、あっちのほうがよっぽど似合うな」
* * *
毒草の蜜の謎解きは、それから毎日続いた。
メルティナの仮説はこうだ。魔蜂デスニードルの体内には、魔力を練る「蜜嚢」がある。毒花の蜜がそこを通るとき、毒の質が変わる——殺す毒から、鎮める薬へ。
毒と薬は、匙加減が違うだけの同じもの。それは前世の山の薬売りも、口を揃えて言ったことだ。
「竜昏草の神経毒は、正しく弱めれば、痛み止めとけいれん止めになる。月影草の痺れ毒は、麻酔に。眠り芥子は言わずもがな。——理屈の上では、ずっとわかっていたのよ。でも人の手じゃ、弱め方が安定しない。薄めすぎれば効かない、濃すぎれば死ぬ。だから毒草は毒草のまま、誰にも使えなかった。それを、あなたの蜂は」
メルティナは、白金色に濁る小瓶を、震える手で掲げた。
「腹の中で、勝手に、完璧に仕上げてくる」
「蜂ってのは、几帳面なんだ」
源蔵の相槌を聞き流し、彼女は矢継ぎ早に試験を重ねた。鼠に、病んだ山羊に、最後は自分の腕に。竜昏草の蜜は、古傷の疼きを一晩で消した。月影草の蜜は、歯を抜く痛みを丸ごと眠らせた。
二人は取り決めをした。メルティナの畑に、源蔵が巣塔をひとつ建てる。蜂は毒花から蜜を醸し、蜜の半分は研究に、半分は売り物に。売り上げは折半。
「言っておくけれど、共同研究者というだけよ。領主様のお情けは受けない」
「おう。こっちも、先生の頭を借りるだけだ」
もっとも、共同研究は、初手から衝突した。
メルティナは、試したがった。より強い毒草、より濃い配合、より際どい一線。竜昏草の次は黒鈴蘭、その次は王毒芹——毒性の階段を、一段飛ばしで駆け上がろうとする。
「駄目だ」
王毒芹の畝の前で、源蔵は初めて、はっきりと首を横に振った。
「この花には、蜂を入れん」
「なぜ? 仮説は立っているのよ。蜜嚢の転化が王毒芹の環毒にも働くなら、心臓病の特効薬に化ける。世紀の発見だわ」
「化けるかもしれん。だが、しくじれば、採餌に出た一隊が巣に帰る前に全滅する。……先生。あんたのその仮説の梯子は、うちの子らの屍で組むことになる。それは、させん」
「っ……研究というのは、そういうものでしょう! 危険なしに、進歩なんて……」
「なら、進歩のほうを待たせりゃいい」
源蔵の声は、静かなままだった。
「毒の強さの順じゃなく、蜂の安全の順に試す。回り道でも、一匹も死なせずに登れる梯子を組む。……四十年、そうやって蜂を飼ってきた。ここは曲げられん」
メルティナは、しばらく源蔵を睨んでいた。それから、ふいに視線を落として、ぼそりと言った。
「……順番を、組み直すわ。安全な花から」
「すまんな」
「謝らないでよ。……悔しいけれど、あなたのほうが正しい研究者だわ。対象を殺す実験は、二流のすることだもの」
以来、彼女の帳面の一頁目には、几帳面な字で、こう書かれることになった。
【本研究における最優先事項——蜂を、一匹も死なせないこと】
週に二度、源蔵は南の屋敷へ通った。帳面を挟んで、蜜の試験結果を突き合わせる。メルティナの淹れる茶は、彼女いわく「解毒作用のある」苦い毒草茶で、源蔵の持参する蜜を溶かすと、不思議と深い味わいに化けた。
初めてその茶を出されたときの、給仕の意地悪さは隠れもしなかった。
「月影草の根の茶よ。微量なら無害。……普通のお客様は、ここで顔色を変えるのだけれど」
「ほう。いい香りだ」
源蔵がためらいなく啜ると、メルティナのほうが目を丸くした。
「……本当に飲むのね」
「あんたは、客に毒を盛る人間じゃねえよ。畑を見りゃわかる。あれだけ丁寧に育てる人間が、雑な殺しをするもんか」
「畑で人柄を見るの、あなた」
「畑と、蜂への物腰でな。あんた、うちの蜂が無断で入っても、一度も追い払わんかったろう。腹を立てながら、観察してた。追うより先に、まず観る——研究者の手つきだ」
メルティナは、湯呑みの中を見つめて、しばらく黙った。
「……変なことを言うのね。社交界の連中は、私の顔色ばかり観ていたわ。何を考えているかわからない、気味が悪い、って。中身を観ようとした人は、いなかった」
「もったいねえことだ。中身のほうが、よっぽど面白いのに」
「……っ。あ、あのね。そういうことを、そういう顔で言うのは、反則だと思うの」
「ん? 何がだ」
「いいから! ……茶の、お代わりは」
「もらう。今度は蜜を倍にしてくれ」
あるとき源蔵は、ふと聞いた。
「先生は、なんで毒草だったんだ。花なら、薬草なら、他にいくらでもあったろうに」
「……祖母の畑が、毒草園だったの」
メルティナは、茶器に目を落とした。
「お祖母様は、国境の村の薬師だった。毒消しの名人でね。毒を知らなければ、毒は消せない。だから庭で、王国中の毒草を育てていた。……戦のとき、敵国の毒矢で倒れた兵士を、何百人も救ったそうよ。なのに、戦が終わったら、村の連中は手のひらを返した。『毒婆』『魔女』。畑は焼かれて、お祖母様は追われて、伯爵家の行儀見習いだった母のところへ転がり込んで、死んだわ。私に、種の袋だけ遺して」
