二章 陰謀の香
嵆康の背後へ音もなく忍び寄る陰謀の気配を、俺は確かに感じ取っていた。小さな鳥の羽ばたきのように微かなものだったそれは、ほんの数か月前に色濃い不安へと変化した。
晩秋の夕暮れだった。
俺と嵆康は、一本の大樹の下にいた。
二人の自宅からほど近い草原に根を張る大樹の下は、轍を打つのに理想的な環境だった。嵆康が槌を振るって鉄を鍛え、俺はその補佐として鉄を高温にする為の火力を上げる風を送っていた。
嵆康が槌を振り下ろす。火花が飛び散る。俺は風を送り、火が自由自在に形を変える手助けをする。
再び嵆康の腕がしなる。彼が体を動かすたびに、汗が弾け飛ぶ。俺も顔を振って、汗を飛ばす。
めらめらと炎が燃え盛る。槌を振り下ろす。風を送る。
単調な作業だ。ふっと集中力が途切れた一瞬、複数人の足音を耳にした。火が弱くならないよう気に掛けつつ、振り返る。
病的なほど青白い肌をした男が複数人の使者を連れて、俺たちの背後に立っていた。その服装や佇まいから、役人だとすぐに知れた。
仕官を強く拒み、司馬氏にさえ強気な態度を貫く嵆康を快く思わない役人は多い。言い掛かりでもつけにきたのか。
狐のような細目で俺たちを見るその男を気味悪く思い、俺は「おい、嵆康」と囁いた。
嵆康は俺に見向きもしなかった。否、俺だけではない。背後の男にすら、彼は興味を示さなかった。嵆康の澄んだ瞳には、燃え盛る火だけが映っていた。
その動作しか知らないかのように、彼は何度も何度も槌を振るった。一心不乱なその様子に、俺は息を吞んでいた。
男は背筋を伸ばし、重々しく口を開いた。
「叔夜」
その毅然とした声は、嵆康の耳には届いていないようだった。男はもう一度呼んだ。
「叔夜、君と少し話がしたいのだ。まさか、この私を知らないわけではあるまい」
嵆康は一度手を止め、汗を拭った。微かな溜息がその口から漏れた。男が一歩前に出て更に喋ろうとしたのを邪魔するように、嵆康は「向秀」と俺に視線を向けた。
「火が弱い」
俺が慌てて風を送って火力を上げると、嵆康は満足気に頷き、再び鉄を鍛え始めた。
背中に突き刺さる視線が益々剣呑になった。小さな舌打ちも一つ聞こえた。俺は息を潜めて、己の役割に熱中する振りをした。
男はそれ以上口を開こうとはしなかった。
数十分は経っただろうか。男と使者たちが踵を返す気配がした。嵆康の態度に、これ以上の交流を諦めたらしい。ほっと安心しかけたとき、嵆康が鉄を見据えたまま静かな声で聞いた。
「何を聞きにやって来て、何を見て帰ってゆくのか」
ぎょっとする。思わず嵆康を見た。
彼の横顔は半分だけが火に照らされているせいで、白い頬と凪いだ瞳だけが夕闇の中から浮かび上がっていた。高い鼻梁を汗が滑った。役人に余りにも侮辱的な言葉を投げたにも関わらず、嵆康の雰囲気は美しく澄み切っていた。
その横顔からは何の感情も読み取れなかった。
切迫した状況にも関わらず、俺は暫しその横顔に見惚れた。美しい、と素直に感じた。
対して男の纏う空気は一変した。怒りを全身から発する男は吐き捨てるように答えた。
「聞いた通りのことを聞いて、見た通りのことを見て帰ってゆくまでだ」
男が荒い足取りで帰ってゆくのを、俺は黙って眺めていた。
変わらず鉄を鍛え続ける嵆康は、一連の出来事について何も思っていないようだった。再び嵆康に促された俺は、火に向き直った。
あの役人は誰だったのか。そればかりが気に掛かった。
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「そりゃあ、お前さん。その男は鍾士季だろう」
即答だった。俺は山濤をまじまじと見た。
「何故、そんなに断言できるのです?」
「お前さんが話してくれた特徴だよ。病的なほど青白い肌に、狐みたいな目。家来をぞろぞろ連れて、高飛車な物言いをして、ちょっとしたことに怒りを爆発させる。官僚は数えきれないほどいるが、その特徴を全て兼ね備えた男は鍾士季以外にはいねえな」
あんなに神経質な奴も珍しい、と山濤は笑い、酒をぐいと呷った。
まだ昼間だったが、竹林には冷気が立ち込めていた。足音や呼吸は竹に吸収され、凛とした静けさが辺りに立ち込めている。清澄な空気は、吸うたびに肺に軽い痛みを与えた。時折吹く風は、微かなせせらぎを伴っていた。
官僚社会から外れて大自然のもと自由に生きる所謂隠者たちが、いつから洛陽の郊外に位置する竹林の下に集うようになったのか、俺は正確に記憶していない。
暇があれば足は自然とここへ向かうようになり、いつ訪れても誰かがいた。
そこで俺は気分の赴くままに山濤と酒を呑み、嵆康と琴を奏で、語り合った。
