Suite.8「朧気な記憶とサル共」
「……また、いこうね」
「えっ……あ、はい是非。ただ、次は運転は任せてくれたら…」
「ダメ」
「ですよね。すみません送ってもらって、ご馳走様でした」
「うん。じゃあ……また夜ね」
帰りも、案の定の絶叫ドライブ。
なんとか生き延びて、ホテルの駐車場で車を降りた俺に、詩七美さんは小さな手をひらひらと小さく振って早々に帰路についた。
──────『また夜ね』。
つまり彼女はこれから家に帰って僅かな仮眠を取り、数時間後にはまたこの戦場へと戻ってくるのだ。本当に、どうなっているんだあの人の体力は……。
朝の光を浴びながら、俺はポケットの中の六角レンチを握りしめ、小さくため息をついた。
本来なら今すぐ自室である217号室へ戻り、泥のように眠りたいところだ。
だが、今のあの部屋には、あの『ちとせちゃん』なる素性不明のミニスカポリスが居座っている。そう思うと、どうにも真っ直ぐ部屋へ帰るのに抵抗があった。
俺は現実逃避も兼ねて、足を進める方向を変え、控え室とフロントの位置する方へと向かった。
「あら、大庭くん。まだ残ってたの? お疲れ様ねぇ」
控え室の扉を開けると、そこには日勤の古参スタッフである小山さんがいた。
小山さんは、俺たちが明け方に投げ出してしまった山積みの事務処理や荒れ果てたフロント周りを、すでに一人で綺麗に片付けてくれていた。車番表もジャーナルも一日分の売上に分けられピシッと整えられており、コピー機の用紙までもしっかりと補充されている。
「すみません小山さん、夜勤のゴタゴタをそのままにしちゃって……」
「いいのよ、昨日の夜は凄かったみたいだものね。卯月ちゃんから聞いたわよ」
小山さんは穏やかに笑いながら、手慣れた様子でポットのお湯を継ぎ足していく。
二年前のスタッフ一斉退職の際、店長と詩七美さん以外に唯一このホテルに残ったベテランのおばちゃんだ。
「それにしても、最近はこの職場もすっかり若返ったわねぇ。卯月ちゃんに、大庭くんみたいな若い男の子まで入ってきて」
「はは……まぁ、俺なんてただの賑やかしみたいなもんですけど」
「ううん、助かってるわよ。……前はね、それこそ二年前の改装前までは、今よりもずっと大人数で回してたんだけどねぇ。フロントもリネンも、常に何人もいて……」
小山さんはどこか遠い目をしながら、ぽつりとそんな事を溢した。
やはり、二年前まではそれなりに、売上に比例した真っ当な人数がいたのだ。それがなぜ、店長と詩七美さんと小山さんだけを残して一斉に消えてしまったのか。
聞き出そうかとも思ったが、徹夜明けの重たい頭ではそこまで踏み込む気力が出ず、俺は小山さんに軽く頭を下げて控え室を後にした。
***
意を決して217号室へと戻ると、俺はまず、すっぽ抜けたままだった内扉のドアノブを直すべく、玄関先に膝をついた。
外れた真鍮のノブを四角い芯棒に差し込み、下側の見えない位置にある小さな固定穴へ、手探りで六角レンチを宛てがおうとする。
すると、もしかしたらプライベートの無い悶々とした日々が見せた劣情由来の幻なのでは無いかと存在を疑っていた彼女が、そんな希望的観測を唾棄する様にやはり確かにそこに存在し、ベッドの上でゴロゴロと珍妙なポーズで転がっていたかと思えば、いつの間にか俺のすぐ背後までトコトコとやって来て、肩越しにひょっこりと顔を覗き込んできた。
「んっと、ここか…?」
薄暗い玄関先。手元の感覚だけを頼りにレンチの先を動かしていると、ちとせが俺の耳元で、やけに熱っぽく湿り気を帯びた吐息を漏らした。
「んっ……もっと奥の方……」
「奥って、ここか?」
俺が芯棒をグッと押し込みながら角度を変えると、ちとせはさらに声を潜め、わざとらしく身をよじるような甘い声を張り上げた。
「んんっ! ……もっと真ん中の上の方、上にずりずりってして……一番奥……コンコンって……して?」
――ピキッ、と俺のこめかみが音を立てて引き攣る。
「おい、何のつもりだ」
「なにって、お手伝い?」
「なんのだよ」
「ナニのっ!」
「──────やめてくれませんかねぇ!?」
俺はレンチを握りしめたまま、背後の不埒なミニスカポリスに向かって全力で吠えた。
「ぷっ、くふふふっ! なんだー、ノリわる〜い!」
「ノリが良い悪いの問題じゃない! 外の廊下にまで聞こえたらどうすんだ! ただでさえラブホの一室なんだぞ、本当に誤解されたら俺の社会的生命が完全に終わるだろうが!!」
