第二章 女王との誓約
ダールでの暮らしは、存外に忙しかった。
まず住処である。領主館と呼ばれる建物は村の北外れにあったが、屋根が半分抜け、床は狐の巣になっていた。源蔵は雨漏りのましな一室を選び、床板を張り替え、かまどを直した。前世の山暮らしで、大工仕事はひと通り身体が覚えている。若い身体は面白いように動いた。
水は村の井戸が生きていた。食い物は、王都から持たされた干し肉と麦が行李にひと月分。あとはドム爺が、夜明け前に採った青菜を分けてくれた。
「領主様は、変わっとりなさる」
三日目の朝、ドム爺がしみじみと言った。
「歴代の領主様は、着いた晩に泣くか、三日目に逃げるかじゃった。あんたは……朝から晩から、蜂を眺めて笑うとる」
「爺さん、あれを見て笑わん養蜂屋がいたら、そいつは偽もんだ」
「よう……ほう?」
「前の仕事の話だ。忘れてくれ」
四日目、源蔵は村の南の丘で、朽ちた祠を見つけた。石造りの小さな祠で、中に、人の頭ほどの丸い水晶が据えられている。ノエルの記憶が疼いた。——鑑定石。神殿や役場に置かれ、手を触れた者の「位階」を映す、古い魔道具だ。
埃を払い、手のひらを載せる。水晶の奥に、青白い文字が浮かんだ。
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ノエル・クレイン
位階:7
職能:従魔師(下級)
固有技能:《蜂語》
……羽音と舞踏に宿る蜂の言の葉を解し、また語る。
汝の四十年に、巣門はすでに開かれている。
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「……《蜂語》」
やはり、あれは気のせいではなかった。
位階7というのは、ノエルの記憶によれば、駆け出しの兵士と同じほどの数字だ。五年勤めた従魔師の位階ではない。従魔契約を結んだ魔獣が戦い、狩り、功を立てるたび、その一部が主の位階に還る——それがこの世界の理だが、ノエルは自分の従魔を一頭も持たせてもらえなかった。手柄はすべて、書類の上でギデオンの従魔のものになったからだ。
源蔵は、水晶に浮かんだ最後の一行を、指でなぞった。
「四十年に、巣門は開かれている、か。……粋なことを言う神様だ」
* * *
それからの半月、源蔵はひたすら蜂を見た。
夜明け前、村人が畑に出る刻限に丘へ登り、日が落ちるまで、崖の大巣を観察する。板切れの日誌は、十枚を超えた。
わかったことは、こうだ。
魔蜂デスニードル。働き蜂の体長はおよそ二尺——前世の蜂の、ゆうに五十倍。黒と山吹の縞、四枚の翅、そして腹の先の毒針。村人が「殺人蜂」と呼び、王都の書物が「竜殺しの蜂」と記す魔獣。
だがその暮らしぶりは、驚くほど、あの黒い小さなニホンミツバチと同じだった。
朝、偵察の蜂が数匹、真っ先に飛び立つ。花の在り処を見つけて帰った偵察蜂は、巣板の上で「舞う」。八の字を描く尻振りの舞——太陽との角度が花の方角、舞の長さが距離。教科書のとおりだ。それを読んだ採餌蜂の群れが、いっせいに南の谷へ飛ぶ。
花のほうも、蜂に負けていなかった。魔力を帯びたこの地の花は、どれも前世の倍から数倍に大ぶりに育ち、蜜も濃い。それでも巨体に足りない分は、鞭のようにしなる長い舌が補う。小さな花なら、何十輪もまとめてひと舐めである。
十日目の朝には、舞の読みで、群れの行き先を先回りできるようになった。
丘の上で、源蔵は板切れに炭で角度を写し取る。太陽から右へ三十度、舞の長さは六拍——南南西、道のりはおよそ二里。読み終えるとロバに鞍を置いて先回りし、崖谷の花畑で待つ。半刻後、読みのとおりに、採餌の一団が谷へ流れ込んでくる。
「……よし。今日も正解だ」
あとを付いて来ていたドム爺が、腰を抜かした。
「りょ、領主様。あんた、蜂の行き先が、わかりなさるのか」
「蜂が教えてくれるんだ。あいつら、いい花を見つけると、巣板の上で踊る。踊りの向きが方角、長さが道のりだ。……俺の故郷の蜂も、まったく同じ踊りを踊った。言葉より、よっぽど正直だ」
「はあ……踊り、ですか」
