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第一章 せいぜい蜂に刺されて死ね

 雨は、夜半から牙を剥いた。


 蜂谷源蔵、六十一歳。山あいの集落でニホンミツバチひと筋、四十年の養蜂家である。

 トタン屋根を叩く雨音がただの雨でなくなったのを、源蔵は布団の中で聞き分けた。長年山に暮らした者の耳は、雨の重さでその晩の山の機嫌がわかる。これは、沢が暴れる音だ。

 跳ね起きて、カッパを着た。長靴を突っかけ、軽トラのキーを掴む。

 沢沿いの段々畑の縁に、巣箱が六つ置いてある。春に分蜂で増えた若い群ればかりで、今年はよく蜜を溜めた。あの沢があふれれば、六つとも呑まれる。


「待ってろよ」


 誰に言うでもなく呟いて、源蔵は闇へ車を出した。


 女房の佐和が逝って、三年になる。子はない。親から継いだ蜂と山だけが残った。

 蜂は家族だ——祖父の口癖だった。家族が水に浸かるとわかっていて、布団をかぶって朝を待てる人間に、源蔵はなれたためしがなかった。


 沢はすでに濁って膨れ、暗がりで獣のように唸っていた。

 巣箱をひとつ抱える。重い。蜜がぎっしり詰まった巣箱は、米袋よりずっと重い。それを胸に抱いて、ぬかるむあぜ道を上がる。軽トラの荷台に載せ、また下りる。

 二往復目で息が切れた。三往復目、残るは最後のひと箱になった。

 抱え上げたとき、腕の中で、ぶうん、と羽音が震えた。雨と振動に驚いた蜂たちが、巣の中で身を寄せ合っている音だ。


「騒ぐな。おまえらは、羽を濡らさんでいい」


 そのときだった。足元の斜面が、ずるり、と生き物のように動いた。

 山が崩れる、と思ったときには、視界が回っていた。土と水と闇がいっぺんに来た。それでも源蔵は、巣箱を離さなかった。離すという考えが、そもそも浮かばなかった。

 濁流の底で、胸に抱いた巣箱から、羽音が伝わってくる。何万の小さな羽が、いっせいに震える音。


 ——すまんな。最後まで、運んでやれんかった。


 温かい、と思った。

 冷たい水の底で、腕の中の羽音だけが、囲炉裏の火のように温かかった。

 薄れる意識の端で、源蔵は場違いに感心していた。


 ——羽音ってのは、こんなに、温かかったか。


* * *


 揺れている。


 規則正しく、ではない。がたり、がたり、と不規則に揺れている。荷馬車の振れ方だ、と思ってから、源蔵は妙なことに気づいた。

 俺は、荷馬車なんぞに乗った覚えがない。

 目を開けた。幌の破れ目から、見たこともない色の空が覗いていた。硬い床板の上に、毛布一枚で転がされている。

 手を持ち上げて、源蔵は固まった。

 若い手だった。節くれも、鎌の傷も、六十一年分の日焼けもない。白くて、細くて、ペンだこだけがある、書き物仕事の若造の手。


「……なんだ、こりゃ」


 声も違う。かすれた老人の声ではない。喉の奥で、知らない若い声が鳴った。

 その途端——頭の中に、雪崩が来た。


 ノエル・クレイン。二十三歳。エルデシア王国、王宮魔獣院の下級従魔師。

 孤児院の裏の森で魔獣の仔と遊んで育った。十八で魔獣院の下働きに拾われ、飼育舎の世話係を五年。誰の従魔でもない預かり魔獣たちの餌を作り、寝藁を替え、爪を切り、夜通し看病した。

 従魔師としての等級は最下級のまま。だが飼育舎の魔獣で、ノエルに懐かぬものは一頭もいなかった。


 他人の一生が、まるで自分で生きた歳月のように流れ込んでくる。源蔵は板張りの床に手をついて、それを黙って受け止めた。

 流れ込む記憶の中に、ひとりの男が繰り返し現れた。


 ギデオン・ヴォルムス。二十八歳。魔獣院長オズワルド・ヴォルムスの甥にして、上級従魔師。

 三年前、東の火山で火竜グリムが暴走しかけたとき、三日三晩張り付いてなだめたのはノエルだった。報告書に署名したのはギデオンだった。

 二年前、街道筋の魔狼の群れを、一頭も殺さずに山向こうへ移住させたのはノエルだった。王より褒賞を受けたのはギデオンだった。

 地竜ドルガが営巣場所を違えて城壁の下を掘り抜いたとき、竜の背に三晩添い寝してなだめ、新しい寝床へ導いたのはノエルだった。「猛竜を鎮めし英雄」の二つ名を得たのは、ギデオンだった。


