第三章 熱殺蜂球
契約してからというもの、源蔵の暮らしは一変した。
目を閉じれば、群れの見ているものが視える。偵察蜂の複眼が捉えた南の谷の花霞。採餌蜂の背に当たる朝日の温み。巣の奥で山吹が産む、真珠のような卵。三十万の暮らしが、潮の満ち引きのように、源蔵の中を流れていく。
はじめのうちは、飯を食っても味がわからないほど酔った。それがいつしか、囲炉裏の火加減を見ながら、片耳で群れの羽音を聞き流せるようになった。人間というのは、慣れる生き物である。
最初に手をつけたのは、住まいだった。蜂の、である。
「爺さん、あの塔はなんだ」
村の北、崖への道の途中に、石を円く積んだ塔が七基、朽ちて並んでいた。高さは人の三倍ほど。壁には人の入れる戸口と、その上に、拳の並ぶような丸い穴が幾つも開いている。
「はて……儂の爺様は『蜂の塔』と呼んどりましたが。大昔の、神様の祠じゃろうと」
「違うな。——ありゃ、巣塔だ」
源蔵には、ひと目でわかった。蜂を住まわせるために人が建てた、石の巣箱だ。前世の書物で見た、異国の蜂塔とそっくりの理屈でできている。
崖の大巣は立派だが、開放巣は雨風に弱く、群れが増えれば手狭になる。巣塔が七基あるということは——この村は、かつて。
答えは、領主館の地下にあった。
床板の抜けた穴の底に、石造りの蔵が眠っていた。蜜蔵だ。素焼きの蜜壺が何百と並び、奥の石棚に、革表紙の帳面が積まれている。かびを払って開くと、百年前の日付と、几帳面な文字が並んでいた。
【ダール蜜寮 出納帳。王室納め、春の白蜜三十壺。聖堂納め、蝋燭千二百本——】
「……蜜の里、か」
百年前まで、ダールは王国一の蜜の産地だった。魔蜂は「殺人蜂」ではなく「守り蜂」と呼ばれ、七基の巣塔に分かれて住み、蜂飼いの一族が代々、群れとの間を取り持っていた。
帳面の最後の一冊が、事情を語っていた。王都から来た徴税官が蜜の上納を三倍に吊り上げ、応じねば巣塔を焼くと脅した。蜂飼いの長は拒み、投獄され、巣塔のふたつが実際に焼かれた。怒った群れは崖へ去り、以来、巣に近づく人間を刺すようになった。蜂飼いの一族は散り散りになり、花畑は涸れ、蜜の里は「殺人蜂の巣窟」と呼び替えられた。
源蔵は、帳面を閉じて、長いこと黙っていた。
山吹の血に刻まれた「巣を焼かれた記憶」は、これだったのだ。
「……人間の不義理を、蜂のせいにしやがって」
その日から、源蔵は巣塔の修理を始めた。崩れた石を積み直し、内壁に蜜蝋を塗り、雨仕舞いを直す。ドム爺と、村の年寄りたちも、恐る恐る手を貸した。
ひと月後、山吹の群れから、若い女王をいただく分蜂群が、修理なった第一巣塔に入った。百年ぶりに、人の建てた巣に、蜂が帰ってきたのだ。
その日、村人二十七人は、巣塔の前で、誰からともなく手を合わせた。
* * *
蜜の初収穫は、夏の盛りだった。
『ゲンゾウ。ひがしの、いた、みつ、あまった』
『もっていけ』
山吹の許しを得て、源蔵は貯蜜巣房の蜜蓋を切った。ひと枠——といっても人の背丈ほどの巣板だ——から、素焼きの壺に七杯。琥珀色の蜜が、とろとろと糸を引いた。
村人に配ると、年寄りたちは、ひと匙舐めて、泣いた。
「儂ら、この村に生まれて七十年……この味を、知らんかった」
残りを、源蔵は街道の町へ売りに出た。半里先の道標まで、月に一度だけ来る行商人がいる。バルタという髭面の男で、最初は「ダールの新領主」と聞いただけで馬車ごと後ずさった。
「の、呪われ領の蜜ぅ? 旦那、勘弁してくれ。祟りもんは扱えねえ」