「爺さんも、ひと月も見てりゃ読めるようになるさ。……それよりな、ひとつ気になることがある」
源蔵は、炭の書き付けを繰った。十日分の行き先が、ことごとく南の谷に偏っている。西の丘にも、東の川辺にも、蜂はもうほとんど飛んでいない。
「西の花が、涸れてきてる。この馬鹿でかい群勢で、蜜源が南ひとつってのは……冬までに、帳尻が合わん」
手を出さねば、刺さない。巣に近づくものだけを、命がけで刺す。閉じた群れ。守りの蜂。
そして——《蜂語》が拾う羽音の端々に、源蔵は不穏なものを聞き取っていた。
『にしのはな、かれた』
『みなみのはな、とおい。つかれた』
『はちみつ、たりない。ふゆ、こせない』
『おうじょさま、ろうじょさま、たまご、へった』
花が、足りていない。
この荒野で、あの巨体の群れを養える蜜源は、南の谷の花畑だけらしい。そして女王は老い、産卵が減っている。あれほど威容を誇る大巣が、内側では、ゆっくりと傾きはじめている。
「……放っておけるか、馬鹿野郎」
源蔵は日誌を閉じ、立ち上がった。半月見て、確信した。あれは化け物の巣ではない。腹を空かせた、でかい図体の、真っ当な蜂の群れだ。
ならば、やることはひとつしかない。
* * *
燻煙器は、五日でできた。
領主館の納屋に転がっていた鍛冶のふいごと、穴の空いた鉄鍋を組み合わせ、蛇腹を革で張り直す。前世で四十年使った相棒と、ほぼ同じ形に仕上げた。燃やすのは、荒野に生えるヨモギに似た薬草と、麻布の切れ端。ドム爺に頼んで、村に一頭だけ残ったロバの背に、木箱を括りつけた。
「りょ、領主様……本気で、あの城に行きなさるのか」
「おう」
「顔ぐらいは、隠しなされ。せめて網でも……」
「爺さん。人の家を初めて訪ねるのに、頬かむりで行く阿呆がいるか」
源蔵は、素顔のまま、丘を下りた。
もっとも、最初の訪問は、門前払いだった。
風向きを、読み違えたのである。崖まで五町の岩場で、つむじ風が源蔵の匂いをまとめて巣へ運んだ。とたん、崖の羽音がひときわ高くなり、哨戒蜂が十——二十——数えるのをやめるほど湧き出して、頭上を旋回しはじめた。
『にんげん』
『ちかい。はこ、もってる』
『すを、とるきか』
『さすか』『さすか』『さすか』
殺気立った羽音が、雹のように降ってくる。源蔵は木箱を静かに置き、両手を挙げて、亀の歩みで後退した。三町戻ったところで、ようやく旋回が解けた。
小屋に戻った源蔵は、悔しがるどころか、上機嫌で日誌をつけた。
【哨戒の初動、二十秒足らず。伝達の速さ、練度、共に極上。うちの群れは天下一の警備を持っとる】
「……いや、まだ『うち』の群れじゃなかったな」
書き直そうとして、やめた。
翌日は風下から入り、五町で燻煙をひと吹きして匂いを消し、四町で止まって半日座り、日暮れに帰った。次の日は三町半。その次は三町。急がば回れ、押して駄目なら引いて待つ。相手の間合いに、こちらの匂いを少しずつ「置いてくる」。人に慣れぬ群れと近づきになる手順は、前世も今世も、変わらない。
そして七日目——巣の崖まであと三町の岩場で、哨戒蜂が二匹、初めて威嚇ではなく『何者だ』と問う羽音で舞い降りた。
『とまれ』
『ちかづくな。さすぞ』
源蔵は足を止め、燻煙器を地面に置き——両腕を、ゆっくりと広げた。それから、喉の奥で、低く長く、唸りを転がした。《蜂語》が教えるままに、羽音の抑揚を、人の声で写し取る。
「——『てき、ではない』」
哨戒蜂の羽音が、乱れた。
「『はな、をもってきた』」
源蔵は木箱の蓋を開けた。中には、この半月、荒野を歩き回って根ごと集めた花——岩陰の野薔薇、涸れ川の縁の白詰草に似た草、南の谷から株分けした釣鐘花が、土ごと、ぎっしりと詰まっている。
哨戒蜂が一匹、恐る恐る舞い降りて、釣鐘花に長い舌を差し入れ、蜜を吸った。翅が、驚きに震えた。
『はな。ほんとうに、はな』
『にんげん、はなを、くれた?』
『へん。へんな、にんげん』
「変で結構。……『あんたらの女王に、会わせてくれ』」
蜂たちは、しばらく円を描いて飛び回った。やがて一匹が巣へ矢のように戻り、そして——崖全体の羽音が、変わった。