「……ほう。とんだ横取り野郎だ」


 声に出したら、腹の底が焼けた。これはノエルの怒りか、俺の怒りか。もう区別はつかなかった。


 とりわけ鮮やかに焼きついているのは、三年前の火山の夜だ。

 火竜グリムは、翼の付け根に矢傷を負って気が立っていた。王都では討伐隊の派遣が決まりかけ、その前にと、ノエルは単身、火口近くの岩場へ通った。焼けた岩の上に座り、毎晩、同じ子守唄を口笛で吹いた。飼育舎で仔竜だったグリムを寝かしつけた、あの唄だ。七日目の夜、竜は焼けただれた鼻先をノエルの膝に載せ、おとなしく矢を抜かせた。

 翌朝、山を降りたノエルを、麓の天幕でギデオンが出迎えた。


『ご苦労。報告書は私が書いておく。おまえは字が汚いからな』


 報告書には、こうあった。【上級従魔師ギデオン・ヴォルムス、単身火口に赴き、秘伝の調伏術をもって火竜を鎮む】。

 ノエルは、抗議しなかった。一度も、しなかったのだ。


『いいんです。グリムが撃たれずに済んだんだから、それで』


 人の好さにも、ほどがある——記憶を浴びながら、源蔵は歯噛みした。だが同時に、わかってもいた。この若造は、弱いから黙っていたのではない。獣が無事なら、名前などどうでもよかったのだ。骨の髄から、獣飼いの性分だった。

 だから、周りが付け上がった。それだけの話だった。

 そして記憶は、十日前の夜に行き着く。


 アメリア王女の愛竜、白飛竜ブランシュが、厩舎の鉄格子を破って逃げた。

 温厚で、雪のように白くて、王女が幼い頃から育てた竜だった。その竜が、なぜ格子を破るほど暴れたのか。

 ノエルは知っていた。ギデオンが試作の「服従の首輪」をブランシュに無断で嵌め、鞭で「調教」していたことを。首輪の焼け痕を隠すため、逃亡の夜、厩舎の当直記録が書き換えられたことも。

 世話係のノエルは院長室に呼ばれた。

 長机の向こうに、院長オズワルド・ヴォルムス。その斜め後ろに、腕を組んだギデオン。壁際には、書記官が三人。裁判のような並びだったが、裁判ですらなかった。弁明の機会など、初めから献立に載っていなかった。