「舐めてから言え」
バルタは、疑り深く匙を舐め——目を剥いた。
「な……なんだこりゃあ!?」
匙を持ったまま、バルタは石像になっていた。やがて震える手で、もうひと匙。さらにひと匙。三匙目で源蔵が壺を取り上げると、髭面の行商人は、我に返って叫んだ。
「だ、旦那! こいつはいったい、どこの……いや、聞くまでもねえ。ダールの……あの崖の蜜か!」
「おう。うちの子らの自慢の出来だ」
「う、売れる。売れるなんてもんじゃねえ。町の金持ち連中が樽で……いや、待て、待てよ。呪われ領の蜜なんぞ、誰が信じる……ええい、こうなりゃ、あっしの舌が証文だ!」
バルタは、その場で手金を打った。なけなしの銀貨がかき集められ、荷馬車の塩と反物が、勝手に「前払い」として降ろされた。
「言っとくが旦那、あっしはあこぎな商人だ。街道じゅうの相場を知ってて、仕入れは叩く。……だがな、これだけは言わせてくれ。この蜜に安値をつけたら、罰が当たる」
半月後、街道の町ドレンの市場で、小さな騒ぎが起きた。バルタの露店に並んだ蜜壺を、通りすがりの薬師がひと舐めし、その場で有り金はたいて買い占めようとしたのである。「三日寝込みの熱病人に舐めさせたら、一晩で熱が引いた」という噂が、翌朝には市場を一周していた。
噂は町の薬師組合に届き、組合は半信半疑で、鑑定人を立てることにした。
二週間後、バルタは町の薬師組合の親方を馬車に乗せて戻ってきた。親方は蜜壺に鼻を突っ込み、震える手で懐中の水晶をかざし、腰を抜かした。
「ま……『魔蜜』だ。こりゃあ正真正銘の魔蜜だぞ! 上級ポーションの主原料……王都でも年に樽ひとつ出りゃいい代物だ! これがひと壺、いや、七壺もあるだと!? 王都の一年分が、こんな村にまるごと転がっとるのか!」
魔蜂が魔力を帯びた花から醸す蜜は、それ自体が霊薬になる。傷を癒し、尽きた魔力を満たし、万病に効く。ノエルの記憶にも確かにあった。宮廷の薬棚で、小指ほどの瓶が金貨十枚で扱われていたことも。
親方が置いていった手付けの革袋には、金貨が五十枚入っていた。村の十年分の税に相当した。
「りょ、領主様……儂ら、夢を見とるんじゃろうか」
「夢なもんか。爺さん、これはあんたらの蜂が稼いだ、あんたらの金だ。——さて」
源蔵は、掌の上で金貨を一枚、鳴らした。
「花を、植えるぞ」
金は、ほとんどすべて種と苗に換えた。荒野に強い蕎麦、釣鐘花、野薔薇、果樹の苗木。村の周りの休耕地に、蜂の飛ぶ道筋に沿って、帯のように花畑を敷いていく。植え付けの人手には、噂を聞きつけて戻ってきた村の出戻り者たちが加わった。蜜の里を捨てた家の、孫の代の若者たちだった。
そして——花が増えれば、群れは強くなる。群れが強くなれば、狩りも増える。
デスニードルは蜜だけで生きる蜂ではない。幼虫を育てるために、荒野の害獣を狩る。畑を荒らす岩鼠、家畜を襲う砂蜥蜴、旅人を毒牙にかける荒地蛇。三十万の群れが日々あげる狩りの功は、《女王の誓約》を通して、絶え間なく源蔵に流れ込んだ。
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位階が上昇します 18 → 24 → 31
新たな技能を得ました
《蜂目》……群れの視界を借り、千里を見る
《群体指揮》……群れを十指のごとく編み、動かす
