四章 無音の悲鳴
不快な臭いが鼻腔を突いた。堂々巡りしていた思考が霧散し、同時に激痛が走る。
熱い。
反射的に腕を引く。見ると、袖が燃えていた。炎に近づきすぎたのだ。手首を炎が撫でる。掌も軽く炎に触れていたらしく、指を動かすたびに痛みと熱が広がった。
弾かれるようにして立ち上がる。服を燃やす炎は徐々に広がっている。皮膚が焦げていく。ぶわりと汗が溢れた。
水は、水はないか。
近くに川はない。嵆康と轍を打つ際には、井戸から汲み上げた水を酒瓶に入れて自宅から持ってきていた。自宅の井戸へと向かうか。否。近いといっても走って二、三分はかかる。向かっている途中にも、火は俺を喰う。
しかし、ここで何もしないでいたら確実に俺は死ぬ。死なずとも、全身に広がった火傷は想像を超越するほどの苦痛を齎すだろう。
死にたくない。
その一言が俺の中から溢れ出た。胸が鼓動を打つ。決して逃げられないことは分かっていながらも、何とか生き延びようと俺の体は暴れる。いくつもの思考が頭に浮かんでは消えていく。己では制御できないほど強く、生への執着は俺の全身に駆け巡る。
死にたくない。
ああ、なんと情けない。
俺は笑った。
嵆康は、無慈悲な運命を静かに受け入れたではないか。生き延びようと醜く足掻くことなく、美しくこの世を去ったではないか。
それに比べて、俺のこの無様な姿は何だ。親友を見殺しにしてなお、まだ生にすがりつくか。
情けない。情けないが、これはどうにも変えられぬ。
俺は生きたい。まだ死にたくなどない。
「向秀、こっちを向け!」
突然響いた怒号に反射的に体を向けると、大量の水が俺に降り注いだ。
あれだけ激しかった炎が、あっけないほど簡単に音を立てて消える。ぼたぼたと髪から滴る水滴が俺の視界を奪った。
腕で顔を拭い、細く立ち上る煙を消していると、大きな手が俺の腕を強く掴んだ。
「向秀、無事か」
そのまま揺さぶられ、痛みが体を走る。呻きながら体を捩らせると、別の方向から
「山濤。火傷を負った者を躊躇なく揺さぶるなど、嫌がらせと同義だぞ」
と呆れたような声がした。二つとも、聞き覚えのある声だった。
再び顔を腕で拭い、目を開ける。
滲んだ視界の中で山濤がひどく焦った様子で俺を見下ろしていた。
その後ろには、阮籍が酒瓶を手に地面に座り込んでいる。
阮籍の言葉に山濤は慌てて俺から手を離し、「悪かったな」と眉を下げた。
「久しぶりに本気で焦ったもんでな。どこか痛むところはないか」
「右腕を火傷している者がどこも痛まないと、本気で思っているのか?」
「お前さんは少し黙っていろ」
二人の会話は俺の耳を素通りした。
何故、二人がここにいる。そもそも、どうやって火を消したのだ。近くに川はない。
周囲を眺めていると、地面に三本の酒瓶が転がっているのを見つけた。どれも注ぎ口から少量の水が零れている。
「わざとか、向秀」
己へと向けられた声に視線を戻す。地面に胡坐をかき、酒を瓶から直接呷りながら、阮籍が俺を見ていた。
酔っているのだろう。全身真っ赤に染まり、瞳は濁っている。だが、いつもの人を食ったような口調は鳴りを潜めていた。嘘や冗談など受け付けないという頑とした意思がその言葉には宿っていた。
わざとか、向秀。
「いいえ」
俺は阮籍を見つめ返した。
「ただの事故です」
阮籍の瞳にずぶ濡れの俺が映っていた。服は焦げ、右腕を火傷し、髪が乱れたひどい姿だが、確かに俺だった。
ただの一人の人間がそこには映っていた。
阮籍は俺から視線を外し、再び酒を呷った。
「なら、いい」
そして興味がなくなったように俺に背中を向け、地面に横たわった。酒を最後の一滴まで飲み干し、腰に腕を伸ばして二本目を取ろうとする。
山濤が声をかけた。
「二本目はないぞ、阮籍。忘れたのか」
「……ああ、そうだったな。そこの大馬鹿者のせいで」
肩越しに俺を憎々し気に睨み付ける阮籍に戸惑っていると、山濤が「そこに転がっている酒瓶は、阮籍からぶんどったやつでな」と可笑しそうに笑った。
「お前さんが火に包まれているのが見えて、どこかに水はないかと探していたら、たまたま阮籍が道端で酒を飲んでいるのに出くわしたんだ。それで丁度いいと思って、酒瓶に水を汲んでお前さんにぶっかけたってわけだ」
地面に転がっていた酒瓶を一本拾い上げる。注ぎ口に鼻を近づけると、酒の臭気がした。
阮籍が舌を打つ。
「水を汲むために、並々と入れていた酒が全て地面に流された俺の気持ちが分かるか? お陰で一気に酔いが覚めた」
「良かったじゃないか。お前さんが正気でいるときなんて、ここ数年で数回しか見たことがない」
笑い飛ばす山濤には答えず、阮籍は静かに呟いた。
「今日だけは正気でいてはだめだ。正気でいては、心がもたない」
誰に向けるわけでもない呟きだった。
俺は残りの酒瓶を拾い集め、阮籍に手渡した。阮籍は、微かに残った水を飲み干した。
俺は山濤に「どうやって俺を見つけたのですか」と尋ねた。山濤は肩を竦め、「たまたまだ」と答えた。




