Suite.5「潤滑油要らずの彩舞駆とサル共③」
このホテルは彩舞詩七美一人の存在で回っている。
と言っても差支えのない程に、彼女の存在は大きい。
週六日、十七時から六時まで。酷い時にはフロント同様、朝までの延長コース。年間の休日は一ヶ月そこら。
清掃作業は勿論、一部洗濯や棚卸し、品出しに至るまでが彼女の業務だ。午前一時以降のリネンアルバイトは彼女一人のみ。完全に彼女頼みのシフト構成になっている。
あれから数時間。時計の針は午前一時を回っていた。
夕方から夜にかけてのピークをなんとか乗り切り、東雲さんと髭乃くんは退勤時間を迎えて申し訳無さそうに帰路についた。
フロントは相変わらず卯月が一人で回しているが、問題は客室の清掃だ。東雲さん達が抜けた後の現場は、実質的に詩七美さんが一人で請け負う『ワンオペ』状態に突入していた。
次々とチェックアウトしていく客の跡を、彼女は無尽蔵の体力で次々と原状回復していく。
だが、いくらサイボーグとはいえ、やはり人間である以上限界があるはずだ。
「……詩七美さん。休憩!そろそろ休憩しないとダメですよ!」
深夜のフロント業務の傍ら、清掃作業の合間を見計らって助力する。二人で乱れたシーツを剥がしながら、俺はたまらず声をかけた。
「……? でも、お客さん待ってるよ?」
「そう言って、いつも休憩取らないじゃないですか。一応、休憩時間分は給料から引かれてるみたいですし…取らないと損ですよ」
俺の言葉に、詩七美さんはシーツをまとめる手を止めず、淡々とした声で返した。
「タロは……休んでおいで。私は大丈夫。いつものことだから」
「いや、でも……」
「……」
無表情の奥にある静かな頑固さに、それ以上強く追及出来ず俺は折れるしかなかった。
「……すみません、不甲斐ないですが、十分。水だけ飲んで来ますから。その間、ゆっくりやっててくださいね」
「ん……わかった」
小さく頷く彼女を残し、俺は乾いた喉を潤すために一旦控え室へと下がった。
この時点で、勤務開始から既に八時間以上が経過していた。
二時間毎にこうして十分程喉を潤すだけの休憩を挟んだりはするが、基本常に朝までぶっ通しの作業。
そして日勤の社員やアルバイト達が出勤してくる「朝」まで八時間もある、事ここに至ってなおまだ約半分の時間しか経過していないという絶望が疲れきった身体をより一層と重くする。
控え室では、小窓の向こうで待機中の卯月がデスクチェアに寄りかかっていた。
「あの人、ヤバいっすよね〜。マジで文字通りサイボーグっすよ」
画面越しに映し出された詩七美の作業時間『八分』の文字を見ながら、卯月が感嘆とも呆れともつかない息を吐く。
「……でも、今日はなんだか様子が変だったな」
「はぁ?」
「息が上がってたというか……動きにいつもの精密さがない気がするんだよ」
「いや、変わらないっしょ。私から見たらいつも通りの完璧超人・彩舞駆〈サイボーグ〉。パコ太郎が過保護なだけじゃないすか?」
卯月は鼻で笑ったが、俺の胸のざわつきは収まらなかった。たった一ヶ月弱だが、一緒に肩を並べて作業をしているからこそ感じる、微かな違和感。
嫌な予感がして、俺は十分の休憩を待たずにタイマーを切ると直ぐ様立ち上がり、慌てて彼女のいる客室へと向かった。
開け放たれたドアをくぐると、ベッドメイクは中途半端な状態で止まっていて彼女のすがたは無かった。
ふと水周りの方へと意識を視線と共に移せば浴室の方から、シャワーの出しっぱなしの音が微かに聞こえる。
「詩七美さん……?」
入浴をしている事などは有り得ないとは思いつつも、なるべく驚かせないよう、俺は恐る恐る浴室を覗き込んだ。
そして目の前の光景に、息を呑んだ。
連日のワンオペ過労が祟ったのだろう。風呂掃除の最中に誤ってシャワーを捻ってしまったらしく、彼女は服を着たまま頭からお湯を被り、壁に寄りかかるようにしてへたり込んでいた。
「詩七美さんっ!?」
俺は慌てて駆け寄り、ぐったりとした彼女の肩を抱き起こした。普段は冷たいくらいに無機質な彼女の身体が、酷く熱い。
「……タロ…休憩は?」
「喋らないでください。すぐ休ませますから!」
俺は全身ずぶ濡れの彼女を気にせず背負うと、自分の仮住まいである217号室へと運び込んだ。
ベッドに寝かせようとしたが、全身ずぶ濡れの彼女をそのまま放置するわけにもいかない。