潮騒のようだった羽音が、凪ぐ。何十万の翅が、いっせいに打つのをやめて、聞き耳を立てる気配。源蔵の全身に、じっとりと汗が浮いた。これは、群れ全体が、俺を「見て」いる。
やがて、巣の奥から、ひときわ低い羽音が響いた。古い鐘の余韻のような、深く、しゃがれた音。
『とおせ』
* * *
崖の岩棚を、源蔵はロバを残してひとり登った。
巣板の谷間は、蜂蜜と蜜蝋の匂いでむせ返るようだった。人の背丈より高い黄金の巣板が、左右にそびえる。六角の巣房のひとつひとつが、拳より大きい。蜜蓋の張られた貯蜜巣房は、西日を透かして、ステンドグラスのように輝いていた。
その最奥、岩壁の窪みに——女王はいた。
馬ほどもある、と思った。艶を失いかけた山吹色の巨体に、幾千の産卵で擦り切れた翅。侍女蜂に囲まれ、それでも背筋の伸びた、老いた女王。
複眼が、源蔵を映した。
『にんげん。はなを、くれた、にんげん』
『なにが、のぞみだ』
『みつか。ろうか。それとも、わしらの、いのちか』
しゃがれた羽音は、静かだった。脅しではない。この女王は、人間に巣を焼かれた記憶を、血の中に持っている。
源蔵は、岩棚に、どっかりとあぐらをかいた。目線を女王より低くする。それから、ゆっくりと、羽音と声を交ぜて語った。
「——『俺は、蜂飼いだ』」
『はちかい……?』
「『蜂の、世話をする者だ。巣箱を建てる。花を植える。冬の前に、蜜が足りるように手を貸す。病んだ巣を癒す。あんたらの敵と、一緒に戦う』」
『みかえりは』
「『蜜を、少し分けてもらう。群れが困らん分だけだ。……それと』」
源蔵は、一度言葉を切った。六十一年と二十三年、二人分の生涯で、これほど正直に喋ったことはなかった。
「『あんたらの隣で、暮らしたい。それが俺の、生まれつきの性分なんだ』」
女王の触角が、ゆっくりと揺れた。長い、長い沈黙があった。巣板の陰から、何千の複眼がこちらを覗いていた。
やがて女王は、侍女蜂に何かを命じた。運ばれてきたのは、蜜蓋を切られたばかりの巣房——中で、白金色の蜜が、とろりと光っている。
『のめ』
『それで、はらのなかを、みせよ』
毒見も作法もない。源蔵は巣房に口をつけ、ひと息にあおった。
——雷が、落ちた。
舌の上で花畑が咲き、喉の奥で夏の日向が弾け、腹の底に、とろ火のような熱が灯った。蜜だ。まぎれもなく蜜だ。だが、こんな蜜は、四十年の生涯で知らない。
「……うまい」
気づけば、涙が出ていた。若い身体は、涙もろくて敵わない。
「うまいなあ……。あんたら、こんな上等なもんを、あの痩せた花だけで醸してるのか」
女王の複眼が、じっと源蔵を見つめていた。そして、しゃがれた羽音が、初めて、笑うように揺れた。
『はらのなか、みえた』
『みつを、うまいと、なく。おまえは、はちだ。にんげんのかたちをした、はちだ』
『はちかい、なまえは』
「ノエル・クレイン。……いや」
源蔵は、袖で目元を拭って、答えた。
「源蔵。蜂谷源蔵だ。ゲンゾウと呼んでくれ」
『ゲン、ゾウ』
「ああ。それで、あんたの名は」
『おうじょに、なは、ない。うまれて、うんで、しぬだけ』
「そうか。なら——山吹、というのはどうだ」
源蔵は、女王の古びた縞を指した。
「俺の故郷の、春一番に咲く花の色だ。あんたの背中と、同じ色をしてる」
女王は、触角を、ふるり、と震わせた。それが照れなのだと、四十年の蜂飼いにはわかった。
『やま、ぶき』
『よい、おとだ』
* * *
契約は、その日のうちに結ばれた。
従魔契約——本来それは、従魔師が一頭の魔獣と、一対一で魂の緒を結ぶ術だ。ノエルの記憶が、術式の手順を教えてくれた。
だが源蔵が差し出した契約に、山吹は言った。
『わし、ひとりでは、うけぬ』
『むれは、ひとつ。わしは、むれ。むれは、わし』
『むすぶなら——むれ、まるごと、むすべ』
「……群れ丸ごと」
従魔師の常識では、あり得ない。人の魂は、二頭三頭の緒を結んだだけできしむという。三十万を超える群れとの契約など、術式の書のどこにも載っていない。
だが源蔵は、笑った。