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祠の鑑定石は、触れるたびに数字を書き換えた。位階31。王都の基準なら、一線の騎士に届く数字である。当の本人は、水晶を覗いて首をひねった。
「俺は巣塔を直して、花を植えて、蜜を舐めてただけだがなあ」
* * *
異変は、秋口に来た。
その朝、源蔵は井戸端で顔を洗っていて——群れの羽音が、一斉に凍るのを聞いた。
『——てき』
『てき、てき、てき!』
『おおきい。くろい。においで、わかる。あれは、むれごろし』
《蜂目》が、偵察蜂の視界を源蔵に流し込んだ。
北の岩山の稜線。朝日を背に、一匹の影が旋回している。魔蜂より、ふた回り大きい。黒橙の縞、なたのような大顎、鎧のような甲殻。
源蔵の背筋が、前世の記憶ごと総毛立った。見間違えようがない。あの憎たらしい飛び方、あの偵察の仕方——雀蜂だ。それも、化け物のような。
「グランドホーネット……」
ノエルの記憶が名を告げた。魔大雀蜂。単独でも竜の仔を食い殺し、群れをなせば城塞都市が門を閉ざす、空の暴君。そして雀蜂の斥候が一匹で現れたときの意味を、源蔵は四十年の骨身で知っていた。
あれは、下見だ。奴は帰って、仲間を連れてくる。巣を——三十万の家族と、蜜と、幼虫のすべてを、食い尽くすために。
「山吹!」
源蔵は崖へ走りながら、羽音で叫んだ。老女王の応えは、静かだった。
『しっている。まいとし、あきに、くる』
『きょねんは、とう(塔)のひとつぶん、しんだ。ことしは、むれがよわい。……ふゆを、こせぬかもしれん』
毎年、これに削られていたのか。源蔵は奥歯を噛んだ。
デスニードルは強い。だが体格が違いすぎる。大顎の一咬みで、魔蜂は二つになる。正面からぶつかれば、十匹がかりで一匹と相打ちだ。
だが。
「山吹。あんたらの身体は、熱に強いか」
『ねつ……?』
「俺の故郷の蜂はな、身体は小さいが、雀蜂には負けなかった。あいつらは、とっておきの戦法を持ってたんだ」
『せんぽう……?』
「ああ。教えてやる。——稽古するぞ、今日からだ」
* * *
稽古は、初日から難航した。
教えることは、突き詰めればふたつきり。「刺すな、包め」と「熱くしろ」。だが、これが難しい。デスニードルは生まれついての戦士だ。敵とみれば針が出る。それが幾万年の本能である。
「『ちがう! 針をしまえ! だんごだ、だんごになれ!』」
岩山の斜面で、源蔵は割れ鐘のような羽音で怒鳴り続けた。的は、藁と革で作った雀蜂の人形——中に焼き石を仕込み、大顎の代わりに鎌を二本括りつけた、いわくつきの稽古台だ。
若蜂の一隊が突っ込み、包み、すぐ解けて、針を出す。やり直し。包んで、三十を数える前に散る。やり直し。震えが揃わず、熱が上がりきらない。やり直し、やり直し、やり直し。
『むずかしい』
『さしたい』
『さすほうが、はやい』
「『早けりゃ、十匹死ぬ。包めば、一匹も死なん。——どっちがいい』」
群れの羽音が、落ちた。やがて、老女王の低い一声が、斜面に響いた。
『つつめ。むれのおさの、いうとおりに』
三日目、初めて人形の藁が焦げた。五日目、包みから解けるまでの息が、倍に伸びた。六日目の夕、山吹が自ら稽古台を検分に降り、焦げ千切れた革の鎌をひと撫でして、短く言った。
『——これなら、かてる』
その夜、源蔵は若蜂たちに、とっておきの褒美を振る舞った。蜜蔵から出した古蜜を、たらいに一杯。群がる羽音は、祭りのようだった。
* * *
魔大雀蜂の本隊は、七日後に来た。
