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向秀黎明  作者: 塩崎栞
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三章 昔日の希望

 火が燃えている。

 乾燥した空気の中で、火は縦横無尽に踊った。俺は時々風を送り、火がその姿をより巨大なものへと変える様をじっと眺めていた。


 処刑場を出た後、俺の足は自然とあの草原へと向かった。


 曇り空へと無数の枝を広げる大樹を目にしたとき、俺はその根元が空っぽであることに胸を衝かれた。俺が行ったときには既に嵆康が木の根元に座っていて、曲や詩を口ずさみながら俺を待っているのがいつもの光景だったのだ。


 もう二度と目にすることはない光景だ。


 俺は地面に座り込み、木材を火の中へ投げ入れた。背中を丸めてぼんやりと火を眺めながらも、不思議なほど思考は明瞭だった。


 嵆康を公開処刑に追い込んだのは鍾士季だろう、と俺は確信していた。


 山濤と阮籍から聞いた話が真実ならば、鍾士季にとって、嵆康は目の上のたん瘤だった筈だ。一本の松のように高く聳え立つ嵆康を地に引きずり下ろす機会を彼が虎視眈々と狙っていたことは、数か月前の出来事からも察せられる。


 嵆康が鉄を鍛えている。その噂を耳にしたとき、鍾士季はまず武器製作を疑ったのだろう。

 武器を作っていたなら、その用途が何であれ反乱分子として捕らえることができる。

 作っていなかったとしても、嵆康が鉄を鍛えているという事実を使者たちと共に確認し、王宮で「嵆康が鉄を鍛えていた。今に反乱してくるぞ」と騒ぎ立てればいい。反乱の意図などないことを嵆康が主張したとしても、「勘違いされるような行動を取ったのが悪い」で押し通せる。鉄を鍛えていたことは事実なのだから、後々責任問題が生じることもないわけだ。


 まずは、鉄を鍛えている現場を押さえる。

 その為の監視、その為の訪問だ。


 鍾士季は、嵆康を公開処刑にまで追い込んだ。ならば、あの刑場にいたのだろうか。


 俺は学生たちに交じって見物している鍾士季の姿を想像する。その唇は緩く弧を描き、一瞬たりとも見逃さないように爛々と目を光らせている。その足元には一人の男が蹲っている。処刑を止める為の行動を何も起こさなかったばかりか、嵆康の視線を受け止めることすらしなかった男が、情けなく縮こまっている――俺だ。

 俺は思いきり風を送った。炎は一回り以上も大きくなり、音を立てて爆ぜた。俺は鞴を地面に置き、縦横無尽に跳ねる炎を暫し眺めた。


 嵆康は立派だった。己の意志を貫き通し、死の淵に立っても決して動じなかった。少なくともあの刑場で、誰よりも死に近い筈の嵆康は誰よりも真っ直ぐに前を見据えていた。


 網膜の奥に残っている嵆康の後ろ姿の残骸が、十数年前の彼の姿と重なった。


 司馬昭がいうところの危険な思想。その思想を嵆康に教えたのは、他ならぬ俺だった。


 自宅が近い上に、それぞれの親が役人同士だったこともあり、俺と嵆康は幼い頃から仲が良かった。共に川で魚を捕り、急な暴風雨の中を走って帰り、草原に寝っ転がって何時間も下らぬ話をした。

 お互い青年と呼べるような歳になり、役人になる為の勉学に励むようになったとき、俺はひどい閉塞感を覚えるようになった。

 当時、政治は腐敗していた。私利私欲に走った宦官たちによって世は乱れ、いくつもの乱が起こった。極めつけに曹操という一介の政治家が実質的な権力を握り、献帝よりも強大な力を振るった。官僚は形式的な従順を見せながらも、裏ではいつでも寝首を掻けるように牙を研いでいた。


 乱世であった。そこに蔓延るのは偽善的な礼だ。


 我が国の官僚社会の根底には、儒家思想がある。春秋時代末期に孔子によって説かれたその思想の中でも特に、官僚は「礼」を重視する。人が従うべき社会の規範、両親や友人に対する感謝を相応しい方法で行動に表そうとするのが「礼」だ。