『ノエル・クレイン。当直記録によれば、あの晩、厩舎の錠を確かめるべきはおまえだった』

『……お待ちください。あの晩の当直は、私ではありません。当直表では、ギデオン様が——』

『記録を見よ』


 突きつけられた当直簿の、自分の名前。覚えのない筆跡は、しかし恐ろしく巧妙に、ノエルの癖を写していた。

 顔を上げると、ギデオンと目が合った。口元だけで、笑っていた。

 ああ、と腑に落ちた。この筋書きは、最初から書き上がっていたのだ。ブランシュの首の焼け痕ごと、全部、自分が埋める穴なのだ。


『院長。私は構いません。ですが、ブランシュは——あの仔は、傷を負って逃げています。捜索隊を、どうか。冬が来る前に保護しないと、あの仔は山で』

『……この期に及んで、竜の心配か』


 オズワルドは、呆れたように鼻を鳴らし、それから、事務的に告げた。


『王女殿下の愛竜を逃した重罪、本来なら投獄である。だが陛下は寛大にも、貴様に開拓の誉れをくださった』


 机の上に、羊皮紙が一枚。

 ——ノエル・クレインをダール開拓男爵に叙し、南東辺境ダールの地を封ずる。

 列席の書記官たちが、袖で口元を隠して笑っていた。ダールが何を意味するか、王宮で知らぬ者はいない。

 殺人蜂の巣窟。体長二尺の魔蜂デスニードルが崖一面に営巣し、竜すら迂回して飛ぶ死の荒野。この百年で「ダール卿」を名乗らされた罪人は七人。生きて戻った者はいない。

 爵位という名の、死刑執行状だった。


 王都の南門で、護送の荷馬車に乗り込むノエルを、ギデオンはわざわざ見送りに来た。純白の従魔師礼服に、王より賜った勲章を光らせて。


『男爵様とは、ご出世だなァ? 平民の孤児が爵位持ちだ。泣いて叔父上に感謝しろ』


 そして馬車の幌に手をかけ、囁いたのだ。誰にも聞こえない声で、心の底から愉しそうに。


『せいぜい、蜂に刺されて死ね』


 ——その夜からノエルは高熱を発し、荷馬車に揺られて三日、生死の境をさまよった。

 そして四日目の朝、この身体で目を覚ましたのが、濁流に呑まれたはずの蜂谷源蔵だった、というわけだ。


 源蔵は胸に手を当てた。若い心臓が、とくとくと打っている。

 その鼓動の奥に、消えかけの熾火おきびのような、小さな気配があった。言葉にはならない。ただ、悔しい、悔しい、と燻っている。ノエルという青年が生きて燃やし残した、最後の熾火。


「……おう、坊主。聞こえてるか」


 源蔵は、自分の胸に向かって、ぼそりと言った。


「あんたの身体と、あんたの五年は、俺が預かる。魔獣の世話を投げ出さんかったあんたの筋は、俺が通す。——借りも貸しも、まとめて取り立ててやるから、安心して見てろ」


 熾火が、ふ、と温かくなった気がした。気のせいでも、それでよかった。


* * *


 馬車は昼過ぎに停まった。


「男爵様、ここまでですぜ」


 御者が幌をめくって、引き攣った愛想笑いを寄越した。街道の果て、ひび割れた石の道標に「ダール」と刻んである。その先は道ですらない、乾いた荒野だった。


「村までは、あと半里ばかり歩きゃ着きます。あっしはここで」

「蜂が怖いか」

「……崖の三里四方にゃ、近寄っちゃならねえってのが、街道者の掟でして。悪く思わんでくだせえ」


 行李こうりひとつと外套一枚を降ろすと、荷馬車は逃げるように来た道を戻っていった。

 源蔵は、ひとり荒野に立った。

 風が乾いている。赤茶けた岩肌、膝丈の痩せた草、ねじくれた低木。空は嫌味なほど高く青い。そして——風の中に、微かに、覚えのある匂いがした。

 花だ。どこかで、花が咲いている。


「……ほう」


 半里を歩くと、涸れかけた川と、石積みの家々が見えてきた。屋根の半分は落ち、畑は草に呑まれ、立っている煙突の煙は三筋だけ。村というより、村の骨だった。

 人影が、恐る恐る、戸口から覗く。出てきたのは、腰の曲がった白髭の老人だった。


「……お役人様かね」

「いや。今日からここの領主にされた、ノエル・クレインという者だ。——爺さん、この村の長か」

「村長のドムですじゃ。領主様……また、来なすったか」


 老人は、気の毒なものを見る目で源蔵を見上げた。


「悪いことは言わん。今夜ひと晩休んだら、王都へ帰りなされ。死んだことにして山向こうの町で暮らした領主様も、おりましたでな。ここは、人の土地じゃねえ。……蜂の土地じゃ」


 村に残るのは十二戸、二十七人。年寄りと、行き場のない者ばかりだという。畑に出られるのは蜂の飛ばぬ夜明け前と日暮れ後だけ。日中に鍬を振るえば、哨戒の蜂が寄ってくる。三年前には、逃げ遅れた山羊が二十匹、ひと刺しずつで死んだ。


「じゃが……妙なもんでな、領主様。あの蜂ども、こっちから手ェ出さにゃ、めったに刺しゃせんのです。畑を横切って、南の花の谷へ蜜を集めに行くだけでの。……ただ、巣の崖にだけは、何があっても近寄っちゃならん。あそこは、あれらの城じゃ」


 源蔵は、ドム爺の言葉を胸に刻んだ。手を出さねば刺さぬ。閉じた群れ。巣を城として守る。——似ている。俺が四十年付き合った、あの黒い小さな蜂に。


「爺さん。その城とやらを、遠くから拝ませてくれ」


* * *


 村外れの丘に立ったとき、源蔵は言葉を失った。


 北の崖——高さ五十間はあろうかという赤い岩壁に、それはあった。

 巣板だ。人の背丈の何倍もある黄金色の巣板が、岩壁のひさしの下に、何十枚も連なって垂れ下がっている。西日を受けて、崖全体が蜂蜜色に燃えていた。その周りを、砂金を撒いたように、無数の羽虫が舞っている。

