一章 嵆康の処刑
筆者は、老荘思想について大学の講義で学んだだけの素人です。
登場人物の関係性も、当時の中国についての描写も、捏造が多々あります。
史実や実在する人物とは何の関係もありません。ファンタジーとして読んでください。
俺の手の届かない場所に嵆康はいた。
洛陽の東の市場が、彼の首を落とす舞台だった。
刑場は酷く底冷えしていた。その一帯だけ陽が当たっていないかのように薄暗く、乾いた風が刑場を取り囲む俺たちに吹きつけた。
役人共や俺のような野次馬の他に、太学の学生三千人がそこにはいた。嵆康の助命を嘆願するべく集まったのだ。
思想家として名を馳せている嵆康に師事したい旨が、嘆願書には刻まれていた。
三千人分の署名。だが、司馬昭の目は竹簡の上を素通りしただけだった。予定通り公開処刑は行われることになり、不満と落胆、そして批判のざわめきが刑場を満たしていた。
俺は学生たちの一番後ろにいた。いくつもの頭の間から見える嵆康の小さな後ろ姿を、俺は見つめていた。彼はつい先程、この刑場に連れて来られたばかりだった。
嵆康は、不気味なほどいつも通りだった。
七尺八寸の長身はすらりと細長く、背筋が伸びていた。長い首からなだらかな肩へと続く曲線が優美だった。一晩独房で過ごしたせいで服が乱れ、髪の纏め方は無造作だったが、それが一層彼の迫力を際立たせているのだった。
その思想を危険視され、処刑まで追い込まれたとは思えぬほど高潔無比な男がそこには立っていた。
嵆康は一心不乱に前を見つめていた。自分以外の全てを拒むような雰囲気が彼の周囲に漂っていた。腰に添えられた指先すら、ぴくりとも動かなかった。
嵆康の背中は遠かった。
「これより叔夜の処刑を始める」
処刑人の声が響いた。感情などどこかに置き忘れてきたようなその声に、俺は思わず処刑人の横顔を見た。体躯だけが大きい、田舎臭い男だった。その男が冷めた目で嵆康を一瞥し、ほとんど乱暴ともいえる手つきで彼の腕を掴んだとき、俺は叫びそうになった。
しかし、俺の喉から声は出なかった。ただ、吐息が漏れ出ただけだった。
刑場の中央に冷たく鎮座している斬首台へ引っ張られそうになり、力を込めてその場に留まった嵆康は、不意に振り返った。
距離があるとはいえ、嵆康の真後ろに俺はいたのだ。目が合ってもおかしくはなかった。だが、彼の視線は俺の頭があった場所を通り過ぎた。
涼やかな瞳と視線が交わりそうになったとき、俺は反射的に身を屈めたのだった。なぜそんなことをしたのか、自分でも分からない。嵆康が薄い雲に覆われた太陽を見上げている間、俺は息を潜めて、学生たちの汚れた足を数えていた。
一秒一秒がひどく長かった。息苦しさの中、俺の頭には現実離れした妄想が渦巻いていた。
俺がこうして地面に這いつくばっている間は、時の流れが遅くなっているのではないか。ならばこのままこうしていれば、嵆康の処刑も先延ばしになるのではないか――。
聞き慣れた声がした。怒鳴ったわけでも叫んだわけでもないのに、穏やかに澄んだその声には聴衆を黙らせる静けさがあった。
「琴を私に」
立ち上がる。
乏しい色彩の景色の中で、嵆康が処刑人から手渡された琴を抱いていた。彼が少し俯いて、琴を撫でているその横顔が、俺がその日初めて見る嵆康の顔だった。後ろ姿と同じように、表情までもが普段と何ら変わりなかった。
共に山に籠り、琴を弾き、酒を飲み、日夜清談に明け暮れた親友がそこにはいた。
嵆康の指が最初の一音に触れる直前に、俺は踵を返した。
この世のものとは思えぬほど美しい琴の音色に感嘆する学生たちの声を振り切るようにして、早足で離れる。
あと一歩で市場を出られるというときに、俺は向かいから走ってきた男に呼び止められた。
「向秀か?」
子供のような瞳を大きく見開いた男が、俺をまじまじと見ていた。よっぽど急いで来たらしく服や髪は乱れ、頬は赤く火照っていた。
見知った顔だった。
男は俺を見つけたことで、ひどく落胆したようだった。
「そうか。お前さんが帰ろうとしているってことは、嵆康はもう……」
ぐっと眉間に皺を寄せた男に、俺は「いや、まだ間に合いますよ」と刑場の方に視線を向けた。
「刑はまだ執行されていない。嵆康を見たいなら今のうちだ。色んなお方に嵆康を見逃してくれるよう、今の今までかけ合っていたのでしょう?」