 権力を奪い合う生き方のどこが「礼」だ。俺はそう思ったのだった。


 科挙に合格する為の勉学を進めれば進めるほど、俺の心は官僚社会から遠のいた。

 役人の子は役人。その常識が厭わしかった。

 俺は勉学に励む振りをして、父親の書斎から面白そうな書物を勝手に取り出しては、自室や草原で読み耽った。


 あるとき、俺は書物の中で一つの思想に出会った。

 書物の名は「荘子」。古の思想家が著した一冊の書物には、俺が想像したこともない景色が描かれていた。

 そこには社会規範に囚われず、個々が自由に生きることについての思想が説かれていた。


 時流に流されず、超然として心穏やかに過ごすことを善とする。無用な苦しさや虚しさを捨てるべく、一切をあるがままに受け入れ、天地自然の成り行きに身を任せる――「無為自然」。

 老荘思想。春秋戦国時代に生きた老子と荘子の思想を纏めたものだ。

 儒家思想のような窮屈な規範や枠組みはない。代わりに、鳥が囀り、水がせせらぎ、獣が悠々と歩き回る大自然が広がっていた。


 薄暮のように捉えどころのなかった俺の心に一筋の光明が射しこんだ。


 それから俺は夢中になって「荘子」を読み進めた。元々書物は好きだったのだ。瞬く間に読破し、更なる啓示を得ようと他の書物も読み漁った。

 寝ても覚めても文字を追っていた。 

 俺の異変に最も早く気づいたのは嵆康だった。

「そんなに熱心に、一体何を読んでいるのだ」

 草原に寝転がって書物を読んでいた俺は、隣に座る嵆康に視線を移した。彼は琴を抱え、適当に爪弾いていた。

 俺が学業を放り出して外出していると知ったとき、嵆康は咎めることも見限ることもしなかった。黙って俺と共に草原や川辺へ行き、琴をただ弾いた。

 俺は何度も読み返した書物を腹の上に置き、伸びをした。麗らかな春の陽気が心地よかった。

「『荘子』だ」

「聞いたこともないな」

「老荘思想を説いた思想家だよ。嵆康、老荘思想は知っているか?」

「いや」

 嵆康は胡坐をかき、膝の上に琴を乗せていた。胸の辺りまで伸びた彼の髪が風にそよぎ、小雨のように楽器に降りかかった。

 俺は幼馴染の顔を眺めた。かつては非常に愛くるしかったその横顔は直線が増え、精悍な青年の顔つきに変化していた。美青年と呼んでも差し支えない年齢に嵆康はなっていた。

「お前も気に入るだろうよ」

「何故?」


「これは官僚社会に疑問を抱く者を救う思想だ」


 嵆康は俺を見た。長い睫毛に縁どられた瞳が真っ直ぐに俺を射抜いたと思ったら、不意に歪められた。

 幼い頃に俺と共に悪戯をして、母親に怒られた際の泣き顔とよく似ていた。

「気付いていたのか」

「当たり前だ」

「気取られないようにしていたのだが」

「お前の両親は気付いていないだろ。俺の親もだ」 

「私は、お前のような分かりやすい反発は見せていないからな」

 嵆康は喉の奥でくつくつと笑った。琴を地面に置いて俺の横に寝転がり、「詳しく教えてくれ。どのような思想なのだ」と俺の顔を覗き込んだ。


 それからは早かった。大地が水を吸収するように、嵆康は老荘思想を己の中に取り込んだ。「荘子」は直ぐに読み終えたが、俺ほど書物を好まない嵆康にとって読書という行為は中々骨が折れるものらしく、よく俺に内容を説明させた。

 特に嵆康が好んだのは、老荘思想を拠り所として官僚社会から離れて生きた古の隠者たちの伝説だった。寝物語を強請る子供のように、何度も俺に同じ話をさせた。仕舞いに俺はほとほと嫌気が差してしまった。

「また巣父(そうほ)許由(きょゆう)の話か?」

 俺は溜息を吐いた。

 古の高潔の士として伝えられている巣父と許由。息子の許由が仕官を薦められた際、許由は「仕官」という言葉のせいで耳が汚れたとして川で耳を洗った。巣父もその川の水が汚れているとして、その川を渡らず、自分の牛にその水を飲ませることもしなかった。