 いや、羽虫ではない。一匹一匹が、鳩ほどもある魔蜂だ。


「……でっけえ」


 膝が、笑っていた。恐怖ではない。武者震いというやつだった。

 開放巣であれだけの巣板を張り、あれだけの群勢を保ち、巣板の並びに一枚の乱れもない。病んだ群れには、ああはできない。


「なんて健全で……なんて、デカい群れだ」


 六十一年の生涯で、これほどの巣を見たことがない。見惚れて、気づけば丘を二歩、三歩と下りていた。背後でドム爺が悲鳴じみた声を上げる。


「領主様! それ以上は……!」


 ぶうん、と空気が震えた。

 哨戒の魔蜂が一匹、二十間ばかり先の岩の上に降り、こちらへ頭を向けた。黒と山吹色の縞。鋼のような毛並み。腹の先に、短剣ほどの毒針が鈍く光る。

 翅が、細かく、複雑に震えた。

 その羽音を聞いた瞬間——源蔵の背筋を、雷が走った。


 『とまれ』


 意味が、わかった。

 音の高さ、震えの長さ、翅の打ち方。それらがひとつづきの「言葉」として、頭の中にすとんと落ちてきたのだ。

 魔蜂は続けて、短く翅を鳴らした。


 『それいじょう、ちかづくな』

 『みはり、こうたい。にしのはな、のこりすくない』

 『かえれ』


「……おい」


 源蔵は、乾いた喉で、呟いた。


「おまえ、いま——喋ったか」


 哨戒蜂は答えず、ぶうんと飛び立って、蜂蜜色の崖へ帰っていった。

 源蔵は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。恐怖ではなかった。四十年、聞きたくて聞きたくて、ついに一度も聞けなかったものが、いま、聞こえたのだ。

 ——蜂の、言葉が。


 夕陽が崖を焦がしていた。百万の羽音が、遠い潮騒のように荒野を満たしていた。

 源蔵は、笑った。若い顔で、皺だらけの笑い方をした。


「……ギデオンとやら。あんた、俺に言ったな。せいぜい蜂に刺されて死ね、と」


 行李を担ぎ直す。骨だけの村へ、大股に歩き出す。


「生憎だが——蜂ってのはな、刺すために生きてる虫じゃねえんだ」


* * *


 村に戻ると、村長の家に、村人が残らず集まっていた。

 二十七人。年寄りが十九、大人が六、子どもがふたり。新しい領主の顔色を、皆、葬式のような面持ちでうかがっている。この村で「領主が来る」とは、百年のあいだ、悪い報せと同じ意味だったからだ。

 囲炉裏端で、麦と青菜の薄い粥が振る舞われた。毒見をいたします、と怯える給仕を手で制して、源蔵は椀を受け取り、音を立てて三杯平らげた。


「……うまかった。馳走になった」


 年寄りたちが、顔を見合わせた。粥を三杯食う貴族を、誰も見たことがなかった。


「明日から、俺は北の丘に小屋を掛けて、蜂を見る。あんたらの畑と水汲みの刻限は、いままで通りでいい。ただ、ひとつだけ頼みがある——蜂の話を、聞かせてくれ。いつ飛ぶか、どこへ飛ぶか、何に怒ったか。爺さん婆さんの代の話でも、寝物語でも構わん」

「は、蜂の……話で、ございますか」

「おう。あれらの隣で暮らしてきたのは、王都の学者様じゃねえ。あんたらだ。あんたらが、この国でいちばんの蜂の物知りだ」


 しん、とした。

 やがて、囲炉裏の隅で、腰の曲がった婆様が、ぽつりと言った。


「……春先の雨上がりにゃあ、飛びませんのじゃ。あの子ら、羽が濡れるのを、そりゃあ嫌いなさる」

「『あの子ら』、と来たか。……いいねえ、婆様。それだ。そういう話が聞きたい」


 源蔵が身を乗り出すと、堰を切ったように、あちこちから声が上がった。花の谷の順咲きのこと。哨戒蜂の交代の刻限のこと。刺された山羊と、刺されなかった山羊の違いのこと。

 夜が更けるまで、骨だけの村は、百年ぶりに蜂の話で膨らんだ。


 その夜、源蔵は村長の家の囲炉裏端を借りて、板切れに木炭で書き付けを始めた。観察記録。四十年つけ続けた蜂の日誌を、六十一年目もまた、一行目から。


 【ダール養蜂日誌 一日目。天気晴れ。群、すこぶる健全。ただしデカい】

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