その日も獣道を辿ってゆくと、山濤と阮籍がいた。二人とも司馬昭に出仕する官僚の身だ。数日前に嵆康を訪ねてきたあの役人を知っている可能性があった。
特に山濤は顔が広い。名前くらいは分かるだろうと、俺は事の経緯を説明した。
どうやら俺の予想は当たっていたらしい。一度説明しただけで、山濤は断言した。
そりゃ、鍾士季だ。
「鍾士季といやあ、阮籍、お前さんの方が詳しいだろ。やけにあいつはお前さんを敵対視しているからな」
山濤は後ろを振り返った。
「そうなんですか」
俺も視線を向ける。地面に寝転がって酒瓶から直接酒を呷っていた阮籍は、濁った眼を俺たちに向けた。
「何だって? 悪いが、話を聞いていなかった」
ひどく詰まらなかったものでね。
そう言い放った後、再び酒を呑み始める阮籍に、山濤は溜息を吐いた。
「鍾士季のことだ。お前さんはよく知っているだろ」
「ああ、あの鉄面皮がどうかしたのか。あの男の朝靴に馬糞を詰め込む計画があるのなら、私は喜んで参加するが」
「お前さんは一体全体何を言っているんだ?」
何故この男が未だに宮中を追い出されていないのか。
この竹林で阮籍に会う度に、俺の頭には純粋な疑問が浮かぶ。
阮籍とは嵆康を通じて知り合った。「破天荒で、言動に一貫性がない」という嵆康の紹介通り、生まれたての赤子よりも行動の予測がつかない男だったが、意外に交流は続いていた。
素面でいることなど滅多になく、己の身なりにも全く気を遣わないこの男が、宮中で歩兵校尉という役職に就いていると知ったときはひどく驚いたものだ。嵆康ほどではないが、阮籍も権力を嫌っている。何故庭番などしているのか、と尋ねると、阮籍は「庭番になれば、そこの倉庫に積み上がっている酒が飲み放題だろう?」と酒草い息で答えた。
「鍾士季が嵆康に会いに来たそうだ」
山濤の言葉に、阮籍は「へえ」と薄っすら笑った。揺らされた酒瓶の中で酒が跳ねる音がした。
「あいつが嵆康に? また恋文でも持って馳せ参じたのか」
「また?」
「なんだ、向秀、知らないのか」
山濤が意外そうに俺を見る。阮籍は俺を横目で見て「嵆康だって何でもかんでも、そこのお坊ちゃんに話しているわけではないだろう」と言った。
阮籍の言葉に多少苛立ちはしたが、俺だけが知らない話があることへの好奇心が勝った。俺は身を乗り出した。
「何の話です?」
「あれは確か……一年前か。嵆康の家に、鍾士季からの文が投げ入れられたことがあるんだ」
「文?」
「一面に、鍾士季の持論がびっしりと書かれていたらしい。ある意味、司馬氏からの催促状より恐ろしいな」
阮籍が鼻で笑った。
「あの自己顕示欲ばかり高い男は、思想にも独自の解釈を持っている。それを偉そうに教授してくるだけでも鬱陶しいのに、何を勘違いしたのか、己は嵆康と肩を並べるほどの思想家だと考えている」
阮籍はそこで酒を口に含んだ。空になった瓶をそこらに放り、新しい酒を開ける。
もう五本目だ。
「そこで、持論を嵆康に読ませようとあいつの家の前まで来たはいいいが、直前で怖気づいて文だけを投げ入れたそうだ。全く、情けない男だ」
残照を僅かに浴びていた男の顔を、俺は思い出す。
あの役人は、持論を嵆康と語り合う為に俺たちの許を訪れたのか。否。そんな友好的なものではなかった。
あの男が浮かべていた表情は敵意、そして疑念であった。
「まあ、向秀の話を聞く限り、仲良くお喋りする為に来たわけではなさそうだがな」
山濤も俺と同じ意見らしい。
「ほら、お前も飲め」
酒瓶を渡され、俺も一気に呷った。熱い塊が喉を過ぎていく感覚に、ふとその鍾士季とやらは何の官職に就いているのだろうという疑問が頭をもたげた。
阮籍は既に俺の話に興味を失ったらしく、酒瓶に纏わりつく蠅をやけに熱心に観察していた。俺は山濤に尋ねた。山濤は「あ? あいつの官職?」とがしがしと頭を掻いた。
「確か、人事を司っていた筈だが」
「人事ですか」
「鍾士季はゴマすりだけは上手いからな。着々と出世の道を歩んでるよ。それがどうした?」
地面に落ちた影が濃くなったような気がした。俺は微かに刺激的な香りを鼻腔に感じた。それは死の香りだった。
そのときようやく、鍾士季が嵆康を窺いに来た理由に俺は思い当たったのだった。
〈ちょっとした説明part2〉
・阮籍………「竹林の七賢」の一人。七人の思想家の中で、一位二位を争うほどの自由人。酒を飲みたいから役人になる、気に入らない客には白い目をしてそっけなく応じるなど、自らの欲望のままに生きる一方、母親の葬式で号泣するあまり血を吐いたり、心を蝕むような孤独を歌った詩を残したりするなど、何かとオタクを狂わせる。




