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五章 向秀黎明
二人と別れた後も、俺は大樹の下にいた。夜の帳が辺りを覆っていた。
星一つない暗闇の中で、己の存在だけが現実だった。
風が吹き、穴だらけの服が揺れた。炙られた皮膚の痛みが心地よかった。
俺は腕を回して、己の体を抱きしめた。
俺は何を下らないことを悩んでいたのだ。
死の淵に立ち、必死に逃げようとした。俺の体は無意識に生き延びようとした。
ただ、それだけだ。それだけで十分ではないか。
「嵆康」
友の名を呼ぶ。微かに琴の音が聞こえた気がした。記憶の中の美しい旋律に、俺は目を閉じて聞き入った。
「嵆康」
俺はお前を美しいと思った。今でもそれは変わらぬ。俺は臆病者だ。これも変わらぬ。
ただ一つだけ、俺は考えを改めた。
「俺はお前にはなれぬ。だが、お前も俺にはなれぬのだ」
暫しの別れだ、嵆康。もう少し、俺は俺らしく足掻こうと思う。お前のような立派な生き様は刻めぬが、向秀という一人の男がいた事実くらいはこの世に残そうではないか。
嵆康が返事をした気がした。俺は微笑んだ。
そうだ、嵆康。
俺は向秀。河南の向秀。
それ以外の何者でもない。