「何でお前さんがそれを知っている」
「あんたに一度でも会ったことのある人間なら、嫌でもわかりますよ。あんたは嵆康の才能に惚れ込んでいたから。違いますか、山濤」
目の前の男はぎょろりと目を見開いた。
「才能だけじゃないぞ。俺はあいつの生き様に惚れたんだ」
お前さんもそうだろう、と山濤は俺の肩を叩いた。
同郷の山濤に嵆康を紹介したのは、ほんの数年前のことだ。
洛陽で俺と轍を打ち、山麓では呂安と田畑を耕しながらも、琴に詩を乗せて悠々自適な生活を送る嵆康の噂を耳にした山濤が、是非とも酒宴を共にしたいと願い出たのだった。
同郷とはいえ、それまでほとんど顔を合わせたこともなかった山濤に突然話しかけられた際には困惑したものだ。その頃には既に官僚社会から離れていた俺ですら、名前を知っていたのだ。
彼はいい意味で有名だった。
四十歳という異例の遅さで出仕したことや、賤吏ながらも司馬昭に重宝されていることは風の噂に聞いていた。その優秀さと竹を割ったような性格故に、人望が厚いという評判もあった。
俺は山濤との短い会話で、それらの話が嘘でなかったことを知った。十八も年下の俺を、山濤は知己の友のように扱った。
のみならず、山濤は俺や嵆康と同じ思想を持っていた。
俺が嵆康を紹介するのに時間はかからなかった。
嵆康の一途な生きざまに山濤が心の底から惚れこんだことは、その後彼が事あるごとに嵆康を褒め称えたことから自ずと知れた。良くも悪くも他人に囚われず、滅多に人を褒めることのない山濤が、嵆康ともう一人の友人である阮籍の話ばかりするため、内妻の氏が不思議に思ったこともあるらしい。
己の友人は阮籍と嵆康のみだ、と明言する山濤にとって、嵆康の処刑は青天の霹靂であることに違いなく、彼の死を避ける為にあらゆる手を尽くすだろうことは容易に想像できた。
息を切らしている様子や服装から察するに、嵆康の処刑は免れないことを見て取り、全ての業務を放り出して駆けつけたのだろう。結果は変わらなかったとはいえ、最後の瞬間までこの男は嵆康を救う為に奔走したのだ。
刑場で嵆康の演奏を聴いているあの学生三千人もそうだ。司馬昭の心を動かすことはなかったが、己の不満を署名という形にして嘆願した。
では、俺はどうだ? 俺は、何かしら行動を起こしたか?
数少ない親友が死に直面してもなお、俺は権力に流されるまま刑場に足を運んだのではなかったか?
「向秀、どこに行くんだ」
腕を掴もうとしてくる山濤の手をかわし、俺は今度こそ市場から出た。風に乗って微かに空気を震わせている琴の音色に、耳を澄ませる。
「俺が最後に見たとき、嵆康は琴を抱いていた。曲を弾くつもりでしょう。恐らく、というか間違いなく、あいつが弾くのは『広陵散』です」
嵆康が西南の旅館に一泊した際、幽鬼から教わったという「広陵散」。
俺の前でも、嵆康は度々その曲を奏でた。深い山奥で人知れず滴り落ちる水滴のように美しく澄んだ曲を教えて欲しいと何度も懇願したが、最初の一音すら彼は誰にも伝授しなかった。
「あの素晴らしい曲は、あいつにしか弾けない。今日、あいつと共にあの曲も滅びる。曲を弾き終わるまでに向かったほうがいいですよ」
「おい、向秀!」
もう振り返らなかった。俺は地面に転がっていた小石を一つ蹴飛ばした。
〈ちょっとした説明〉
・嵆康………三世紀の中国で、魏から西晋にかけて動乱期に現れた「竹林の七賢」と呼ばれる思想家の一人。高身長イケメン、大酒飲み、精神高揚剤を常用し、詩と音楽が好きで、朝寝坊大好きだった、という情報が文献に残っている。個性派揃いの「竹林の七賢」の中でも、特に目立つ一本柱。
「叔夜」は字(昔の中国で、成人した男子が本名とは別にもつ名前。読み方は「あざな」)。
・向秀………「竹林の七賢」の一人。あまり文献が残っていない。「地味な人だったのかな?」という印象を受けるが、嵆康の処刑の後に司馬昭の命を受けて政治に参加したり、嵆康と共に過ごした過去を懐かしむ詩を残したりと、端々から激重感情が窺える本作の主人公。
・山濤………「竹林の七賢」の一人。度量と人望があり、官僚としても重用された。嵆康と阮籍(同じく「竹林の七賢」の一人)のことが大好き。