「えー? 私はただ、ネジ穴の位置を親切にナビゲートしてあげただけなのになぁ〜」
ケラケラと腹を抱えて笑うちとせにげんなりしながら、俺は「真ん中の上の方」とやらにレンチを滑り込ませ、今度こそカチリと噛み合ったネジを力任せに締め上げた。
ガタつきが消え、ようやく真っ当な扉としての機能を取り戻す。
「おー、直った直った! さすが同居人くん、テクニシャンだねぇ!」
「誰がテクニシャンだ、やかましいわ。……ほら、これやるから大人しくしてろ」
俺は未だにニヤニヤしているちとせの前に、帰りしな別腹を申告してきた詩七美さんと立ち寄った駅前のパン屋さんの袋を放り投げた。
「あれっ、これ駅前の『オジ-パン』じゃん!!」
「あぁ、ここいらのパン屋じゃあそこのパンが一番美味い」
「あ〜でも「パルミエ」ないじゃ〜ん。よって八十点!」
「八十点も取れれば十二分だな」
「むぅ……まぁいいや、…ありがと〜!」
嬉しそうに袋をまじまじと、キラキラした目で見詰める彼女を尻目に、俺はシャワーを浴びる気力すら尽き果て、そのまま重くなった腹を引き摺りベッドの端っこのスペースへと倒れ込んだ。
***
『タロ──────君は、そのままで大丈夫だよ』
「…………ん」
目を覚ますと、開け放たれた窓から射し込む国道の灯りを受け、217号室の室内はすでに夕闇に包まれていた。
時計を見れば、次の出勤時間まであと数時間といったところだ。部屋の中に、あの騒がしいミニスカポリスの姿はない。いつの間にかどこかへ出て行ったらしい。
思い出そうにも思い出せない夢の中で響いた声が、妙に耳の奥にこびりついて離れなかった。
俺は重い身体を起こすと、まだ出勤前だというのに、何かに突き動かされるように部屋を出て、ホテルの裏手に広がる森林公園へと足を運んでいた。
国道に掛かった橋から見下ろすそこには、大きな川が流れ、古びた水車小屋がゆっくりと回っている。
見上げれば緑の苔むしった大きな橋がかかっていてその下から水車小屋までの全面は「湿生植物園
」になっている。
周辺には小さな釣り堀やBBQ場、不釣り合いなモダン建築の焼肉屋、そして夕暮れの空にはネオン輝く大きな城が浮かんでいた。
昔、初恋の彼女と出会ったのも、この場所だった。
あれから幾度も、淡い期待を込めてここへと足を運んでいるが、彼女とはあの日以来、一度も出会えていない。
詩七美さんの言っていた大人になって見ないと分からない事。
今思えば、あの日、父親はあのホテル『VEGA』へ仕事で来ていて、その間、邪魔な俺に暇を持て余させてここに放置していたのだろう。
当時の俺は、まさか父親がラブホテルに関連する仕事をしているなどとは思わなかったし、そもそもの話『ラブホテル』という存在すら知らなかった。ただ、駐車場の脇を通り過ぎる間、あの建物を『なにか珍妙なお城のようなもの』だと認識していた記憶だけがある。
――そう、あの日は確か、春のまだ少し肌寒い日だった。
俺の誕生日だというのに、朝からあちこちと連れ回され、特別なお祝いなんかも無く、ただ父親の仕事の用事に付き合わされた日。
父を待つ間、手近な石に腰掛けて回り続ける水車小屋を、一人、母に貰った画材一式を手に静かに絵に描いていた。
数時間後、ようやっと父が迎えに来たと思えば最終的には、そこにある釣り堀で、釣り餌の『生きたミルワーム』なんかを思い出したかのように唐突に誕生日プレゼントと称して買い与えられた。
その後もしきりに携帯電話で仕事の通話をする父の背中を前に、俺が一生懸命に描いた水車小屋の絵は、結局ただの一度も見てもらえなかった。
ここは、そんな苦さと甘さが共存した、形容しがたい思い出の跡地である。
「……俺、何やってんだろうな」
遠く橋上に覗く国道にはテールランプの赤い光、大型トラックのハザードランプが頻りに明滅している。
暗がりからあの眩しい光の列はよく見えるのに、あちら側から、この暗い底にいる俺の姿が見えることはない。
まるで二分された世界のように、渋滞する国道、暗く自然音のみの森林公園、相反する二つが、自分の存在を強く否定する。
真っ暗で肌寒くけれどもここは、やけに居心地が良い。
耳に届くのはただ水車の回る軋んだ木と水の音。虫の鳴き声、それから川のせせらぎだけ。
それだけが、静かに響き続けていた。