「二人の話ばかり、いい加減飽きたろう」

「古の賢人たちの話は、何度聞いても飽きるなんてことはない。寧ろ回を重ねるごとに背筋が伸びる心持がする。私も、二人のような堅固な意思と高い理想を持って生きたいものだ」

 己の理想を語るとき、嵆康はいつも遥か遠くを見つめていた。眼前に広がる洛陽の都も、強大な権力を誇示するかのような豪奢な宮中も、その瞳には映っていなかった。

「向秀」

 嵆康は振り返って俺を見た。地面に座り込んでいた俺は、彼を見上げた。

 逆光に照らされ、一人の青年の輪郭だけが浮かび上がっていた。表情は影に覆われ、見えなかった。


「私はどこまでも行くぞ、向秀。お前が夢見る光景の遥か先、私自身が見据えているその更に向こうまで。山紫水明の地が私の死に所だ」


 その日だけ、嵆康は俺を一人残して帰路に着いた。俺は小さくなっていく背中をいつまでも眺めていた。

 そのときの後ろ姿と、刑場で見た後ろ姿がぴたりと重なった。


 俺は肺に溜まっていた空気をゆっくり吐き出した。背中を丸め、立てた膝の間に頭を入れる。服の隙間から空風が入り込み、俺を凍えさせた。己の軀が冷え切っていることを今更ながらに自覚し、これでは死人と変わらぬと自嘲する。

 悴んだ手を炎に伸ばした。


 この熱すらも、嵆康がもう感じることはないのだ。


 老荘思想を嵆康に教えたのは俺だった。思想は己を守る盾となり、異端を排除する矛となり、違う世界へ己を連れてゆく一対の羽となる。


 同じ羽だったが、嵆康は俺よりも高く飛んだ。


 嵆康の羽は大きかった。青空を飛翔する嵆康を、俺は美しいと思った。絵空事のような理想を本気で口にする彼が眩しかった。

 だが、例え雲雀であっても空を飛べば地上に影ができる。嵆康はその羽で高くまで飛ぶことが出来た。あまりにも高く飛び過ぎた。嵆康が地上に作った影は役人共が看過できないほど深く、暗く、そして心地よかった。

 だから嵆康は羽を毟り取られた。残されたのは、虚空を見上げることしかできない俺だ。


 ――向秀。

 嵆康の声が脳裏に浮かぶ。記憶の中の彼はひどく遠いところにいる上に、全身が黒く塗り潰されていた。

 ――山紫水明の地が私の死に所だ。


 優れた思想家であり、危険な隠者であり、琴の名手だった嵆康が死んだ。あの処刑場に集った奴らの感覚はせいぜいそんなところだろう。


 思想家や隠者以前に、あいつは俺の親友だった。共に理想や夢を語った、たった一人の幼馴染だった。


 嵆康。


 声には出さずに呟く。


 俺はこれからどうすればいい?


 今後、俺は司馬昭から仕官を求められるだろう。鍾士季は人事を司っている。嵆康と親しかった俺を出仕させることで、司馬昭の影響力が強大なことを周囲に示すと同時に、そんな主君に仕える己の地位の向上を狙うであろうことは想像に容易い。

 嵆康のように最期まで拒否するか? それとも耳が汚れたといって、そこらの川で耳を濯ぐか? 

 俺はくぐもった笑い声を上げた。益々背中を丸め、視線を落とす。


 できない。拒否することも、巧みに言い逃れることも、俺にはできない。老荘思想という羽を持ちながら、飛ぶことも嵆康を追いかけることもせず、呆けた面で彼に見惚れるだけだった俺には。地平線のその先すら己の視野内だった嵆康に対して、俺はどれほどちっぽけな存在か。

 嵆康。嵆康。嵆康。

 何度も名を呼ぶ。返事は当然、ない。

 嵆康。

 洛陽の東の市場が、お前の首を落とす舞台だった。


 何故あんな場所でお前は死なねばならなかったのだ。

 何故俺だけが生き残った。

 俺が――生きている理由は何だ?


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