北の空が、黒く染まった。四十七匹。矢じりの形の編隊で、朝日を裂いて、崖の大巣へ一直線に突っ込んでくる。先頭を飛ぶのは、他より頭ひとつ大きい個体——群れの主、片方の触角が古傷で千切れた、歴戦の女王雀蜂。源蔵は奴を「大顎」と名付けていた。
だが、その進路に、蜂は一匹もいなかった。
崖の巣板は、もぬけの殻。蜜も幼虫も、七日のうちに、村の巣塔へ移し終えている。
『……からだ』
『えものが、いない』
戸惑う雀蜂の編隊の眼下——涸れ川の谷底に、蜜の匂いが立ち上った。割った蜜巣房を、これ見よがしに並べてある。腹を空かせた雀蜂たちは、匂いに引かれて、次々と谷へ舞い降りた。
狭い谷だ。翼の大きい雀蜂は、思うように旋回できない。
そのときを、三十万は待っていた。
「——今だ! 『つつめ』!」
源蔵の号令一下、谷の両壁の岩陰から、金色の奔流が噴き出した。
一匹の雀蜂に、五百の魔蜂が食らいつく。刺すのではない。咬むのでもない。ただ、団子になって包み込む。二重、三重、十重二十重。谷底に、みるみる、金色の毬が四十七個できあがった。
毬の中で、魔蜂たちは、いっせいに翅の筋肉を震わせはじめた。飛ぶためではない。熱を、生むために。
『あつく』
『あつく、あつく、あつく』
蜂球の芯の温度が、上がっていく。魔蜂の耐えられる熱と、雀蜂の耐えられる熱。その差は、紙一枚。だがその紙一枚が、生死を分ける。
——熱殺蜂球。故郷の小さな蜂が、幾万年かけて磨いた、群れの牙。
毬の中から、雀蜂の絶叫がくぐもって響いた。甲殻の焦げる匂い。ひとつ、またひとつ、毬の震えが止まっていく。
「……見事なもんだ」
源蔵は谷の縁で、静かに手を合わせた。狩りとはそういうものだ。だが、感傷は三秒で終わった。
『ゲンゾウ! うえ!』
山吹の警声。——大顎だ。
群れの主だけが、罠の匂いを嗅ぎ分けて、谷に降りていなかった。黒橙の巨体が、太陽を背負って、真っ直ぐに源蔵へ墜ちてくる。群れの司令塔を、正確に狙って。
避けられない。そう判断した源蔵の身体を、次の刹那、金色の風が包んだ。
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《王鎧》発動
女王を守る近衛の誓いが、主の身体に鎧として顕現します
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源蔵の全身に、近衛蜂の一団が、鱗のように、鎧のように、隙間なく取りついた。大顎の突進を、五百匹の生きた鎧が受け止める。衝撃で三間吹き飛ばされながら、源蔵は倒れなかった。倒してもらえなかった。鎧が、脚を張って支えたのだ。
「……おまえら」
『まもる』
『ゲンゾウは、むれ。むれは、まもる』
目の前で、大顎が体勢を立て直し、なたの顎を開く。源蔵は、燻煙器の火皿を、その開いた顎めがけて、まっすぐ突き出した。
「悪いが、こっちも家族持ちでな——山吹!」
『わかっている』
源蔵の背後の岩山から、老女王・山吹が、自ら飛び立った。老いた翅が、若い日の音で唸った。女王の体当たりが大顎の横腹を打ち、怯んだ巨体に、待機していた最後の一軍——若く、いちばん元気な五千匹が殺到した。
金色の毬が、ひときわ大きく、谷の真上に浮かんだ。
やがて毬が解けたとき、空の暴君は、動かぬ骸となって荒野に横たわっていた。
* * *
戦いは終わった。だが、無傷ではなかった。
熱殺の毬に加わった蜂のうち、九十六匹が、力を使い果たして戻らなかった。熱を生む震えは、蜂自身の命の脂を燃やす業だ。分かっていたことだった。分かっていて、命じたのだった。