「……俺、タオルとか取ってきますから。とりあえず、ちゃんと身体温めてください」
俺の言葉に、彼女は焦点の合わない瞳でこくりと頷き、よろよろと浴室へ向かった。
それから数分。
卯月に事の経緯を伝え、217号室へと戻る。
着替え用のバスタオルと詩七美さんの衣服が乾くまでの間のホテル着を用意して浴室の前で待っていたが、中からはシャワーの音が聞こえるばかりで、一向に気配がない。
まさか、中でまた倒れたんじゃ……。
「詩七美さん! 大丈夫ですか!」
まさか開ける訳には行かないし……などと、事ここに至って尚も下らない悪癖の懊悩を繰り広げ出した頭を強引に振り切り、最悪の事態を想像した俺は、覚悟を決めて浴室のドアを勢いよく開け放った。
キャーッ! という悲鳴が上がり平手打ち…――なんてことは、当然なかった。
「──────タロも……一緒に入りたかった?」
もうもうと立ち込める湯気の中。
シャワーの湯を浴びる全裸の彼女が、振り返りざまに一切の羞恥心を感じさせない無表情で首を傾げた。
だが、俺の視線は彼女の濡れそぼった顔でも、腰程まで伸びた長く艶やかな髪でも…その豊かな胸元でもなく、濡れた背中から腰にかけて、手首までのラインに釘付けになった。
そこには、鮮やかな『蝶の墨』が彫られていたのだ。
「……ッ、失礼しました!!」
俺はタオルを脱衣所に放り投げ、勢いよくドアを閉めた。
分かりやすく心臓が早鐘を打っている。エロティシズムなどではない。俺の厄介な反芻思考が、最悪の妄想を加速させていた。
(蝶の墨……!? しかもあんな一面に……あの詩七美さんが?! いや待てよ、もしかして怖い彼氏や旦那がいてその影響で…それで彼女は無理やり働かされている!?)
先程の卯月と客の揉め事もあってか、任侠映画のようなヤバい背景しか思い浮かばない。
今も聞こえるシャワーの音を背後に、俺は真っ白になった頭を抱え、その場から暫く動けずにいた。
これは、とんでもなく厄介な深淵を知ってしまったのではないかと、頭を抱えて一人震えた。
***
──────そして、満身創痍の明け方。
217号室で休むように言ったはずの詩七美さんは、「仕事、あるから……」とフラフラの状態で現場に復帰し、俺の制止も聞かずに働き続けた。
東雲さん達がいた時間帯はなんとか切り回せたものの、夜間のワンオペ崩壊のツケはやはり大きかった…。
バックヤードには使用済みのリネン袋が山のように積み上がり、翌日分のタオルやシーツのセットも全く用意できていない。満室の客を捌くだけで精一杯の、一進一退まさに泥仕合だった。
「おっ。昨日は前年比を大きく超えたな」
いつの間にか姿を消し、いつの間にやら出勤してきた店長が、パソコンの売上データを見て暢気な声を上げる。
「全盛期とは程遠いみたいっすけどね」
死んだ魚のような目をした卯月が、何本目とも分からないエナドリを寝ぼけ眼でちびちび啜りながら吐き捨てた。
それもそのはずだ。人員は最盛期の半分以下。極小数の、誰か一人でも欠けたらシフトが回らないようなギリギリの綱渡りで営んでいる。
故に、たとえスタッフの質やサービスの問題を改善して客足が戻ったとしても、今のままでは物理的に捌けるスタッフの数が足りないのだ。
「問題は、スタッフの質だけじゃなくて、数もか……」
俺の呟きに、卯月が肩をすくめる。
スタッフの増員。それには当然、ある程度上向きな売上が安定的に確保されていることが条件になる。故に、まずは今いるスタッフで、今日のような一日を取りこぼしなく回せるようになるしかない。
「そういえば、なんでこんなに人手不足なんだ?」
ふとした疑問を口にすると、卯月は少しだけ声を潜めた。
「二年前の、ホテルのリフォーム前っすよ。そのタイミングで、当時のスタッフのほとんどが一斉に辞めたらしいっす」
「一斉に……?」
「そう。今残ってるのは店長と、詩七美さんと、日勤の小山のおばちゃんくらい。……ま、辞めた理由は、私も知らないっすけどね」
二年前のリフォーム。一斉退職。
そして、リフォームされずに残された、俺の住む217号室。
点と点が線で繋がるような、しかし決定的な何かが欠けているような、得体の知れない不気味な気配。
新たな謎と不穏な空気を残しつつ、俺の激動の一日が幕を閉じた。