だから、と彼女は顔を上げた。翡翠の目に、挑むような光があった。
「私が完成させるの。お祖母様の毒消しの学問を。誰にあざ笑われても。……笑われるのは、慣れているもの」
「先生」
「何よ」
「あんたの祖母さんの畑は、焼かれてない」
源蔵は、窓の外を顎で指した。整然と続く毒草の畝で、金色の魔蜂たちが、忙しく花を渡っていた。
「ここで、続いてる。今日からは、うちの蜂が三十万匹、あんたの畑の弟子だ」
メルティナは、目を見開いたまま、しばらく動かなかった。それから、ふい、と窓の外へ顔を背けた。耳が、赤かった。
「……変な領主」
* * *
毒蜜が初めて人を救ったのは、冬の入り口だった。
夜半、村の巣塔の蜂たちが騒いだ。《蜂目》に映ったのは、街道を必死に走る、見覚えのある髭面——行商人のバルタだ。荷馬車の上で、少年がけいれんを起こしていた。息子のテオ。街道の岩場で、冬眠しそこねた荒地蛇に、ふくらはぎを咬まれたという。
「旦那ぁ……! 町の医者は間に合わねえ、薬師の親方は王都で……頼む、あんたのとこの魔蜜なら、あるいはと思って……!」
少年の脚は膝まで黒ずみ、唇は紫だった。荒地蛇の毒は血の毒。魔蜜の万能の滋養でも、進んだ蛇毒までは消せない——それは試験で、もう分かっていた。
源蔵は、迷わなかった。
「南だ。走るぞ」
凍った星空の下、荷馬車は南へ飛ばした。叩き起こされたメルティナは、寝間着の上に前掛けだけ巻いて、テオの脚をひと目見るなり言った。
「荒地蛇。咬まれて三刻ってところね。——間に合うわ」
彼女の処置は、鮮やかだった。咬み口を切って毒を絞り、竜昏草の蜜で毒の巡りを鎮め、彼女が調合した血清に、月影草の蜜を一滴——「痛みで心の臓が保たないから、眠らせるの」。
夜明け、テオの頬に赤みが戻った。規則正しい寝息を確かめて、バルタは土間に膝から崩れ、泣いた。
「あ、ありがてえ……ありがてえ、お嬢様……! 御礼は、御礼はなんでも……」
「……お嬢様?」
メルティナが、きょとんとした。バルタははなをすすって、何度も頭を下げた。
「薬師のお嬢様。あんたは命の恩人だ。この御恩は、バルタ一生忘れねえ」
彼女は、呆けたような顔で、しばらくバルタを見ていた。
魔女、と呼ばれなかった。毒草令嬢、とも。
源蔵は土間の隅で、湯を沸かしながら、素知らぬ顔をしていた。
テオの一件は、街道筋を、ゆっくりと、しかし確かに変えていった。
バルタは、行商の馬車に「ダールの毒消し蜜」の小瓶を積むようになった。最初は誰も買わなかった。毒草の蜜と聞けば、誰だって腰が引ける。だがバルタは、事あるごとに息子の脚を見せて回った。「荒地蛇にやられて、三日で走った脚だ」——跳ねて見せる本人ほど、雄弁な看板はない。
春までに、小瓶は三つの町の薬屋に並んだ。夏には、国境警備の砦から「毒矢の備えに」と、まとまった注文が来た。注文書の宛名は、こうだった。
【ダール領 毒草園の薬師どの】
届けに来たバルタからそれを受け取ったメルティナは、宛名を、三度読み返した。
「……毒草園の、薬師」
「へい。砦の連中が、そう呼んどりますんで。……いけませんでしたかい」
「いいえ」
彼女は、注文書を研究室のいちばん目立つ壁に、真鍮の鋲で留めた。
「額に入れたいくらいよ」
村の子どもらも、いつからか、南の谷を怖がらなくなった。テオが吹聴して回ったからである。いわく、南の毒草園には、どんな毒でも治す魔法の先生がいる。いわく、先生はちょっと怖いが、質問すると饅頭をくれて、答えを三倍にして返してくれる。
「毒草令嬢」の異名を、この土地で口にする者は、もう、いなかった。
「……見てたでしょう、いまの」
帰り際、見送りに出たメルティナが、そっぽを向いたまま言った。
「見てた」
「……祖母の学問が、初めて人を救ったわ」
「先生の学問が、だ」
メルティナは黙って、それから、初めて、笑った。皮肉でも自嘲でもない、年相応の、不器用な笑い方だった。冬の朝日が、毒草園の霜を金色に光らせていた。
* * *
その夜、源蔵の日誌の隅に、いつもと違う一行が増えた。
【ダール養蜂日誌 百四十一日目。天気晴れのち星。毒蜜、初めて人の命を拾う。南の先生、よく笑う人だと判明】
書き終えて、源蔵は筆を止めた。
王都から流れてきた行商の噂話が、耳の奥で燻っていた。バルタが帰り際、世間話のつもりで置いていった話だ。
「そういや旦那、王都の魔獣院ってとこが、近頃きな臭いらしいですぜ。従魔の事故が続いてるとかで。……新式の『首輪』で、魔獣を無理くり従わせる術が流行ってるんだそうで。へへ、旦那の蜂にゃ、首輪なんぞ要りませんがね」
首輪。
ノエルの記憶の底で、白い竜の悲鳴が、微かに疼いた。
「……嫌な流行りだ」
源蔵は日誌を閉じ、囲炉裏の火に、薪を一本足した。