源蔵は日暮れまでかけて、荒野に散った小さな骸を、ひとつずつ拾い集めた。手伝おうとする村人には、首を振った。
「これは、群れの長の仕事だ」
九十六の骸は、崖の見える丘に埋めた。土を盛り、石を置き、花の苗をひと株ずつ植えた。山吹が群れを率いて、丘の上をゆっくりと三度回った。弔いの羽音は低く、長く、夕焼けの荒野に響いた。
『ゲンゾウ。はちは、むれのために、しぬ。それが、はちだ』
「知ってる。……知ってるが、俺は数えて、覚えとく。九十六、全部だ。——それが、蜂飼いだ」
大顎の骸は、村総出で解体した。鋼より硬い甲殻は稽古台と鎧細工に、大顎は鋸に、毒針は薬師組合が薬料にと引き取っていった。骨までしゃぶるようだが、それでいい。命は、使い切ってやるのが供養だ。
その夜、村は百年ぶりの祝いに沸いた。
村人と出戻りの若者が囲炉裏端で蜜酒を酌み交わし、巣塔の周りでは三十万がゆるやかな勝ちどきの羽音を奏でた。源蔵は祠の鑑定石に触れ、さすがに、しばらく黙った。
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位階が上昇します 31 → 55
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四十七匹の魔大雀蜂と、その主。群れ全体で挙げた大戦果は、《誓約》を通じて、余さず主に還った。位階55——ノエルの記憶が言う。王宮の筆頭騎士が、確か、そのあたりの数字だ。
「……蜂が強いだけなんだがなあ、俺は」
誰にともなく言い訳をして、源蔵は水晶から手を離した。
と——巣塔の方から、若い採餌蜂が数匹、浮かれた羽音で飛んできた。
『ゲンゾウ、ゲンゾウ』
『みなみのたに、こえて、もっとみなみ、あたらしい、はなばたけ、みつけた』
『すごい、みつ。あまい。へんな、あじ。つよい、あじ』
差し出された蜜を、源蔵はひと舐めして、眉を上げた。
うまい。桁外れにうまい。だが、舌の奥に、ひやりと痺れるような、奇妙な余韻が残る。この感じを、源蔵は前世で知っていた。トリカブトの蜜に混じる、あの背筋の冷える気配——毒花の蜜だ。それなのに、痺れの底から、身体の芯がほどけるような、深い深いうまみが湧いてくる。
「……おい。この花畑、誰か人間がいたか」
『いた』
『くろいふくの、めすの、にんげん』
『はたけのぬし。おこってた。すごく、おこってた』
「そうか。そりゃあ、うちの蜂が無断で入ったんじゃ、怒るわな」
源蔵は、ぽりぽりと頭を掻いた。明日は、菓子折り代わりの蜜壺を提げて、南へ詫びに行かねばなるまい。
【ダール養蜂日誌 九十日目。天気晴れ。雀蜂の大軍を退ける。うちの子ら、天下無敵。……南に、毒の花を育てる変わり者がいるらしい】
* * *
やがて、冬が来た。
ダールの冬は、乾いて、静かだ。蜂たちは巣塔と崖の巣で身を寄せ合い、大きな蜜球になって春を待つ。源蔵は雪のちらつく日も、巣塔を一基ずつ回って、聴診の真似事をした。板壁に耳を当てると、中から、幾万の微かな羽の震えが聞こえる。生きている音だ。
「……よし。全塔、息災」
村の囲炉裏端では、婆様たちが蜜湯を啜りながら、秋の防衛戦を早くも講談に仕立てていた。曰く、領主様が手をかざすと、蜂の大波が立った。曰く、女王様が雷のように敵の大将を打った。話は日ごとに膨らみ、春が来る頃には、倍の長さになっていた。