「望むところだ。蜂飼いってのはな、もともと一匹と付き合う商売じゃねえ。——群れと付き合う商売だ」
女王の巣房の前で、源蔵は右手を差し出した。山吹の触角が、その手のひらに触れる。
術式の光が走った瞬間——世界が、割れた。
三十万の羽音が、いっせいに源蔵の中へ流れ込んできた。三十万対の複眼が見る空、三十万の翅が受ける風、花の匂い、蜜の重さ、巣の温もり。溺れる、と思った刹那、その奔流の真ん中に、山吹のしゃがれた羽音が、錨のように響いた。
『ゲンゾウ。むれに、つらなれ』
奔流が、形を結ぶ。源蔵は、群れの中に立っていた。いや——群れそのものに、なっていた。
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《女王の誓約》が成立しました
契約形態:群体共生(記録にない形態です)
従魔:デスニードルの群れ 三十一万四千
群れの戦果・採餌・営巣の功は、主の位階に還元されます
位階が上昇します 7 → 18
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膝をついた源蔵の全身を、金色の光が包んでいた。位階の上昇——ノエルが五年かけて得られなかったものが、たった一度の契約で、その三倍になった。群れが今日狩った害虫の、今日集めた蜜の、今日守った巣の功が、もう流れ込みはじめているのだ。
これが、三十万の家族を持つということか。
「……はは」
源蔵は、岩棚の上で、大の字になった。夕焼けの空を、家族たちが埋め尽くして舞っていた。
「ギデオンとやら、見てるか。——蜂に刺されるどころか、蜂の親玉にされちまったぞ、俺は」
帰り際、山吹は源蔵を呼び止め、侍女蜂に、小さな蝋の器を運ばせた。中に、ひと匙分の、真珠色に濁る蜜。
『ちかいの、しるしだ。——おうみつ』
『むれのおさに、のませる、ならわしの、みつ』
王蜜。女王を育てるためだけに醸される、群れの秘中の秘。
押しいただいて舐めると、それは蜜というより、澄んだ雷だった。腹の底で熱がほどけ、手足の先まで、何かが行き渡っていく。
日暮れ、源蔵は崖から村へ歩いて帰った。頭の上には、見送りだという若蜂が三十ばかり、ふわふわと付いてきた。
村の入り口で、鍬を握りしめたドム爺と、村人の全員が待っていた。朝、領主が燻煙器を担いで崖へ向かうのを、皆、今生の別れの顔で見送ったのである。それが日暮れに、五体満足で、おまけに蜂の一団を頭上に従えて帰ってきた。
「りょ、領主様……そ、その、頭の上のは……」
「ん? ああ、うちの子らだ。今日から、あの崖の群れごと、俺の家族になった」
ドム爺は、鍬を取り落とした。婆様がひとり、その場にへたり込んで、拝みはじめた。蜂の神様のお使いじゃ、と誰かが言い、いや神様ご本人じゃ、と誰かが言い直した。
「神様なもんかい。ただの蜂飼いだ。——それよりな、爺さん」
源蔵は、にっと笑った。
「明日から、忙しくなるぞ。この村は、もういっぺん——蜜の里に戻る」
その夜、王都で読まれることのない養蜂日誌に、源蔵はこう記した。
【ダール養蜂日誌 十九日目。天気晴れ。本日、入群。女王一、名は山吹。働き蜂三十一万四千。……全部、うちの子になった】
その晩から、身体が変わった。
夜目が利く。半里先の羽音が聞き分けられる。そして眠りの中で、群れの見る夢——何万の複眼が焼き付けた、空と花と巣の記憶——が、走馬灯のように流れ込んでくるようになった。
三日目の朝、源蔵は目を閉じたまま、西の丘の様子を「見て」いる自分に気づいた。偵察蜂の複眼を借りて、涸れかけた花畑の上を飛んでいる。手足はないのに、風の温みと花の匂いだけが、やけに鮮やかだった。
「……こいつは、便利なんてもんじゃねえな」
目を開けて、源蔵は苦笑した。四十年、蜂の見ている世界を想像だけで追いかけてきた。それがいま、まぶたの裏にある。
罰当たりなほどの果報だった。だから源蔵は、朝いちばんの日課をひとつ増やした。崖に向かって、深々と頭を下げるのである。村人たちは最初その姿に仰天し、やがて真似をするようになり、いつしかダールの朝の挨拶になった。




